第19話 マリー・キュリーちゃん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三四年、フランスのパッシーからお越しの、マリー・キュリーちゃん。享年六十六歳。……繰り返します。マリー・キュリーちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、備品のダンボールに分厚い鉛の板を貼り付けた即席のシールドに隠れ、ホームセンターの防塵マスクと分厚いゴム手袋という重装備でカウンターから顔を出した。
「……信じられないわ。この空間を満たしているエネルギー、熱力学の法則を完全に無視している。それにこの発光現象……魂の半減期はいったいどれくらいなのかしら。ああ、試験管とノートがないのが悔やまれるわ!」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子に座り、虚空を見つめてブツブツと呟いている初老の女性がいた。
黒を基調とした質素で実用的なドレス。髪は白く縁取られ、その顔には長年の過酷な研究による深い疲労が刻み込まれている。しかし、その瞳だけは、未知の現象を前にした少女のように爛々《らんらん》と知的な光を放っていた。
歴史上初めて、そして唯一、物理学賞と化学賞という二つの異なる分野でノーベル賞を受賞した稀代の天才科学者、マリー・キュリー。
そして何より恐ろしいことに、彼女のポケットのあたりからは、ぼんやりと青白い、不気味な光が漏れ出していた。
「あ、あのー! マリーさん! お取り込み中すみませんけど、そのポケットで光ってる石、今すぐ鉛の箱か何かにしまってもらえませんか!? 私まだ生きてるんで、細胞のDNAが破壊されちゃう!」
私が鉛の盾の裏から涙声で叫ぶと、マリーはきょとんとした顔で私を見た。
「あら、ごめんなさいね。これは私の可愛いラジウムよ。暗い実験室でノートを取る照明代わりにもなって便利なの。でも安心して、あなたはもう死んでいるんでしょう? なら放射線障害の心配はないわ」
「だから私まだ生きたままここでバイトしてるんですってば! 労災下りないんだからしまって!」
私が分厚い陶器のマグカップに入れた温かいコーヒーを、長いマジックハンドでカウンターの端に置くと、彼女は素直に青く光る石を分厚い手帳の間に挟み込んだ。
「……それにしても」
マリーはコーヒーの香りを嗅ぐと、先ほどまでの科学者としての興奮が嘘のように、ひどく老いぼれた、弱々しい顔つきになった。
「私は、本当に死んでしまったのね。私は、ただ科学の美しさに魅了されていただけだった。でも……『女のくせに』と学会から冷遇され、マスコミにはあることないこと書かれ……それでも負けまいと意地を張って。気づけば研究所に引きこもり、暗い部屋でこの青白い光だけを頼りに生きてきたわ」
偉大な『キュリー夫人』という称号の裏に隠された、孤独な研究者の本音。命を削り、世間から石を投げられても科学を手放せなかった彼女の「悲痛なまでの孤独」が、そこにあった。
私がかける言葉を探していた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、バイオリンのひどい不協和音と共に、ボヤキのような男の声が響いた。
「——まったく、計算が合わない! マリー、君のそのポケットの石のせいで、私の髪の毛の静電気が限界を突破しているじゃないか! 元から爆発しているとはいえ、これは異常だ!」
そこに立っていたのは、本当に爆発したようなボサボサの白髪に、ヨレヨレのセーターを着た老人だった。足元を見ると、なぜか靴下を履かずに素足のまま革靴を突っかけている。
二十世紀最大の物理学者、アルベルト・アインシュタイン。
「ア……アルベルト!? なぜあなたがここに? ピエール(夫)はどうしたの!?」
「やあマリー。ピエールなら今、四次元空間の座標系についてニュートンと大喧嘩していてね。だから、スイスのアルプスを一緒にハイキングした旧友の私が迎えに来たのさ。それにしても……」
アインシュタインは持っていたバイオリンを置き、やれやれと肩をすくめた。
「君は昔から実験に夢中になりすぎる! その石のせいで君は体を壊したんだぞ! 君たち実験主義者は、少しは思考実験という安全なアプローチを学んだらどうだい?」
迎えに来て早々、世紀の天才物理学者がクレームを入れ始めた。すると、先ほどまで孤独に黄昏ていたマリーの瞳に、バチバチと科学者のプライドの火花が散った。
「相変わらず口先だけの理論物理学者ね! 靴下も履かずに黒板に数式を書き殴るだけのくせに! 私のラジウムの輝きは、あなたの頭の中の空想なんかよりずっと美しくて現実的なのよ!」
「なんだと!? 私の相対性理論がなければ、君の放射能のエネルギーの出処も説明つかないだろうが!」
「あら、私は自分の目で見たものしか信じないわ! E=mc²? 紙の上の数式で人を救えると思って!?」
冥界の待合室で勃発した、「理論物理学」vs「実験化学」の最高峰の超理論マウント合戦である。
「あのー……」
私は鉛の盾の裏から、無表情でマジックハンドを振った。
「天才同士でノーベル賞級の口喧嘩するのやめてもらえます? 難しすぎて私の脳細胞が死滅しそうなんですけど」
私がツッコミを入れると、アインシュタインは「おっと、すまない」と頭を掻き、ふっとその表情を、長年の友に向ける優しく、深いものへと変えた。
「……マリー。君は、世間が君をバッシングしていた一九一一年のことを覚えているかい?」
「ええ……忘れるはずないわ。誰もが私を非難して、研究所から引きずり出そうとした」
「あの時、私は君に手紙を送ったね。『下劣な連中の言うことなど読むな。そんなゴミは爬虫類にでも任せておけ』と」
アインシュタインは、ボロボロになったマリーの小さな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「私は、あの言葉を今でも取り消さない。君は私が知る中で、最も美しく、最も純粋で、最も勇敢な科学者だった。偏見と闘い、悲しみと闘い、自然の謎と闘い抜いた。……もう、重いビーカーを持つ必要はない。本当によく頑張ったね、マリー」
その言葉を聞いた瞬間、マリーの目から、せき止めていたものが溢れ出すように大粒の涙がこぼれ落ちた。
女だからと蔑まれ、スキャンダルで泥を塗られ、それでも一人で歯を食いしばってきた。その孤独な戦いを、世界で一番頭の良い男が、誰よりも深く理解し、心の底から称賛してくれたのだ。鉄の女と呼ばれた天才科学者が、ただ一人の人間として、声を出して泣いた。
「それにね、あの世の物理法則は現世とはまったく違う。ブラックホールの内側みたいな矛盾だらけの世界だ。私一人の頭脳では到底証明できない。君の優秀な実験の腕が、どうしても必要なんだよ」
「アルベルト……っ」
マリーは涙を拭い、まるで新しいおもちゃを見つけた少女のように、再び瞳を爛々と輝かせた。
「ええ、分かったわ。あなたのその穴だらけの仮説、私の実験で完璧に証明してあげる!」
私は無言で、マジックハンドを使ってタブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ行こうか。まずは量子力学の不完全性について議論しようじゃないか」
「あなた、まだあの確率論(神はサイコロを振らない)を否定しているの? 本当に頑固ね」
二人は、現世でハイキングをした時のように、楽しそうに高度な物理学の議論を交わしながら光の道へと歩き出していく。
「受付の青年、コーヒーごちそうさま!」
光に溶ける直前、アインシュタインは私の方を振り返り——有名なあの写真と全く同じように、ペロッと舌を出してお茶目に笑った。
「ええ。向こうでは、放射線の出ない安全な実験を楽しんでくださいね」
私が防塵マスク越しに深く会釈をすると、人類の歴史を照らした二人の天才は、やかましくも楽しげな笑い声と共に、光の中へと溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、天才ってのは死んでも研究をやめられない、好奇心のバケモノなんだな」
私が分厚いゴム手袋を外し、ようやく鉛の盾の裏から出て大きく背伸びをした、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私はインカムを握りしめ、天を仰いだ。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九九八年、日本の東京、東京競馬場からお越しの、サイレンススズカくん。享年五歳。……繰り返します。サイレンススズカくんをお預かりしております——』
「……五歳!? しかも東京競馬場からって……今度は競走馬かよ!」
私は、ハチ公やティラノサウルスが来た時のドタバタを思い出しながら、慌ててカウンターの中からタブレット端末を引きずり出した。
「沈黙の日曜日……あの『異次元の逃亡者』のお出ましじゃないか! こんな狭い待合室でトップスピードの大逃げなんか打たれたら、ガウディがせっかく直してくれた壁がまたぶち抜かれるぞ! ていうか、馬の食べるものなんて備品にあったか!? ハチ公の高級ジャーキーは食べないだろうし……リンゴか!? 最高級の角砂糖か!?」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私に平和な定時退社を許す気は一切ないらしい。私は猛スピードで「冥界通販」の検索窓に『にんじん 特上』と打ち込みながら、次なる「最速の迷子」を迎える覚悟を決めた。




