第18話 始皇帝くん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前二一〇年、中国大陸の沙丘からお越しの、嬴政くん。——秦の始皇帝くん。享年四十九歳。……繰り返します。始皇帝くんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、古代中国語の通訳機をインカムに同期させながら、胃薬を水で流し込み、深々とため息をついた。
「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!! 朕は不老不死の霊薬を飲んだはずだ! 徐福の奴め、朕を騙しおったな! ここが仙人の住まう蓬莱山ではないことくらい、この安っぽい床の感触で分かるわ!」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子を蹴り飛ばし、待合室の中央で怒り狂っている男がいた。
豪華を極めた漆黒の袞龍の御衣に身を包み、頭には玉のすだれが垂れた冠を被っている。しかし、その顔色は気味が悪いほど青白く、唇は完全に紫に変色し、ひどく不健康に痩せこけていた。
彼が「不老不死の霊薬」と信じて毎日飲み続けていた『水銀』による強烈な中毒症状である。
五百年続いた戦乱の世を終わらせ、中国大陸を初めて統一した中華の唯一王、秦の始皇帝。
「あのー、始皇帝さん。お気持ちは分かりますが、蹴り飛ばしたその椅子、経費で買った備品なんで壊さないでくださいね。とりあえず、温かいジャスミン茶でも飲んでデトックスしましょうか」
私が業務用ポットで淹れたジャスミン茶を紙コップで差し出すと、始皇帝は血走った目で私をギロリと睨みつけた。
「無礼者ッ! 朕を誰だと思っている! 三皇の徳を超え、五帝の功に勝る『皇帝』なるぞ! そのようなペラペラの紙の器で茶を出すとは何事だ! 玉の杯を持て! あと、朕を守るための兵馬俑八千体と、馬車をここに並べよ!」
「はいはい、ここはあの世なんで、兵馬俑も黄金も経費で落ちないんですよ。それに、不老不死なんてこの世にないんです。あなた、残念ながらバッチリ死んでますから」
私の事務的な事実宣告に、始皇帝の顔がピクリと引きつった。
「……死んだ。この朕が、死んだというのか。五百年の争いを終わらせ、度量衡を統一し、あんなに血を流して築き上げた帝国が……」
始皇帝はガクンとその場に膝をついた。
「……あの、言いにくいんですけど」
私は、タブレットの歴史データベースを見ながら、ため息交じりに告げた。
「あなたが死んだ後、側近の趙高と李斯が遺言を偽造して国を乗っ取りましてね。あなたが築いた秦帝国、たった十五年で滅亡しちゃいましたよ」
「なっ……!? じゅ、十五年……だと……!?」
始皇帝は紫色の唇をワナワナと震わせ、信じられないものを見るように私を見上げた。
「馬鹿な……! 人の世を、光で……『光』で満たそうとした朕の理想が……たったの十五年で!? ああ……朕は間違っていたのか……っ」
享年四十九歳。
神になろうとした男が、あまりにもあっけない帝国の崩壊を知り、絶望のどん底で頭を抱えた——その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、待合室の空気を一変させるほどの、圧倒的で巨大な「富」と「野心」のオーラがなだれ込んできた。
「——ハッハッハッハッ! 相変わらず、肩肘張って生きておられたようですなァ! 大王様……いや、始皇帝陛下!」
豪快で、腹の底に響くような野太い笑い声。
そこに立っていたのは、尋常ではないほど恰幅が良く、古代中国の最高の絹と宝石で身を飾った、巨大な壁のような商人上がりの男だった。
「りょ……呂不韋……!!」
始皇帝が、床から弾かれたように顔を上げた。その紫色の顔が、今度は怒りで真っ赤に染まる。
「貴様、なぜここに! 朕が相国の座から追放し、絶望して毒をあおって死んだはずの貴様が!」
呂不韋。
一介の商人から秦のトップにまで上り詰め、若き日の始皇帝(嬴政)の後見人として絶大な権力を振るった巨魁。のちに政と対立し失脚した男であり、何より歴史上、「始皇帝の本当の父親なのではないか」と噂され続けている因縁の人物である。
「なぜ、と問われますか。決まっておりましょう。法的な記録はともかくとして、この私があなたの『保護者』として最もふさわしいと、あの世のシステムが判断したのですよ」
「黙れェェェッ! 誰が貴様の子だ! 朕の父は荘襄王ただ一人! 帰れ! 今すぐ帰れ! 朕は中華の唯一王だぞ!」
「中華の唯一王ねえ……」
呂不韋は、ニヤニヤと笑いながら、床にうずくまる始皇帝を見下ろした。
「『人の世を光で照らす』とかカッコいいこと言っておいて、水銀の飲み過ぎで顔が紫色に発光しておりますぞ。それに、先ほど聞こえましたが、たった十五年で国がぶっ壊れたんですって? いやはや、私が生涯を賭けた『最大の投資』としては、いささか回収期間が短すぎましたなァ!」
「ぐっ……! 趙高のバカ共が……ッ!」
「武力で無理やり一つにまとめるから、反発が起きるのですよ。だから言ったでしょう? 天下を丸く治めるのは剣ではなく、『金』だと!」
呂不韋がこれ見よがしに懐で硬貨をジャラリと鳴らすと、始皇帝はギリッと歯を食いしばった。
若き日、天下の統治を巡って真正面からぶつかり合った「武力と法(光)」vs「経済(金)」のイデオロギー対決が、まさかの死後の迷子センターで再燃しているのだ。
「……だが」
呂不韋は、ふっと意地悪な笑みを引っ込め、その巨大な手で、始皇帝の痩せこけた肩をポンと叩いた。
「誰も成し遂げられなかった五百年の戦乱を終わらせ、中華という巨大な盤面を、たった一人で抱きしめた。あの趙の国で震えていたみすぼらしい人質の子が、私をも乗り越え、よくぞそこまでやり遂げたものだ」
「呂不韋……」
「十五年で国は滅びたかもしれない。だが、あなたが残した『中華統一』という概念は、この先何千年と続く巨大な市場を作った。……ええ、やはり私の目に狂いはなかった。あなたは間違いなく、私が人生を賭けた最高の『大商い』でしたぞ、大王様」
誰よりも孤独に、暗殺に怯えながら玉座に座り続けた四十九年。そのすべてを知り、かつて本気で殺し合ったほどの男から「よくやった」と認められた瞬間。
皇帝の肩から、重すぎる「天下」という呪縛が、スゥッと抜け落ちていくようだった。
「……フン。相変わらず、すべてを商売に結びつける金の亡者め」
始皇帝は、紫色の唇の端を少しだけ上げ、ジャスミン茶の紙コップを一気に飲み干した。
私は無言で、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行きましょうか、大王様。実は私、すでにあの世の三途の川の渡し賃の相場を操作して、物流を牛耳るビジネスを立ち上げましてな! あなたには、その名誉顧問として……」
「死んでまで商売をする気か貴様は! ええい、勝手にしろ! だが、利益の半分は朕がもらうからな! 法でそう定める!」
「ガッハッハッ! 相変わらず強欲なことだ! ……やはり、血というものは恐ろしい」
「なんだと?」
「いえ。天下のすべてを己の掌中に収めようとするその尽きせぬ野心と強欲さ。顔立ちこそ荘襄王に似ておいでだが、その奥底で燃える『業』は、果たして誰から受け継いだものかと思いましてな」
呂不韋は、商人特有の食えない笑みを浮かべたまま、始皇帝の瞳の奥をじっと覗き込んだ。
始皇帝は一瞬息を呑み——やがて、フッと鼻を鳴らした。
「……たわけが。朕は、誰の子でもない。朕は、始まりの皇帝だ」
その言葉は力強かったが、彼がふと浮かべた不敵で野心的な笑みは、カウンターの中から見ている私には、隣に立つ呂不韋のそれと、ゾッとするほど全く同じものに見えた。
(……なんだかんだで、似た者同士なんじゃないか?)
真相は、三千年の歴史の闇の中だ。
古代中国の最高のカリスマと最強の商人は、なんだかんだで息の合った様子で、光の道へと歩き出していく。
「受付の者、見事な茶であった! 水銀よりよほど体に良さそうだ! あの世のビジネスの折には、お前も引き抜いてやろう!」
「いえ、私は公務員気質なんで遠慮しときます。向こうでは、くれぐれも変な薬に手を出さないでくださいね」
私が軽く会釈をすると、互いの才覚を誰よりも認め合った二人の巨大な影は、豪快な笑い声と共に光の中へと溶けて消えていった。
「ふぅ……。結局、光だの金だの言っても、一番強いのは『図太いオヤジの図々しさ』ってことだな」
私が大きく伸びをして、始皇帝が蹴り飛ばしたパイプ椅子を定位置に戻した、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は思わず持っていた台布巾を床に叩きつけた。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一九三四年、フランスのパッシーからお越しの、マリー・キュリーちゃん。享年六十六歳。……繰り返します。マリー・キュリーちゃんをお預かりしております——』
「……六十六歳。今度はノーベル賞を二度も取った天才科学者かよ!」
私は、インカムの言語をフランス語に切り替えながら、慌てて待合室に「放射能注意」の防護マニュアルがないか探し始めた。




