第17話 ジャンヌ・ダルクちゃん
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。西暦一四三一年、フランスのルーアンからお越しの、ジャンヌ・ダルクちゃん。享年十九歳。……繰り返します。ジャンヌ・ダルクちゃんをお預かりしております。心当たりのある保護者の方は、至急、冥界迷子センター第一ターミナルまでお越しください』
ピンポンパンポーン。
無機質で事務的な電子チャイムの音が、蛍光灯のチカチカと瞬く殺風景な待合室に響き渡った。
私、迷子センター受付係のナナシは、フランス語の通訳機をインカムにセットし、たっぷりマシュマロを浮かべた甘いホットチョコレートの紙コップを両手で包み込むようにしてカウンターを出た。
「熱い……熱いよぉ……っ。誰か、助けて……」
幼児用の黄色いプラスチック製パイプ椅子の上で、一人の少女が膝を抱えてガタガタと震えていた。
短く刈り揃えられた髪。煤で真っ黒に汚れ、焼け焦げた粗末な白い麻布の服。彼女の細い手には、木の枝を二本縛って作られた即席の小さな十字架が、折れんばかりの力で握りしめられている。
フランスを滅亡の危機から救った「オルレアンの乙女」、ジャンヌ・ダルク。
だが、その正体は、文字の読み書きすらできない、ただの純朴な十九歳の農娘にすぎなかった。
「……あのー、ジャンヌさん。もう火は点いてないから大丈夫ですよ。とりあえず、これ飲んで落ち着いて」
私が甘い香りのするホットチョコレートを差し出すと、彼女はビクッと怯えたように身をすくませ、おずおずとそれを受け取った。
「ありがとう……ございます……。ここは、天国ですか? 私、火あぶりにされて……すごく、すごく痛くて、苦しくて……」
ジャンヌの大きな瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
これまでの歴戦の英雄たちのような怒りはない。彼女をこの迷子センターに縛り付けているのは、火刑というあまりにもむごたらしい死の恐怖と、もう一つの、深く暗い「疑念」だった。
「私……神様の声を聞いたんです。フランスを救えって。だから、剣を握って、血を流して、王様のために戦ったのに……最後は魔女だって言われて、誰にも助けてもらえなくて……」
彼女は、握りしめた木の十字架を見つめ、声を震わせた。
「神様は、私を捨てたんでしょうか。それとも……全部、私の幻聴で、私はただの頭のおかしい田舎娘だったんでしょうか……? 私がやったことは、全部、間違いだったの……?」
自らの命を懸けた「信仰」そのものが根底から揺らいでしまった絶望。
祖国を救った代償が、十九歳での非情な火あぶりである。彼女の魂が迷子になるのも無理はない。私がかけるべき言葉を探して口ごもっていた、その時だった。
ウィーン。
センターの自動ドアが開き、重く、引きずるような金属音が響いた。
「——いいや。君は本物の、誰よりも純粋な聖女だった」
かすれた、地を這うような男の声だった。
そこに立っていたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ、大柄な騎士だった。しかし、その姿は異様だ。甲冑は泥とどす黒い血にまみれ、彼の顔には深い絶望と狂気の影がべっとりとへばりついている。
ジル・ド・レ。
ジャンヌの戦友であり、彼女と共にオルレアンを解放したフランスの救国の英雄。しかし、ジャンヌが処刑された後、絶望から狂気に堕ち、錬金術や黒魔術に手を染め、無数の子供を手にかけた「青ひげ」のモデルとなった男である。
「ジル……! ジルなの!?」
ジャンヌが立ち上がろうとしたが、ジル・ド・レは「来るな!」と叫び、自ら床に膝をつき、両手で顔を覆った。
「俺に近づくな、ジャンヌ……! 俺は、君が火あぶりにされた後、君を見殺しにした王も、君を救わなかった神も、すべてを憎んだ。そして、地獄に落ちるようなおぞましい罪を重ねて、悪魔になった男だ……!」
泥と血にまみれた騎士は、冥界の床に頭を擦りつけんばかりにして慟哭した。
「君を迎えに来る資格など、俺にはない! だが……だが、どうしても一目、君に会いたかった! 君の戦いが無駄じゃなかったと、君は確かに俺たちの光だったと、それだけを伝えたくて……っ!」
自らの罪の重さに押し潰され、地獄の底から這い出してきたような男の懺悔。
ジャンヌはゆっくりと彼に歩み寄ったが、その足は途中でピタリと止まった。彼女はジルの全身にへばりつくどす黒い気配——彼に無残に命を奪われた、無数の小さな魂たちの絶叫を感じ取り、サッと顔を蒼白にさせた。
「ジル……あなた、なんて恐ろしいことを……」
「そうだ……! 俺は狂った。君を見殺しにした世界を憎み、神を呪い、何の罪もない子供たちを……!」
ジルは自らの罪のおぞましさに耐えきれず、激しく嘔吐するようにむせび泣いた。
ジャンヌは悲痛な顔で震える男を見下ろしていたが、やがて静かに歩み寄り、その泥と血にまみれた頬を小さな両手で包み込んだ。
「ジャ、ジャンヌ……!? 触るな! 俺は地獄に落ちるべき、おぞましい汚物だ!」
「ええ。あなたの犯した罪は、決して許されるものじゃないわ。どんなに泣いても、どんなに後悔しても、あなたが奪った命は二度と戻らない」
それは、オルレアンの乙女としての厳しく、哀しい声だった。しかし、彼女の手はジルの頬から離れない。
「でも……あなたがそこまで絶望してしまったのは、私が火あぶりにされるのを、私が『魔女』として死ぬのを、ただ見ていることしかできなかったからなのね」
「……っ!」
「ごめんなさい、ジル。あなたを独りぼっちにして。あなたを、こんな冷たい闇の中に置き去りにしてしまって」
ジャンヌの大きな瞳から、ジルの汚れた頬へと大粒の涙が落ちた。その涙が触れた場所から、どす黒い血の汚れが、ほんの少しだけ薄まっていく。
「私は、あなたのしたことを許さない。神様だって絶対に許さないわ。……だから、一緒に地獄へ行きましょう、ジル」
「な……何を言っているんだ、ジャンヌ! 君は光だ、天国へ行くべき清らかな魂だ!」
「一人で天国に行ったって、ちっとも嬉しくないもの。あなたが何百年、何千年かけて、その恐ろしい罪を償うのかは分からない。でも、もう二度とあなたを独りにはしないわ。あなたが地獄の業火で焼かれ、すべての罰を受け終えるその日まで、私がずっと、あなたのそばにいてあげる」
狂気に堕ちた元帥は、十九歳の少女のまっすぐな言葉に目を見開き——やがてその場に伏して、声にならない声を上げて泣き崩れた。
「ああ……ジャンヌ……っ! 俺の、俺のたった一つの光……っ!」
神の奇跡や無責任な免罪符よりも、共に地獄へ落ち、果てしない絶望の道を共に歩んでくれるという決意こそが、彼の魂を底なしの泥沼から掬い上げる、唯一の救済だったのだ。
私は無言で、タブレットの「引き渡し完了」ボタンをタップした。
ピロン、という電子音と共に、二人の足元に真っ白な光の道が現れる。
「さあ、行きましょう、ジル。償いの道は、とても長く険しいわよ」
「は、はい……! この身がとうに砕け散ろうとも、どこまでも、あなたのお供をいたします……!」
血の涙を流しながら立ち上がった騎士に付き添われ、ジャンヌはホットチョコレートの空の紙コップを私に向かって軽く掲げた。
「受付のお兄さん、甘くて美味しかった。……ありがとう」
「ええ。どうか、お気をつけて」
私が深く頭を下げると、フランスの歴史を揺るがした二人の英雄は、厳しい、けれど決して孤独ではない償いの旅へと出立していった。
「ふぅ……。神の奇跡より、たった一人の理解者のほうが、人の心は救われるってことだな」
私がホットチョコレートの甘い匂いが残る待合室を片付けようと、ゴミ袋の口を結んだ、その時だった。
ピンポンパンポーン。
休む間もなく、無機質なチャイムが響き渡る。
それに続いて流れてきたアナウンスに、私は結んだゴミ袋を床に落としそうになった。
『——お客様のお呼び出しを申し上げます。紀元前二一〇年、中国大陸の沙丘からお越しの、嬴政くん。——秦の始皇帝くん。享年四十九歳。……繰り返します。始皇帝くんをお預かりしております——』
「……はぁ!? 今度は紀元前の中国!? しかも、不老不死を求めて水銀飲んじゃった史上初の中華皇帝かよ!」
私は、スケールが大陸規模に跳ね上がった案内に頭を抱えながら、慌てて古代中国語の通訳機と、彼が暴れた時のための特大サイズの胃薬を探し始めた。
「兵馬俑の軍団ごと待合室に押し入ってこないだろうな……! 絶対に経費じゃ落ちないからな!」
どうやら今日の冥界迷子センターも、私に平和な定時退社を許す気は毛頭ないらしい。私は深い絶望とともに、次なる「絶対的な権力者」を迎える覚悟を決めた。




