06 特別扱い
水瀬から本を借りて数日。
薄っすらと視界にモヤはかかるものの、以前のように完全に真っ白になって逃げ出してしまうことはなくなった。
少しずつだけど、彼女と「普通に」話せるようになってきた——そんな密かな手応えを感じていた、ある日の昼休み。
「水瀬さんってさ、前の学校で部活何入ってたの?」
「あ、陸上部だよ。短距離やってたんだ」
教室の後ろで、男子グループの中心にいるクラスメイトが、水瀬の席の周りに集まって楽しそうに話していた。
水瀬はいつも通り、穏やかで自然な笑顔で相手の質問に答えている。
誰に対しても分け隔てなく接する彼女の周りには、自然と人が集まる。
(……まあ、そうだよな)
自分の席で文庫本を開いたまま、俺はページをめくる手を止めた。
転校してきたばかりの頃はどこか遠慮がちだった水瀬も、今ではすっかりクラスに馴染んでいる。
話しかけている男子は運動部で明るく、誰とでも物おじせずに話せるタイプだ。俺みたいにいちいち緊張して目が見えなくなったりもしない。
水瀬がその男子に向かって楽しそうに笑うたび、胸の奥がキュッと締め付けられるような、モヤモヤとした重い感覚が広がる。
(俺だけが特別みたいに思ってたのか……?)
同じマイナーな作家が好きで、放課後の図書室で二人きりで本を貸し借りして。
勝手に「特別な時間」だと思い込んで舞い上がっていたのは自分だけだったんじゃないかという考えが頭をよぎり、胸の奥がチクチクと痛む。
自分が情けなくて、俺は文庫本に落ちていた視線を無理やり手元に戻した。
文字を追いかけようとしても、さっきまでの軽い嫉妬と焦りが邪魔をして、内容はまったく頭に入ってこない。
「一ノ瀬くん」
不意に、すぐ近くから声がした。
「わっ……」
思わず小さく声を漏らして顔を上げると、いつのまにか自分のデスクの横に水瀬が立っていた。
ドクン、と跳ね上がる鼓動。
視界の端からすーっと薄いモヤが広がっていく。けれど、今日の動悸はいつもと少し違っていた。
緊張だけじゃなく、胸の奥の重いモヤモヤが混ざり合っている。
「びくってしすぎ」
水瀬は小さく笑うと、俺の机の上に置かれた本に視線を落とした。
「その本、もう半分くらい読んだんだ? どう、面白かった?」
周りにいた男子たちの視線を背中に感じながら、俺は少しだけ言葉に詰まる。
「……あ、うん。面白い。……水瀬は、もうみんなと仲良くなったんだな」
思わず口から零れ落ちてしまった、自分でも驚くほど素っ気ない言葉。
言ってしまってから「やばい」と後悔した俺の顔を、水瀬は一瞬だけ不思議そうに見つめた。
そして、何かを察したように少しだけ目を見開くと、ふっと柔らかく目を細めた。
「うん、みんな親切にしてくれて嬉しいよ。……でもね」
水瀬は少しだけ身を乗り出すと、周りに聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「この本の話ができるのは、一ノ瀬くんだけだから」
視界が真っ赤になった。




