04 咲いた花は
放課後。夕闇が差し込む図書室は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
高い本棚の隙間を吹き抜ける秋の風。
約束の窓際の席に向かうと、水瀬はすでにそこに座っていた。
テーブルの上には、使い込まれた一冊の文庫本が置かれている。
「一ノ瀬くん、来てくれたんだ」
彼女が顔を上げた瞬間、胸の奥で息を潜めていた芽が暴れ出した。
ドクン、と耳奥を叩く激しい脈拍。
視界の端からすーっと色が引いていき、窓から差し込む斜光の中に彼女の影が溶けて消えていく。
世界が眩い白のモヤへと塗り潰されていく。
(くそっ……やっぱり、ダメなのか)
また目が見えなくなった情けなさに、俺は足をとめて強く拳を握りしめた。
だが、今日は逃げないと決めていた。
「……遅くなって、ごめん」
声のした方向へ手探りで進み、椅子を引き寄せて腰を下ろす。
完全に真っ白な世界。
机の上に指を置くと、木目の微かなザラつきと、カサッと紙が擦れる音がした。
「ううん、私もさっき来たところ。はい、約束の本」
滑り出された本が、朔の指先に触れる。
紙の冷たさと、そこに微かに残る指先の体温。
「この人の本、周りに読んでる人いなかったからさ……一ノ瀬くんと話せて、すごく嬉しい」
白の世界の向こうで、水瀬の声が静かに響く。
自分の好きなものを、同じように好きでいてくれる人がいる。
その純粋な親近感と、飾らない声のトーンが、朔の胸にじんわりと染み込んでいく。
一方で、テーブルを挟んで座る水瀬もまた、文庫本の端をそっと指先でつまみながら、密かに胸を撫で下ろしていた。
(よかった……ちゃんと受け取ってくれた)
転校してきたばかりで、まだ教室にもどこか馴染みきれていない日々。
図書室で偶然見つけた大好きな作家の本と、同じようにその本へと手を伸ばしていたクラスメイトの一ノ瀬くん。
いつも少し遠くからこちらを見ては、声をかけるとどこか苦しそうに目を逸らしてしまう彼。
自分と話すのが嫌なのだろうか——そんな不安が頭をよぎらなかったわけではない。
だからこそ、今日思い切って本を渡すとき、水瀬の心臓もひそかに小さく跳ねていたのだ。
「……うん。俺も、大切に読むよ」
手探りのような、けれど誠実で真っ直ぐな彼の声。
一瞬、二人の間にしんと静まり返った間が生まれた。
外を走る運動部のかすかな声と、夕闇が深まる図書室の沈黙。
「……よかった。断られたらどうしようって、実はちょっとドキドキしてたんだよね」
水瀬は小さく息を吐き出すと、照れくささを隠すように、少し悪戯っぽく囁いた。
完璧に見えていた彼女が見せた、等身大の小さな本音。
その言葉に朔の肩の力がふっと抜け、胸の奥を締め付けていた激しい鼓動が、ゆっくりと凪いでいった。
鼓動が落ち着くにつれて、真っ白だった朔の視界の端から、夕闇の濃いオレンジ色と本棚の影がゆっくりと戻ってくる。
そして——
目の前で、「読み終わったら、感想教えてね」と少し照れくさそうに笑う水瀬の顔が、はっきりと結像した。
彼女もまた、完璧な人間などではなく、自分と同じように言葉を探しながら手探りで距離を縮めようとしてくれていた。
初めて、逃げずに正面から見つめることができた彼女の笑顔。
胸の奥の摘めない芽は、もう痛むだけの存在ではなかった。
白く眩しい世界を乗り越えた先に、二人の距離をそっと縮める小さな花を咲かせようとしているようだった。




