02 純粋さに触れて
放課後の図書室を逃げ出して数日。俺は水瀬から距離を置いていた。
休み時間、隣のクラスから聞こえてくる声。水瀬の周りにはいつも人が集まっている。
誰とでも気さくに話し、笑い合う彼女の姿を、俺は遠くの廊下の陰からただ見つめることしかできなかった。
(やっぱり、俺とは住む世界が違う)
自分の中に芽生えた不格好な感情を、無理やり押し殺そうとしていた時のことだ。
「一ノ瀬くん」
不意に背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。振り返ると、そこには水瀬が立っていた。
(まずい——)
一瞬で耳の奥が熱くなり、ドクドクと鼓動が暴れ出す。視界の端からすーっと色が抜け、白いモヤが広がっていく感覚。
逃げ出そうと足を引きかけたその時、彼女の声が真っ白な世界を遮った。
「待って。逃げないで」
その声は静かだったけれど、不思議なほど真っ直ぐに届いた。
「この前、図書室で倒れそうになってたでしょ。……体調、もう大丈夫なのかなって気になってて」
彼女は、俺がテンパって逃げ出した理由を「体調不良」だと本気で心配してくれていたのだ。
目が見えなくなっていく恐怖の中、俺は必死に階段の手すりに手を伸ばし、視界の潰れた暗闇——いや、白の世界の中で留まった。足が震え、胸の奥の芽が痛いほどに蠢いている。
「あ……うん。もう、平気だから」
喉の奥を絞り出すように答える。
声は裏返っていないか、変な顔をしていないか、何も確認できない。
ただ、目の前の白い光の向こうに彼女がいることだけを感じていた。
「よかった。あの日、なんだかすごく苦しそうだったから……」
水瀬はホッとしたように息を吐き、少しだけ言葉を詰めた。
「私ね、転校してきたばかりで……本当はすごく緊張してるんだ。だから、一ノ瀬くんが図書室で同じ本を取ろうとしてくれた時、すごく嬉しかったのに、すぐ行っちゃったから心配で」
(緊張……? 彼女が?)
白く染まった視界の中で、耳から入る言葉だけが鮮明に響く。
誰の前でも堂々としていて、完璧に見えていた彼女。
けれど、彼女もまた、俺からは見えないところで必死に言葉を紡いでいたのかもしれない。
少しずつ、鼓膜を打つ鼓動の音が落ち着いていく。
視界を覆っていた白いモヤがゆっくりと引いていき、夕暮れの光とともに、目の前に立つ水瀬の姿が輪郭を取り戻した。
「……ごめん。避けてたわけじゃないんだ」
初めて、彼女の顔を正面から見て吐き出した言葉。
水瀬は一瞬驚いたように目を丸くし、それから柔らかく目を細めて笑った。
「うん。……よかった」
視界が晴れても、胸の奥の芽が消えたわけではない。
むしろ、彼女の人間らしい一面に触れてしまったことで、その根はさらに深く、強く張り巡らされていく。
(摘めないなら、もう……)
自分の中で、何かが諦めにも似た覚悟に変わっていくのを感じていた。




