第九話 三日で、食堂の空気が変わりました
働きはじめて最初に手をつけたのは、帳簿ではありませんでした。
食堂です。
初日の昼に、わたくしはそこで飯を食べて、五分で異常に気づきました。
この城には、およそ二百人がおります。守備兵が百二十、文官が三十、使用人が五十ほど。その全員が、正午に食堂へ来るのです。
当然、入りきりません。
列ができて、先頭の兵が食べ終わるころには、後ろの者はまだ立っております。厨房は一度に二百人分を出せませんから、後半の者には冷めたものが回ります。そして皆、冷めた飯を、立ったまま、急いで詰め込んでおりました。
それが、毎日でした。
「……ハンナ。あれを見て、どう思いますか」
「三十年ぶりに、腹が立ってまいりました」
わたくしは、厨房へ行きました。
厨房長は、ヨナスという五十がらみの男です。腕は太く、顔は赤く、いかにも気の短そうな方でした。案の定、わたくしを見るなり、こう言われました。
「王都から来たお嬢さんが、何の用だ」
「二百人分を、一度に出しておいでですね」
「そうだ。それがどうした」
「無理ではありませんか」
「無理だ。無理だから、こうなってる」
ヨナスは、鍋を叩きました。
「文句なら領主様に言いな。おれは十五年、これでやってる」
「文句ではありません。伺いに来ました」
わたくしは、手帳を出しました。
「ひとつめ。この厨房の竈は、いくつですか」
「六つだ」
「一度に何人分を、温かいまま出せますか」
「……七十が限界だな。八十でもう落ちる」
「では、なぜ二百人でいらっしゃるのでしょう」
「そりゃ、昼だからだ。昼飯は昼に食う」
そのとおりです。誰も間違っておりません。ただ、誰も、二百と七十という数字を並べて見たことがなかっただけです。
わたくしは、二日かけて、当番表を全部集めました。
兵の交代は、朝六時、昼二時、夜十時です。文官の持ち場は、朝八時から夕方五時。使用人は仕事の性質でばらばらでした。
つまり、全員が同じ時刻に空いているわけでは、まったくないのです。ただ、昼は昼という理由だけで、全員が同じ時刻に来ていました。
三日目に、わたくしは紙を一枚、食堂の入口に貼りました。
――昼食、三交代。 ――十一時三十分、守備兵一番隊から三番隊。 ――十二時十五分、文官および内務。 ――十三時、守備兵四番隊から六番隊、および使用人。
それだけです。
初日は、案の定、混乱しました。二番隊が十三時に来て、追い返されて、文句を言われました。わたくしは入口に立って、一人ずつ、時刻を言って戻ってもらいました。
二日目は、半分が守りました。
三日目の昼に、食堂の扉を開けて、わたくしは足を止めました。
座って食べていたのです。
全員が、です。席が余っておりました。皿から湯気が出ておりました。誰も列に立っておらず、誰も急いでおらず、話し声がしておりました。
十五年ぶりに、この城の昼飯は、温かうございました。
厨房からヨナスが出てきて、腕を組んで、その光景をしばらく見ておりました。
それから、わたくしのところへ来て、ぼそりと言いました。
「……二百人分を一度に出そうとしてたのが、そもそも間違いだった」
「はい」
「十五年、気づかなかった」
「誰も、数を並べなかっただけです」
ヨナスは、鼻から息を吐きました。
「あんた、次は何をやる気だ」
「発注をまとめます。今、肉と野菜を別の日に、別の業者から、別の伝票で取っておられますね。三日に一度、二軒から、まとめて入れます。運び賃が一本になりますので、月で銀貨四十枚ほど浮きます」
「……浮いた分は」
「厨房に戻します。竈をもうひとつ増やしましょう」
ヨナスは、しばらくわたくしを見て、それから、ぐいと手を出してきました。
握手です。手が、鍋の底のように硬うございました。
その日から、わたくしは食堂で、一日に何度も同じ言葉を聞くようになりました。
「ありがとうございます」
配膳の列を通るときに、兵から言われます。
「補佐官様、助かりました」
文官が、廊下ですれ違いざまに言います。
「今日のは、温かかったです」
洗い場の少女が、言います。
……慣れません。
正直に申し上げますと、最初の数日は、そのたびに歩みが止まりました。なぜこの人はわたくしに話しかけたのだろう、何か不手際があったのだろうか、と考えてしまうのです。三年間、声をかけられるのは、何かが足りないときだけでしたから。
ハンナに、その話をしました。
ハンナは、繕い物の手を止めて、こう申しました。
「奥様。それは、当たり前のことでございます」
「当たり前、ですか」
「はい。……ですから、慣れてくださいませ」
夕方、帳簿の部屋に戻ると、扉の外にレオンハルト様が立っておられました。
用があるのかと思って身構えましたが、どうやら、たまたま通りかかっただけのようでした。
「食堂の件、聞いた」
「はい」
「兵の苦情が、三日で止まった」
「時刻を割っただけです」
「割るという発想が、十五年なかった」
レオンハルト様は、それだけおっしゃって、行こうとされました。
そして、二歩ほど歩いてから、振り返って、こう付け加えられたのです。
「よくやった」
わたくしは、扉の前に立ったまま、しばらく動けませんでした。
ハンナの言うとおりです。当たり前のことなのでしょう。
……当たり前のことが、こんなに重たいとは、思いませんでした。




