第十話 一方その頃、公爵家の晩餐は冷めていました
辺境に来て、ひと月が経ちました。
その日は、王都から来た隊商の主人と、来年の取引の話をしておりました。名をバルトといって、六十近い、抜け目のない商人です。
話が終わって、茶が出て、そこから先は雑談になりました。商人というのは、こちらの雑談から次の商売の種を拾う生き物です。ですから、わたくしも黙って聞いておりました。
「いやしかし、補佐官様。王都はねえ、今、面白いことになっておりますよ」
「と、申しますと」
「ヴァルトハイム公爵家です」
わたくしは、茶碗を置きました。
置いただけです。手は震えておりませんし、顔にも出しておりません。三年、あの家で暮らした人間の、これは職能のようなものです。
「あちらが、どうかなさいましたか」
「妙なんですよ」
バルトは、身を乗り出しました。
「うちの息子が王都で酒を卸しておりましてね。先月から、あの家の注文が止まったんです」
「止まった」
「ぱったりです。……いや、正確には、注文は来るんですよ。ただ、日付が合わない。届けに行くと『頼んでいない』と言われて、突き返される。翌週になって『なぜ来ない』と怒られる」
「……」
「それだけならまだいいんですが。先々月分の支払いが、まだなんです」
わたくしは、指で膝を一度、叩きました。
支払いの手配は、月末に商会ごとに一括して出しておりました。締め日と、支払いの順序と、どの商会が待ってくれてどの商会が待たないかは、あの六冊目の手帳に書いてあります。
今、あの手帳は、この城のわたくしの部屋の棚にあります。
「催促は、なさらないのですか」
「したそうです。そうしたら、『支払い名簿はどこだ』と、家の中で言い合いになったとか」
バルトは、肩をすくめました。
「まあ、よその家のことですがね。うちは五代、王都で商っておりますが、公爵家が支払いを飛ばすってのは、初めて見ましたよ」
「……そうですか」
それだけ申し上げました。
この方は、わたくしの素性をご存じないのです。ご存じないから、こうして話してくださる。ご存じの方は、こんな話はしません。
「補佐官様、顔色ひとつ変えませんな」
「よその家のことですので」
バルトは、少し笑って、それから茶を飲み干しました。
「さすがです。……ああ、そうだ。ひとつだけ、妙な話がありまして」
「はい」
「あの家、来月の小麦の契約が、まだ出ていないらしいんです」
わたくしは、窓の外を見ました。
雪が降っております。この一週間で、町の屋根がすっかり白くなりました。ここでは、十二月というのはこういうものだそうです。
「そうですか」
「王都じゃ今年、南が不作でしてね。自動更新を逃したら、三割どころじゃ済まんかもしれませんよ。……いや、よその家のことですがね」
「ええ」
バルトが帰ったあと、わたくしは帳簿の部屋に戻って、来年の備蓄計画の続きをやりました。
やりながら、少しだけ、考えました。
十四日は、もう過ぎております。
誰かが気づいて、署名を出したのなら、それでよろしいのです。気づかなかったのなら、金貨で二百四十枚です。この城の守備兵の、半年分の給金にあたります。
わたくしには、もう、関係のないことでした。
関係のないことなのですけれど。
……三年、あの家の米と麦を数えていた人間の癖というのは、なかなか抜けないものですね。
わたくしは羽根ペンを置いて、窓を開けました。雪の匂いがして、冷たい風が入ってきて、机の紙が少しめくれました。
閉めて、仕事に戻りました。
*
同じころ、王都のヴァルトハイム公爵邸では、晩餐の卓に料理が並んでおりました。
十八時に、厨房から出されたものです。
ユリウスが食堂に入ってきたのは、十九時を回ってからでした。リリアと町へ出て、戻りが遅れたのです。マルグレーテ公爵夫人が下りてこられたのは、十九時半。この方は、以前から二十時にお食事をなさる習慣でした。
誰も、悪いことはしておりません。
ただ、三人とも、食堂に来る時刻がばらばらでした。
以前は、そうではありませんでした。前の晩のうちに、翌日の全員の予定が確認されて、その日の晩餐の時刻が決められて、厨房に伝えられて、当日の夕方には各部屋に伝言が回っていたからです。
それを誰がやっていたのか、この家では、誰も知りません。
ですから、その日の晩餐は、誰も手をつけないまま、卓の上でゆっくりと冷めていきました。
肉の脂が白く固まったころ、ユリウスが一言だけ、言ったそうです。
「……今日は、遅いな」
遅くはありませんでした。料理は、一時間半前から、そこにあったのです。




