第八話 給金が、出ます
「そうか」
レオンハルト様は、それだけおっしゃいました。
それから、書棚のほうを向いて、今度は別の綴じを持ってこられました。先ほどの写しより、ずっと分厚いものです。
「では、ひとつ見てもらいたい」
開かれたのは、この領の去年の収支でした。
わたくしは、それを見て、思わず背筋を伸ばしました。
……ひどい、というわけではないのです。数字は合っています。合ってはいるのですが、書き方が古い。品目ごとに一年分を縦に並べているだけで、月ごとの動きが追えません。これでは、どの月に金が足りなくなるかが、年が明けてからしか分からないのです。
しかも、鉱山の出荷と、町の市の売上と、冬の備蓄が、別々の綴じになっています。
「どう見る」
「……申し上げてよろしいのですか」
「訊いている」
わたくしは、指を紙に置きました。
「三点、ございます。ひとつめ。この書き方では、資金がいつ薄くなるかが見えません。鉱山の代金が入るのは春と秋、備蓄の支払いは秋です。つまり、この領は毎年、七月から八月にかけて手元が細るはずです。去年もそうではありませんでしたか」
レオンハルト様の指が、少しだけ動きました。
「……そうだ」
「ふたつめ。鉄の出荷と市の売上が別綴じですので、町の景気が鉱山に連動しているのかどうかが分かりません。連動しているなら、鉱山が止まった月に市の税収も落ちます。その備えが必要です」
「みっつめは」
「みっつめは、こちらの数字の癖です」
わたくしは、頁をめくって、木材の項目を指しました。
「この単価だけ、二年前から動いておりません。他は全部、多少なり上下しております。……動かない数字は、たいてい、誰かが数えていない数字です」
部屋が、静かになりました。
言いすぎたかもしれない、と思いました。初対面の領主様に向かって、あなたの領地の帳簿は古いと申し上げたのです。王都でしたら、それだけで追い出されます。
レオンハルト様は、しばらく紙を見ておられました。
それから、こう言われました。
「うちに来い」
わたくしは、まばたきをしました。
「……は」
「財務補佐官として雇う。今の帳簿を全部作り替えてもらいたい。木材の件は、明日から調べさせる」
早うございます。あまりに早うございました。
「レオンハルト様。……失礼ながら、わたくしは家名を失っております。後ろ盾もありません。王都では、公爵家の夜会で婚約を破棄された女として名が通っております。雇えば、外聞が悪うございます」
「外聞で帳簿は合わん」
それだけでした。
この方は、本当に、余計なことを言われません。
「条件を出す」
レオンハルト様は、指を三本立てられました。
「住まいは城内に用意する。食事もこちらで出す。……給金は、月に金貨十枚。年で百二十枚だ。初年度はこれで、二年目以降は成果を見て上げる」
わたくしは、その言葉を、聞き取り損ねました。
いえ、聞こえてはおります。耳には入っております。ただ、意味のほうが、少し遅れて届いたのです。
「……もう一度、お願いできますか」
「月に、金貨十枚」
「……」
「安いか」
「いえ」
安くありません。むしろ、王都の商会の番頭よりも高うございます。
わたくしが黙ってしまったのは、金額のせいではありませんでした。
三年です。
三年間、わたくしは公爵家で朝五時に起きて、夜は日付が変わるころまで帳簿を見ておりました。その労働に、値段がついたことは、一度もありません。婚約者という立場でしたので、給金という概念そのものがなかったのです。
働いた分に数字がつく。
その、たったそれだけのことが、二十年生きてきて、初めてでした。
「……クレスウェル嬢」
「失礼いたしました」
わたくしは、一度、深く息を吸いました。
「あの、レオンハルト様。念のために伺いますけれど。……なぜ、お支払いくださるのですか」
我ながら、間の抜けた質問でした。
けれどレオンハルト様は、笑いませんでした。少し不思議そうな顔をして、それから、当たり前のことを言うように、こうおっしゃったのです。
「働いたからだ」
わたくしの後ろで、音がしました。
振り返ると、ハンナが、口元を押さえて立っておりました。壁際で控えていた、あの姿勢のままです。肩が震えておりました。
二十九年、公爵家の使用人頭を務めた人です。わたくしが三年何をしていたか、この城の誰よりも知っている人です。
その人が、泣いておりました。
わたくしは、泣きませんでした。泣くのは、後でいいのです。今は契約の話をしております。
「お受けいたします」
「そうか」
レオンハルト様は、机から紙を出して、契約の条項を書きはじめました。字は太くて、装飾がなくて、読みやすうございました。半年前のお手紙と同じ字です。
最後に、署名の欄をこちらへ回されました。
わたくしは、羽根ペンを持って、そこで、手を止めました。
クレスウェルの名は使うなと、三日前に言われております。使えば、父はどこかから聞きつけて、面倒なことになるでしょう。かといって、名のない署名というものは、契約書としてどうなのか。
「……レオンハルト様。恐れ入りますが、家名を」
「要らん」
レオンハルト様は、書類を見たまま言われました。
「うちは、家名で人を雇っていない。あなたが書いた帳簿を見て雇うと決めた。書いたのはクレスウェル家ではなく、あなただ」
……ですから、この方は。
本当に、余計なことを言われないのです。余計でないことだけを、的確に、こちらのいちばん痛いところに置いていかれます。
「では、アデラインとだけ」
「それでいい」
わたくしは、署名しました。
アデライン、と。五文字だけの、家名のない名前です。
書き終えてから、しばらくそれを見ておりました。
ずいぶん、身軽な名前でした。




