第六話 「わたくしもお供します」
翌朝、六時。わたくしは衣装箱ふたつを持って、クレスウェル侯爵邸の門を出ました。
誰も、見送りには来ませんでした。父も、母もです。
ただ、三階の窓のカーテンが、少しだけ動きました。妹のエミリアだと思います。声はかけてきませんでした。かけられる立場ではないのでしょう。来年が社交界入りの子に、醜聞を出した姉と口をきけというのは、酷な話です。
門番は、わたくしが通るとき、目を合わせませんでした。
それでいいのです。
この三日で、わたくしは公爵家と実家の両方から出ました。二十歳の女が、家名も持参金も後ろ盾もなく、金貨十一枚で王都の朝に立っている。書き出してみると、なかなかの状況です。
ですから、門の外に人が立っているのを見たときは、さすがに足が止まりました。
「ハンナ?」
「おはようございます、奥様」
ハンナは、傘も差さずに立っていました。足元には、あの古い鞄が置いてあります。
「……あなた、どうしてここに」
「昨日のうちに、お暇をいただきました」
さらりと言われて、わたくしは二秒ほど、意味が取れませんでした。
「お暇、というのは」
「辞めてまいりました。ヴァルトハイム公爵家を」
「二十九年、いらしたでしょう」
「ええ。二十九年でございます」
ハンナは、少しだけ笑いました。この人が笑うところを、わたくしは三年で二度しか見たことがありません。
「二十九年おりましたので、わたくしが辞めるとどうなるかは、よく存じております。……申し上げておきますが、引き継ぎ書は置いてまいりませんでした」
わたくしは、ため息をつきました。
「ハンナ」
「はい」
「わたくしには、あなたにお支払いできる給金がありません。家名もありません。行き先も決まっておりません。……正確には、決まってはおりますけれど、受け入れてもらえるかどうかは分かりません」
「存じております」
「ではなぜ」
ハンナは、鞄を持ち上げました。それから、こう申しました。
「奥様。わたくしは、膝が悪うございます」
え、と思いました。
「冬場は、階段の上り下りがつらいのです。誰にも申し上げたことはございません。使用人が体の不調を口にするのは、職を失う理由になりますから」
ハンナは、まっすぐにわたくしを見ていました。
「それなのに、この三年、わたくしは冬に一度も三階の持ち場に回されませんでした。……なぜだか、ご存じですね」
わたくしは、答えませんでした。
答えたら、この人は泣くと思ったからです。
「お支払いは、できるようになってからで結構でございます。その日まで、貸しということにいたしましょう。……利息は、つけますけれど」
「……高いのですか」
「ええ。大変に」
そこで、わたくしたちは少しだけ笑いました。王都の門前で、荷物を足元に置いた女が二人で笑っているというのは、傍から見ればおかしな光景だったと思います。
馬車の停留所まで歩く途中で、ハンナが鞄を開けました。
布に包まれたものが出てきます。開くと、手帳が六冊ありました。表紙に何も書いていない、分厚いものです。
わたくしのものでした。
「……持ち出したのですか」
「はい」
「ハンナ、それは公爵家の資産です。持ち出せば窃盗になります」
「なりません」
ハンナは、きっぱりと言いました。
「奥様の私物でございます。公爵家の帳簿は、すべて応接室にお返しになりました。こちらは、奥様が個人でおつけになっていた覚え書きです。台帳にも財産目録にも載っておりません」
そのとおりでした。
「それに」
ハンナは、手帳を布に戻しながら、こう続けました。
「これは、お返しするつもりで持ってまいったのではございません」
「では、何のために」
「証拠でございます」
わたくしは、ハンナの顔を見ました。
「いつか、どなたかが『あの方は何もしていなかった』とおっしゃる日が来ます。もう来ておりますけれど、これからもっと来ます。……そのとき、これがございます」
わたくしは、何も言えませんでした。
三年分の、朝が何時で、誰の膝が悪くて、誰が朝に弱くて、どの業者がどこで値を譲るかを書いた手帳です。書いていたときは、ただの備忘でした。忘れると回らなくなるから、書いていただけです。
それが、証拠になるのだと、この人は言いました。
北行きの乗合馬車は、八時に出ました。硬い座席で、日に六度は揺れで頭を天井にぶつけそうになる類のものです。王都の壁が見えなくなったころ、ハンナが尋ねました。
「ところで奥様。どちらへ向かっておりますか」
「北です。……アーベントロート辺境伯領」
ハンナの動きが、止まりました。
「アーベントロート、と申しますと。……あの、半年前にお手紙が来て、ユリウス様が机にお放りになった」
「ええ」
「返事を、お出しにならなかったほうの」
「ええ」
わたくしは、膝の上の鞄を少しだけ押さえました。
「今から、出しに行きます」
「……半年、遅れておりますけれど」
「十二日、揺られます。もう少し遅れます」




