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第五話 実家にも、居場所はありません

クレスウェル侯爵邸の門をくぐったのは、昼を過ぎたころでした。


 三年ぶりの実家です。門番は代わっていました。わたくしの顔を知らなかったらしく、名乗るまで通してもらえませんでした。名乗ったあとの、あの、気まずそうな目の逸らし方で、話はもう屋敷まで届いているのだと分かりました。


 父は書斎にいました。


 扉を開けた瞬間、父は立ち上がって、机の上の書類の束をこちらへ投げました。紙が宙で散って、床に落ちました。


「醜聞だ」


 それが、三年ぶりの第一声でした。


「昨夜のうちに王都中に回った。クレスウェルの娘が公爵家の夜会で公然と婚約を切られた、と。今朝、ブランドン伯爵家から茶会の招待を取り消された。エミリアの縁談の件も、先方が『少し様子を見たい』と言ってきた。分かるか、アデライン。おまえ一人の話ではないのだ」


 エミリアは二つ下の妹です。来年が社交界入りだと聞いていました。


「父上。お話をお聞きになりましたか」


「聞くも何も、事実だろう。おまえが公爵家で何もせず、嫌われて、放り出された」


 わたくしは、父の机を見ました。


 三年前、わたくしがこの家を出るときに、この机の引き出しには領地の帳簿が入っていました。中身は覚えています。父は数字が嫌いな方で、十六のころからわたくしが手伝っていました。ヴァルトハイム家でわたくしが帳簿を任されたのは、そもそもこの家で慣れていたからです。


 その話を、父は一度もしたことがありません。


「ならば、どうなさいたいのですか」


「戻れ」


 父は椅子に座り直して、こう言いました。


「明日、ヴァルトハイム公爵家へ行って、頭を下げろ。至らぬところがございました、二度といたしません、と。持参金は半分でいい、こちらから追加を出すと伝えろ。あの家も体面がある。表沙汰にした以上、すぐには首を縦に振らんだろうが、半年も詫び続ければ形はつく」


「わたくしは、何もしていないそうです」


「ならば、何もしていなかったと詫びればいい」


 父は本気でおっしゃっていました。皮肉でも何でもありません。この方にとって、事実がどうであるかと、家の体面がどうなるかは、まったく別の帳簿に書かれている項目です。そして後者の帳簿にしか、目を通されません。


 わたくしは、ひとつ息を吸いました。


「お断りいたします」


 部屋がしんとしました。父の顔から表情が抜けて、それからゆっくり赤くなっていきました。


「今、何と言った」


「わたくしは三年間、あの家で家政と帳簿と領地の陳情と業者との取引をすべて預かっておりました。執事が不在のまま、その職務も代行しておりました。そのうえで『何もしていない』と百人の前で言われました。そこへ戻って詫びるということは、それを全部わたくし自身が認めるということです。


 それは、できません」


「できません、だと」


「はい」


「おまえの都合など聞いておらん!」


 父は机を叩きました。インク壺が倒れて、黒いものが書類の上にゆっくり広がっていきました。わたくしはそれを見ながら、この染みを拭くのも誰かの仕事なのだと、場違いなことを考えていました。


「では出ていけ」


 父は立ったまま、わたくしを見下ろして言いました。


「明日の朝までだ。それ以降、この屋敷にいることは許さん。クレスウェルの名も使うな。持参金は公爵家に納めた分がそのままだ。こちらから出すものは一枚もない。エミリアの縁談が片づくまで、王都に顔を出すな」


「承知しました」


「……おまえは」


 父はそこで、少し声を落としました。


「おまえは、昔からそうだ。可愛げがない」


 わたくしは礼をして、書斎を出ました。


 与えられた部屋は三階の客間でした。三年前まで使っていた自分の部屋は、もう物置になっているそうです。


 鞄を開けて、中身を数えました。


 衣装箱ふたつ。祖母の形見の指輪がひとつ。三年間の給金は、婚約者という立場でしたので、一枚も出ておりません。自分の金は、この家を出る前に貯めていた分が金貨で十一枚だけです。宿と馬車を使えば、ひと月ももちません。


 それから、鞄の底に入れておいた封筒を出しました。


 半年前にヴァルトハイム家へ届いた書簡です。差出人は、北の辺境伯アーベントロート家。内容は小麦と鉄の取引についての照会で、返事はわたくしが書きました。その返信に対して、先方からもう一通が届いたのです。


 そちらの二通目を、わたくしは今も持っています。ユリウス様にお見せしたところ、机の上に放って、こうおっしゃったからです。


「商人の相手など、君がやっておけばいい」


 封筒から便箋を出しました。字は太く、装飾のない、読みやすい書き方でした。要件だけが四行あって、最後にこう添えられていました。


 ――貴家の帳簿を作成された方と、直接話をしたい。名をご教示いただきたい。


 教えられないまま、半年が過ぎています。


 わたくしは便箋を畳んで、封筒に戻して、鞄の内側の一番深いところへ入れました。


 宛先は、王都から馬車で十二日。北の、辺境です。

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