第四話 見送りは、二人だけでした
翌朝は雨でした。
十一月の雨というのは、降っているというより空気が湿って重くなる感じで、傘を差してもどこかが必ず濡れます。わたくしは六時に衣装箱ふたつを玄関に出して、馬車が来るのを待っていました。
玄関には誰もいませんでした。
ユリウス様はまだお休みでした。前の晩、リリア様と町へお出かけになって、遅くにお戻りになったと聞いています。公爵夫人もお部屋から出ていらっしゃいません。三年いた人間が出ていくのに、家の方は一人も来ませんでした。
それ自体は、想定しておりました。昨日の朝、応接室であれだけのやり取りをして、それでも見送りに立つような方でしたら、そもそも夜会であんな言い方はなさいません。
ただ、雨の中に立って馬車を待っていると、三年というのは案外短いものだったのだな、と思いました。
うしろで扉が開く音がしました。
「奥様」
ハンナでした。傘を差して、外套を着て、足元に自分の荷物を置いていました。私物の詰まった、ずいぶん古い鞄でした。
「ハンナ。あなた、その荷物は」
「のちほど、ご説明申し上げます」
ハンナはそう言って、それ以上は何も言いませんでした。この人は二十九年この家にいます。わたくしがどうこう言える立場ではありません。
そのとき、玄関の脇の通用口から、小さな影が走ってきました。厨房の下働きのトビアスです。十二歳になったばかりで、雨の中を上着も着ずに出てきていました。
「奥様!」
「トビアス。濡れます」
トビアスは布に包んだものを両手で差し出しました。開くと、焼きたてのパンが四つ入っていました。まだ温かいものでした。
「あの、旅の途中で食べてください。昨日の夜に仕込んだやつです」
「ありがとう」
「あの、あの」
トビアスは足踏みをして、それから一気に言いました。
「去年の冬に、奥様が、かまどの薪は朝に足せって言ってくださって。そのとおりにしたら、パンが失敗しなくなりました。それまでおれ、月に三回は生地を駄目にして怒られてたんです。今年は一回もないです」
雨の音が、少し遠くなりました。
「だから、その」
トビアスは頭を下げました。深く、長く下げました。
「ありがとうございました」
わたくしは、そのとき、三年ぶりにその言葉を聞きました。
正確に申し上げますと、三年と二か月ぶりです。この屋敷に入ってから、わたくしに「ありがとう」とおっしゃった方は一人もいませんでした。使用人は立場上、礼を言うより先に指示を待ちます。業者は取引ですから礼は形式です。家の方々は、そもそもわたくしが何かをしているとお考えではありませんでした。
薪を朝に足すという話は、覚えていませんでした。おそらく去年の冬に厨房を通りかかって、生地の温度が上がらないのを見て、ひとこと言っただけのことだと思います。わたくしにとっては何でもない一分間でした。
その一分間を、この子は一年間覚えていて、雨の中を上着も着ずに走ってきて、頭を下げました。
わたくしは、しばらく何も言えませんでした。
泣くのは違うと思いました。ここで泣いたら、この子は自分が悪いことをしたと思うかもしれません。ですから、わたくしは膝を折って、目の高さを合わせました。
「トビアス」
「はい」
「生地が上がらない朝は、かまどのそばに置くのではなく、湯を張った桶の上に板を渡して、その上に置きなさい。直火の近くは外側だけが乾きます」
「……はい!」
「それから、あなたは筋がいい。誰かに言われる前に自分で試している。そういう人は伸びます」
トビアスは何か言おうとして、口をあけたまま、ぼろぼろ泣きはじめました。わたくしは立ち上がって、背中を軽く叩いて、厨房へ戻るように言いました。走っていく後ろ姿を見ながら、上着を着せてやればよかったと思いました。
馬車が来ました。
衣装箱ふたつを積んで、わたくしは乗り込みました。ハンナが扉を閉める前に、一度こちらを見て、それからこう申しました。
「行ってらっしゃいませ、とは申しません」
「ええ」
「いつか、お帰りなさいませ、と申し上げます」
扉が閉まって、馬車が動きだしました。
振り返りませんでした。三年住んだ屋敷の輪郭を、雨の中でもう一度確認するような真似は、しないほうがいいと思ったからです。
膝の上に、トビアスのパンの包みがありました。まだ温かいままでした。
行き先は、王都の南にある実家、クレスウェル侯爵邸です。
——そこが、この三日間で、いちばんの間違いになります。




