第三話 三年分の記録
――侍女頭 ハンナ視点――
その日の午後、私はアデライン様のお部屋の片づけを言いつかりました。
お部屋といっても、三年お住まいになった北棟の一室です。公爵家のご婚約者に宛がう部屋としては小さいほうで、日当たりも良くありません。当時、私は「いずれ本館の南側にお移りになるのだろう」と思っておりました。結局、三年間そのままでした。
中に入って、まず思ったのは、物が少ないということでした。
衣装箱がふたつ。装飾品の類はほとんどありません。壁にかかった絵もなければ、花瓶もありません。ご令嬢のお部屋というより、書記官の執務室のようでした。
そして、書棚です。
三年分の家政帳簿は、今朝がた応接室にお運びになったと聞いていました。けれど書棚に残っていたものがありました。表紙に何も書いていない、分厚い手帳が六冊。
私は、開いてしまいました。
開かなければよかったと、今でも思います。
一冊目の最初の頁に、使用人の名前が並んでいました。全員です。この屋敷に当時いた四十一人分。
――マルタ。手先が細かい。ただし高い場所が苦手。梯子を使う仕事は回さない。 ――ペーター。朝が弱い。八時からの持ち場に入れると調子がよい。叱ると三日引きずるので、注意は短く。 ――ハンナ。膝が悪い。冬場は階段の上り下りを減らす。本人は言わないので、こちらで割り振る。
私は、膝のことを誰にも申し上げたことがありません。
二冊目は業者でした。酒屋がどこで値を譲るか。肉屋の目方の癖。仕立屋が納期を守らない月。それぞれ三年分の記録が、日付つきで並んでいました。
三冊目は領地の陳情の控えです。誰がいつ何を願い出て、それにどう返事をして、その後どうなったか。私は貴族の家の帳面というものをいくつか見てまいりましたが、返事の「その後」まで追いかけている帳面は初めてでした。
四冊目には、旦那様と奥様のお好みが書いてありました。奥様が苦手な香り。旦那様が体調を崩される時期。
五冊目は、ユリウス様でした。
――七月から九月、頭痛が出る。書斎の窓を早朝に開けておくと軽い。ご本人は気づいていないので、こちらで開ける。 ――夜会の前は食が細る。当日の昼は軽いものに変える。 ――お叱りを受けたときは、その場で言い返さない。半日置くと、ご自分から折れられる。
三年分、途切れずに書いてありました。
六冊目はまだ半分が白紙でした。最後の記入は、昨日の日付です。
――十一月三日。夜会。招待客のうちベルク家とラウ家、先月の件で不仲。席を離す。酒の追加は三樽まで。それ以上は来月の予算に響く。
その下に、一行だけ、こう書いてありました。
――婚約解消。引き継ぎ不要。
私は、その一行をずいぶん長いこと見ておりました。
それから六冊を抱えて、奥様のところへ持ってまいりました。マルグレーテ様は午後のお茶の最中でいらっしゃいました。私は、これはアデライン様が三年おつけになっていた記録でございます、ご覧になったほうがよろしいかと存じます、と申し上げました。
奥様は、表紙をご覧になっただけでした。
「まあ、細かいこと。あの方らしいわね」
そうおっしゃって、カップにお戻りになりました。
「片づけておいてちょうだい。北棟は物置に戻すのでしょう」
私は礼をして、下がりました。
廊下を歩いているあいだ、私は自分の手がふるえているのに気づきました。膝が悪いのを、こちらで割り振ってくださっていた方が、今朝この屋敷を出ようとしています。それを「細かいこと」で片づけた方が、この家の女主人です。
私はこの家に二十九年おります。使用人というのは、主家の内情に口を出さぬものだと教わりました。二十九年、そのとおりにしてまいりました。
その夜、私は自分の部屋で、六冊を布に包んで鞄の底に入れました。
それから、荷物をまとめはじめました。




