↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/27

第二話 引き継ぎ書は、ありません

 翌朝、わたくしは五時に目が覚めました。三年の習慣というのは体に染みついているものです。天井を見ながら、今日はもう何もしなくていいのだと自分に言い聞かせるのに、しばらくかかりました。


 八時に応接室へ参りました。ユリウス様と公爵夫人、それからリリア様がそろっていらっしゃいました。リリア様がなぜこの場にいらっしゃるのかは、お尋ねしないことにしました。


 わたくしは持ってきたものを、順番に卓の上へ置きました。


 鍵束が二十七本。家政帳簿が三十六冊、三年分を月ごとに。領地からの陳情の控えが綴じたもので九束。業者との契約書の写しが一箱。それから、わたくしが預かっていた公爵家の小印です。


「なんだ、これは」


 ユリウス様が眉をひそめられました。


「お返しするものです」


「そんなものは執事に渡せばいいだろう」


「執事は、おりません」


 部屋が静かになりました。


「三年前の秋にグレアム様がお辞めになってから、後任が入っておりません。その間の職務はわたくしが代行しておりました。わたくしが出ますので、明日から代行する者がいなくなります」


「……母上」


 ユリウス様が振り向かれましたが、公爵夫人は扇を開いて口元を隠されただけでした。ご存じなかったのだと思います。ご存じなかったこと自体が、この三年の全部を説明していると思いました。


 そのとき、リリア様がすっと前に出られました。


「わたしがお預かりします!」


 両手で鍵束を抱えて、リリア様は本当に嬉しそうに笑われました。


「アデライン様、ご心配なさらないでください。わたし、がんばりますから」


 わたくしは少しだけ待ちました。どの鍵がどの扉のものか、この方がお尋ねになるのを待ちました。


 お尋ねになりませんでした。


「リリア様」


「はい」


「その鍵束の、いちばん短いものは酒蔵の外扉です。内扉の鍵は別に厨房の壁にかかっておりますので、二本そろえないと開きません。それから、先が四角い鍵が三本ございますが、三本とも形が似ていて、うち一本は文書庫のものです。間違えて差し込むと錠が噛みます。噛んだ場合は王都から錠前師を呼ぶことになり、往復で六日かかります」


 リリア様は笑顔のまま、二度まばたきをなさいました。


「……えっと、紙に書いていただけますか?」


「引き継ぎ書は、ありません」


 公爵夫人が扇を閉じられる音がしました。


「なんですって」


「三年間、わたくしが何をしているか、どなたにも一度もお尋ねいただけませんでした。何をお尋ねいただけなかったかを、わたくしは存じません。存じませんので、何をお書きすればよいのかも分かりません」


「屁理屈をおっしゃい」


「では夫人、ひとつだけお伺いします。来月の十四日に、この家では何がございますか」


 夫人は答えられませんでした。ユリウス様も、リリア様もです。三人ともわたくしを見ていました。


「小麦の先物の、契約更新日です。こちらから署名を出さなければ自動更新になりません。自動更新にならなければ市場価格で買うことになります。今年は南が不作ですので、市場価格ですと現行の約三割増しです。公爵家が一年に消費する量で計算しますと、金貨で二百四十枚ほどの差になります」


「……そんなものは、商人がやることでしょう」


「商人はやります。こちらの署名がなくても商人は困りません。困るのはこちらです」


 ユリウス様が口を開かれました。声が硬くなっていました。


「脅すつもりか」


「いいえ。お返しするものをお返しして、経緯をご説明しております」


 本当のことでした。わたくしは脅してなどいません。脅すというのは、相手がその価値を分かっている場合に成立する行為です。この方々は、まだ分かっていらっしゃいません。


 だからこそ、わたくしは今日、ここで全部を口で説明して差し上げる気がなくなりました。昨日の夜会で、わたくしは百人の前で「何もしていない」人間として確定しました。何もしていない人間が、引き継ぎ書を置いていくのは筋が通りません。


「では、失礼いたします」


 わたくしは礼をして、応接室を出ました。


 扉を閉める前に、リリア様の声が聞こえました。


「ユリウス様、大丈夫ですよ。わたし、ちゃんと笑顔でがんばりますから!」


 その笑顔で、小麦の先物契約の署名ができればよいのですが。


 廊下を歩きながら、頭の中で数えていました。この三年で、わたくしが答えた質問の数です。使用人からは毎日何十と受けました。業者からも受けました。領民の陳情にも全部返事を書きました。


 この家の主人筋の三人から受けた質問は、三年で四回でした。


 四回とも、「今日の夕食は何か」でした。


 結局、最後まで誰も、何ひとつ訊きませんでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。