第二話 引き継ぎ書は、ありません
翌朝、わたくしは五時に目が覚めました。三年の習慣というのは体に染みついているものです。天井を見ながら、今日はもう何もしなくていいのだと自分に言い聞かせるのに、しばらくかかりました。
八時に応接室へ参りました。ユリウス様と公爵夫人、それからリリア様がそろっていらっしゃいました。リリア様がなぜこの場にいらっしゃるのかは、お尋ねしないことにしました。
わたくしは持ってきたものを、順番に卓の上へ置きました。
鍵束が二十七本。家政帳簿が三十六冊、三年分を月ごとに。領地からの陳情の控えが綴じたもので九束。業者との契約書の写しが一箱。それから、わたくしが預かっていた公爵家の小印です。
「なんだ、これは」
ユリウス様が眉をひそめられました。
「お返しするものです」
「そんなものは執事に渡せばいいだろう」
「執事は、おりません」
部屋が静かになりました。
「三年前の秋にグレアム様がお辞めになってから、後任が入っておりません。その間の職務はわたくしが代行しておりました。わたくしが出ますので、明日から代行する者がいなくなります」
「……母上」
ユリウス様が振り向かれましたが、公爵夫人は扇を開いて口元を隠されただけでした。ご存じなかったのだと思います。ご存じなかったこと自体が、この三年の全部を説明していると思いました。
そのとき、リリア様がすっと前に出られました。
「わたしがお預かりします!」
両手で鍵束を抱えて、リリア様は本当に嬉しそうに笑われました。
「アデライン様、ご心配なさらないでください。わたし、がんばりますから」
わたくしは少しだけ待ちました。どの鍵がどの扉のものか、この方がお尋ねになるのを待ちました。
お尋ねになりませんでした。
「リリア様」
「はい」
「その鍵束の、いちばん短いものは酒蔵の外扉です。内扉の鍵は別に厨房の壁にかかっておりますので、二本そろえないと開きません。それから、先が四角い鍵が三本ございますが、三本とも形が似ていて、うち一本は文書庫のものです。間違えて差し込むと錠が噛みます。噛んだ場合は王都から錠前師を呼ぶことになり、往復で六日かかります」
リリア様は笑顔のまま、二度まばたきをなさいました。
「……えっと、紙に書いていただけますか?」
「引き継ぎ書は、ありません」
公爵夫人が扇を閉じられる音がしました。
「なんですって」
「三年間、わたくしが何をしているか、どなたにも一度もお尋ねいただけませんでした。何をお尋ねいただけなかったかを、わたくしは存じません。存じませんので、何をお書きすればよいのかも分かりません」
「屁理屈をおっしゃい」
「では夫人、ひとつだけお伺いします。来月の十四日に、この家では何がございますか」
夫人は答えられませんでした。ユリウス様も、リリア様もです。三人ともわたくしを見ていました。
「小麦の先物の、契約更新日です。こちらから署名を出さなければ自動更新になりません。自動更新にならなければ市場価格で買うことになります。今年は南が不作ですので、市場価格ですと現行の約三割増しです。公爵家が一年に消費する量で計算しますと、金貨で二百四十枚ほどの差になります」
「……そんなものは、商人がやることでしょう」
「商人はやります。こちらの署名がなくても商人は困りません。困るのはこちらです」
ユリウス様が口を開かれました。声が硬くなっていました。
「脅すつもりか」
「いいえ。お返しするものをお返しして、経緯をご説明しております」
本当のことでした。わたくしは脅してなどいません。脅すというのは、相手がその価値を分かっている場合に成立する行為です。この方々は、まだ分かっていらっしゃいません。
だからこそ、わたくしは今日、ここで全部を口で説明して差し上げる気がなくなりました。昨日の夜会で、わたくしは百人の前で「何もしていない」人間として確定しました。何もしていない人間が、引き継ぎ書を置いていくのは筋が通りません。
「では、失礼いたします」
わたくしは礼をして、応接室を出ました。
扉を閉める前に、リリア様の声が聞こえました。
「ユリウス様、大丈夫ですよ。わたし、ちゃんと笑顔でがんばりますから!」
その笑顔で、小麦の先物契約の署名ができればよいのですが。
廊下を歩きながら、頭の中で数えていました。この三年で、わたくしが答えた質問の数です。使用人からは毎日何十と受けました。業者からも受けました。領民の陳情にも全部返事を書きました。
この家の主人筋の三人から受けた質問は、三年で四回でした。
四回とも、「今日の夕食は何か」でした。
結局、最後まで誰も、何ひとつ訊きませんでした。




