第一話 「君は何もしていない」
ヴァルトハイム公爵家の大広間で婚約者のユリウス様にそう言われたとき、わたくしが最初に考えたのは、明日の朝食の献立をまだ厨房に通していない、ということでした。
楽団の音が途中で止まりました。百人近い招待客の話し声が、波が引くように消えていきます。ユリウス様はシャンデリアの真下に立って、わたくしをまっすぐに見ていらっしゃいました。二十二歳のこの方は、怒っているときほど姿勢がよくなります。三年見てきたので分かります。
「アデライン・クレスウェル。君との婚約を、今日この場で解消する」
右手の壁際で、誰かが息を飲む音がしました。左手のほうでは扇が開く音が三つ。誰が持っている扇かまで見当がつきましたが、今それを数えても仕方がありません。
「理由をお伺いしても」
「君は何もしていない」
ユリウス様は、そこで一度言葉を切りました。ご自分でも、思ったより強く出てしまったと感じられたのでしょう。けれど引っ込めるおつもりはないようでした。
「三年だ。三年もこの屋敷にいて、君は公爵家の人間になろうという努力を何ひとつしなかった。朝から晩まで何をしているのかと思えば、使用人に指図をして、気に食わないことがあれば眉をひそめる。笑っているところを見たことがない。使用人は君を怖がっている。母上も君とは話が合わないとおっしゃる。君がこの家に何をもたらした? 何ひとつだ」
わたくしはその日、五時に起きました。
六時に侍女頭のハンナと翌週の人員配置を詰めて、七時に厨房へ行って、今夜の夜会で出す料理の数と、肉屋から届いた分の目方が伝票と合わないことを確認しました。八時に帳簿。九時に領地から上がってきた陳情を三十二通、内容ごとに四つに仕分けて、そのうち十一通は今日中に返事を出すべきものだったので、昼までに全部書きました。午後は酒屋との値段の交渉です。先方は先月から一樽あたり銀貨で八枚上げたいと言ってきていて、今日で四度目でした。六枚で折り合いました。それから夜会の座席表を最終確認して、招待客のうち二組の仲が最近悪いと聞いたので、席を離しました。そのあと着替えて、この広間に立っています。
それをこの方に申し上げようとは、思いませんでした。
申し上げたところで、「何を」の部分が伝わらないからです。三年かけて分かったことです。この家の方々は、朝食が毎朝きちんと出てくることを、朝が来ることと同じ種類の出来事だと思っていらっしゃいます。誰かがそれを出していると考えたことが、たぶん一度もありません。
ユリウス様の斜め後ろに、リリア・メイフィールド様が立っていらっしゃいました。男爵家のご令嬢で、十七歳。この半年、よく屋敷にいらしています。目が合うと、リリア様は困ったように眉を下げて、それから小さく首を振りました。
「ユリウス様、そんな言い方は……。アデライン様がおかわいそうです」
リリア様に悪気はありません。それは本当です。この方はいつも、その場でいちばん優しく聞こえる言葉を選ばれます。そして今のは、わたくしが「かわいそうな人」であると百人の前で確定させる一言でした。
「リリアは優しいな」
ユリウス様がそうおっしゃって、広間の空気がゆるみました。何人かが笑いました。
壁際の椅子には公爵夫人——マルグレーテ様がお座りになっていました。わたくしと目が合うと、夫人は扇で口元を隠して、それからおっしゃいました。
「アデラインさん。あなたにも、直すべきところはありましたでしょう」
三年間、この方はわたくしに一度も家政のことをお尋ねになりませんでした。お尋ねにならないまま、わたくしに全部が渡っていました。渡したという自覚すら、たぶんおありでないと思います。
わたくしは腰に下げた鍵束に手を触れました。二十七本あります。どの扉のものかは全部覚えています。覚えている人間は、この屋敷にわたくししかいません。
弁明はしませんでした。謝罪もしませんでした。ここで泣いて縋れば、この方々の中でわたくしは「かわいそうな女」に格上げされて、ひょっとすると同情で婚約が続いたかもしれません。
その未来を、一秒だけ想像しました。
明日も五時に起きて、陳情を仕分けて、酒屋と値段を詰めて、それを一生続けて、最後まで一度も、ありがとうと言われない未来です。
「承知しました」
わたくしはそう申し上げて、膝を折りました。公爵家の作法に則った、正式な礼です。三年前にこの屋敷で覚えました。
「今まで、お世話になりました」
顔を上げると、ユリウス様が少しだけ意外そうな顔をなさっていました。もっと何か言うと思っていらっしゃったのでしょう。広間のあちこちから声が漏れてきます。
「まあ、あれだけ言われて泣きもしないの」
「やはり氷の悪女ですわ」
「公爵家もようやく目が覚めたのね」
わたくしはそのまま背を向けて、扉のほうへ歩きました。誰も止めませんでした。楽団が慌てて演奏を再開して、そのせいで拍が一つずれたのが、扉を出る直前に聞こえました。
廊下は静かでした。鍵束が腰で鳴っています。
「君は何もしていない」。
たぶんこの方は、一度もわたくしのしていることを見ていない。だから見ていないものを、していないと呼んだ。それだけのことです。
でしたら、もう結構です。
——では明日から、本当に、何もいたしません。
読んでいただきありがとうございます。
一章は書き終わっています、反応など多ければ二章以降も投稿します。




