スーサイド・カンパニーへようこそ(8)
アリスが長いスカートを翻して控室のドアノブに手をかけると、フローラが後ろから声をかけた。
「カップケーキを作ったのよ。机に置いてあるから、よかったら食べて待っていて。そうだ。今度、一緒に作らない?」
フローラが嫋やかに微笑むのを見て、目の奥がかあっと熱くなる。私にそんな優しくする価値ないのになあと考える。
「是非お願い致します」
アリスは深々と頭を下げた。細く柔らかい銀の髪がアリスの両の頬を撫でる。
控室にある机の上には、柔らかいピンクのストライプ柄の紙袋が置いてあった。持ち手には『メアリ=アンへ』と書かれたハート形のカードがピンクと白の大きなリボンで結びつけられていた。中にはまたピンクの箱が入っている。アリスはそれを中身が壊れないようにゆっくりと取り出した。中身は色とりどりのバタークリームが乗ったカップケーキが四つ。丁度お腹が空いているところだった。腹の虫がぎゅうっと涎を垂らす。急いでメイド服の制服に着替えると、カップケーキにかぶりついた。とうに乾ききったはずの感情の泉に、新たに何かが湧き出そうとしている。
働くことって、そう悪いことではないのかもしれない。
一つ、二つとたいらげて、三つめのカップケーキを半分食べたときだった。控室にある裏口のドアを叩く音が三回あった。アリスは急いで三つ目を口に放り込んでごくりと飲み込む。
「はい」
ハンカチで手を拭いてドアを開けると、真っ黒いローブを頭の上からすっぽりと被った人のようなものが立っていた。後ろには、漆黒に輝く自動車が停まっている。
「本社からのお迎えです」
アリスはその声を聞いて震えあがる。
あと一つ、食べてないのに、勿体ない。名残惜しくカップケーキを見つめて、さよならと心の中で手を振った。フローラの笑顔が頭の片隅に咲く。
アリスはローブの男に攫われるように手を引かれて、車の中に押し込まれた。アリスの横に座ったローブの男は運転手に「出して」と囁くように命令する。車は直ぐに出発した。
ローブが払われると、天使が現れた。透き通るような黄金の髪に、熟れた桃のような頬、女性とも男性とも子供とも大人とも区別のつかない、まるで神が精巧に作り上げた芸術品のように美しく整った顔。否、女とも男とも子供とも大人とも区別がつかないのは顔だけではない。声もだ。まるで世界の罪を暴こうとでもしているかのような、鋭さと柔らかさを兼ね備えた、世界の終焉で鳴るハープの音のようだった。
「元気だった?」
彼がその声を惜しみなく奏でる。
「元気でした。ブランシュ様はお変わりないですか?」
約一年ぶりに彼の名を呼んだ。
「元気だったよ。でもアリスがいなくて寂しかった」
約一年ぶりに本当の名前を呼ばれた。
「その服似合うね」
ブランシュはアリスの着るスーサイド・カンパニーの制服をさらりと視線でなぞる。ブランシュに黒は似合わないなと反射的に思った。
「潜入捜査お疲れ様。もう『スーサイド・カンパニー』に社員として戻ることはないよ。『メアリ=アン』ともおさらばだ」
そう言われて、『メアリ=アン』の殻がぼろぼろと剥がれ落ちていくような気がした。アリスとしての自我が徐々に身体を満たしていく。
「目的を達成することができず申し訳ありません」
アリスが頭を座席にこすりつけて謝罪すると、ブランシュは高らかに笑い声を上げた。
「いいよ。そりゃあ、難しかったよね」
アリスがぎゅうと目を瞑ったまま頭を上げられずにいると、ブランシュは呆れて「いつまでそうしているつもりなの」と言い放った。アリスは急いで頭を上げた。氷のように透き通る二つの目が、アリスを捕らえた。この人は、怖いくらいに優しくて、近寄りがたいのに傍にいたいと思ってしまう、そんな相反する二つの属性を兼ね備えた不思議な人だった。
――これが、私の本当の上司。
「久しぶりにアリスの作ったホットケーキが食べたいよ」
やっぱり朝は君のホットケーキに限るね、と彼は微笑んだ。ホットケーキなんて誰が作っても同じだろうとアリスは思った。この人はただ自分の好物を他人に作らせる行為が好きなんだ。
この人、ノアールが手に入ったなら、絶対に朝食にホットケーキを焼かせる気だわ。
もう日が沈む時間だというのに、街の灯のせいか、窓の外はやけに明るく見えた。口の中の甘い匂いが、徐々に失われていくのを感じていた。
<つづく>




