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第1章:トウキョウ 7

 アピスは目を開けた。

 返事がないことを嘆き、やる瀬なさを持て余しているうちに思考は深く過去に遡っていたようだ。

 額に汗が浮かぶ。息が乱れる。瞼を上げたその一瞬、目の前が赤く染まって見えた。

 きーん、と、耳鳴りがする。

 記憶の残像を振り払うように頭を振り、深呼吸をして湿った空気を吸い込むと、少しずつ落ち着いていった。

 やはりまだこの先を思い出すには抵抗があった。記憶に伴う身を引き裂くような激しい感情が薄れるかどうかは、本人の意思というより時間の問題であるに違いない。引きずって引きずって、悲しみを身に染み込ませて経験に変えるまでは、堪えなくてはならない。

 しかし、痛みの代わりに見えたものがあった。今ここに在る彼女の原点――あの日の記憶の中で、いつの間にか忘れていたものを思い出した。

 汗が引き、呼吸が整うと、アピスはそっと墓碑を見た。


「――あれから色々あって、考え方もまた少し変わったけど」


 自分を見失いかけていたアピスに、自己を見つめ直させたのは凪。

 コードウェルに帰って一族の命運を握るようになった彼女は、あの頃とは違い、むやみやたらと自分の判断を信じて突き進むことは出来なくなってしまったが、あの凪の言葉があって今のアピスがある。


「やっぱりコードウェルに囚われ過ぎているみたいね」


 客観的判断を阻むものもそれだろう。主観で――自分の考えだけで判断してはいけないと思っているから、余計にコードウェルとしての考えに傾いてしまう。一族のことを考えるのは悪いことではないが、そればかり考えていても、現実を見失うだけだ。

 アピスはふう、と息をつき、立ち上がった。そして頭の中を整理し直す。コードウェルとしてという義務感を少し抑え、冷静に状況を把握しようと努めた。


 最も優先すべきものは何か。


 それはいつだって変わらない――人間としての義務、そして道徳。


 それがアピスの正義。


 リオールにはリオールの世界があって、彼には守るべきものがここにある。そして何より、一人の人間として、理性的な判断を下せるくらい、彼は十分成熟した大人だ。


「――どう考えても、兄様の意志を無視するわけにはいかないのよ」


 結論は、結局そこに行き着く。


「でも、最悪の事態になったら説得はする――それが、最低限の義務よね」


 言いながら、彼女は自分の出した結論に満足していた。自分の正義と義務の中庸は、正にここにある。

 道は定まった。

 すっきりとした面持ちで彼女は伸びをすると、ふと視線を墓碑に落とす。優しげな視線の先に、彼女はただ墓碑を見ているだけではないだろう。


 ――目を瞑ると、視界の隅に金色がちらついたような気がした。


 当初言いたかったことはこんな弱音や決意ではなかった。彼を失ってから気が付いたこと、彼に報告しなくてはならない身の回りの変化――彼への言葉はたくさん用意してあった。

 だが、もう十分だ。言葉なんかなくても――彼は彼女の中にいる。


 ――コードウェルであれ何であれ、『アピス・ユピテル』って人間がお前じゃん?


 こんなにも鮮明に、彼の言葉が思い出せるうちは。

 だから、あえて今、彼に何かを言うとしたら。

 2年前、あの日、言い損なったと後悔し続けているあの言葉に全ての想いを込めて。






「―――ありがとう」






 アピスはにっこりと微笑んだ。











 ブー…

と、シートに放り出された携帯が震えた。ラズはそれを横目で見る。一度は無視しようと目を反らし、手元の書類に視線を戻すが、全く鳴り止む気配が見えないので、彼は仕方なくそれを手に取った。佐伯家に借りた携帯電話だ。出掛け際に慌てて用意して貰った。警備用の予備の携帯で、わざわざこの電話にかけてくるような者はいないという。

 となると、この電話の相手はただ一人。

 佐伯邸を出るときに、番号を教えたあの男しかいない。

 待受に出た『公衆電話』の文字を見てうんざりしつつ、ラズは通話ボタンを押した。


「………はい」


『遅せーよー、ラズー』


 不満を込めた口調。そして、ぶーぶーと、東金千秋(とうがねちあき)はふざけたようにそう続ける。

 本当ならば共にニホンに来ているはずだった彼から突然連絡が入ったのは、アピスと昴が墓参りの準備をしているときだった。佐伯家の執事から突然電話を受け取ったラズは、彼から、既にナリタ空港にいるから迎えに来て欲しいと要求されたのである。連絡もなしに来る彼の非常識さに呆れるあまり、自力で来いと言いたい気持ちは山々だったが――というより、実際そう言って電話を切ろうとしたのだが、電車の乗り方も分からないという彼の発言を聞き、やむなく車を出すよう佐伯家に頼んだのだ。だが、これから墓参りに行かんとしているアピス達を止めるのは憚られ、昴にだけ、千秋を迎えに行くと連絡を入れて、慌てて一人で飛び出してきた次第である。

 ラズは車の時計を見た。まだ佐伯邸を出てから30分程しか経っていない。


「少なくとも1時間半ないと着かないと言っただろう?もう1時間後にかけ直すんだな」


『だって本気でつまんねーもん。下手に歩くと迷いそうだし。話相手になってよ』


「借り物の電話だ。通話料だってただじゃない」


 ぴしゃりとラズが言い返すと、千秋はちぇ、と何とも子供じみた返事を返して再び文句を並べだした。アピスと同学年の彼ももう19になるのだが、精神年齢は10歳の頃から変わっていないようにラズは思う。

 はあ、と深く溜息をつき、彼の文句を遮るように言う。


「――大体、1日遅れで追いつくんだったら始めからそう報告してればよかったんだ。それなら俺達だって先に行くことはなかった」


『何言ってんだよ。すげぇ急いだんだぜ?なんかよくわかんねーけど視察艇は俺置いて帰るわ、仕方ねーから密輸船見つけて乗り込んだら新政府の人間だってバレて殺されかけるわ、何とか城に連絡付けて迎えに来て貰ったらアピスはもう行ったとか聞かされるわ…』


「せめて連絡を寄越してから来い。連絡を。全く、タイミングの悪い奴だ」


『連絡しようとするとまた時間がかかるだろ?そもそもアピスが悪い!騎士を置いて出掛ける王族が何処にいる!?』


 電話口で叫ばれ、ラズは煩そうに顔をしかめた。

 とはいえ、千秋の言い分も一理ある。彼は1年ほど前にアピスと共に《鐘楼の殿》を卒業すると、彼女の計画を支えるためにユピテル家に仕え、アピス専属の騎士となった。一般に、誰よりも側で誰よりも共にいる騎士は意図せずとも主にとってかけがえのない存在になっていることが多いものだが、どうもアピスはその辺りの感覚が希薄なのだ。理由は恐らく二つ。一つは、彼女にとって千秋は騎士である以前に幼い頃から共に《鐘楼の殿》で育った幼馴染みであること。もう一つは――


「――仕方ないだろう。別にお前がいなくても、アピスは自分の身くらいは自分で守れるんだから」


 それどころか、凪亡き今、アピスは正真正銘『最強の闇術士』である。騎士本来の主を守るという役割を必要としていないのだから、千秋の立場も実際のところ騎士というよりただの補佐官に近い。故に、単身で地方に視察に飛ばされることも多いのだ。

 千秋はそれでもなお文句をたらたらと言い続けていたが、ラズが適当に聞き流している間に飽きたのか、それとも話し疲れたのか、だんだんと声が小さくなり言葉も不明瞭になっていく。そろそろ頃合かとラズが判断したのは、車の時計できっかり3分経ったたときだ。


「あーあーそうだな。わかったからとりあえず黙れ」


『…お前、面倒臭いって思ってるだろ』


「当たり前だ。ただでさえ事は面倒なのに、お前の相手までしてられるか」


 いい加減うんざりした様子でラズは思わず本音をぼやく。


「この国に長居をするのは危険過ぎる。だが、アピスはリオールが生きている限り梃でも動かないだろう…?」


『なあ、そういえばさっき妙なニュースをやってたんだけど』


 ラズの言葉を受け、ふと、思い出したように千秋が調子を切り替えて真面目な声で言った。


『――世界連合はニホンの核開発の証拠を手に入れたって?』


 世界連合。

 この第8世界の平和と国際協調のための機関で、世界219ヵ国中216ヵ国が加盟している巨大組織である。

 ニホンも連合には加盟しているが、2年前から出入りが禁止されており、実質的には脱退している状態に近い。原因は、3年ほど前から本格的に疑われ始めた核開発疑惑と大量破壊兵器の保持疑惑。連合から査察団を受け入れ無実を証明しようとしたニホンだったが、何も見つからなかったのにもかかわらず結局疑いは晴れず、逆に否定し続けることが仇となって、連合と連合が主導する各機関への出入りが禁止され、現在では世界各国から経済制裁まで受けている。

 といっても、世界最先端の技術をもって発展を遂げた豊かなこの国は、経済制裁では大したダメージを受けていない。原子力発電と太陽光発電の技術も進歩し、最早枯渇しかけている石油資源に頼ることはなく、必要なエネルギーは国内で賄えるようになっているし、数年前に行われた改革により食料自給率も飛躍的に上昇した。あえて難点を言えば物価が少し上がったくらいだが、それに伴い給与額も上昇しているので国民は特に実感していない。

 しかし、昨日のそのニュースには、流石にニホン全国がざわめいた。


「ああ、昨日のニュースだな。このまま下手に政府が否定し続ければ武力制裁は免れない――だから一刻も早く事を済ませて、この国を出たかったんだ」


 ニホンが本当に核開発をしているのかいないのか、そんなことはラズにはどうでも良い。問題は、武力制裁が始まってしまえば、攻撃対象になりかねないことは勿論だが、国外に出ることはおろか、セレスティアへの唯一のパイプであるロシア駐在のイヴァーノフに連絡を取ることもままならなくなってしまうことだ。

 そもそも、情報がマヒしてリオールを探すどころの話ではなくなってしまう。


「無駄だとは思うが、着いたら一度アピスを説得してみてくれないか。万に一ということもある――戦争に巻き込まれて死んだら洒落にならん」


『つーか、危険なのはわかってたんだから止めれば良かったのに。アピスもお前が言えば俺を送って自分は来なかった筈だぞ?リオール殿下がいなくなったこととか、このタイミングでのニホンの核疑惑とか、何かと不思議なことが重なってるけど、俺からしてみればお前がアピスの来日を許したってのが一番不思議だ。しかも自分も行くとか言い出すし』


「それは違う」


 幼い頃から同じ教室で育ったラズがアピスを妹のように可愛いがっていることは周知の事実だ。彼女がコードウェルであることも知っていた彼は、いつ傭兵に出されるかもわからない危険な《殿》からアピスを連れ出し、ベギンで保護しようと幾度となく提案していた。結局、アピスを《殿》に預けたパウラの意志を尊重して実行に移されることはなかったが、そのことからもわかるように、アピスが危険な目に合うことを昔から厭ってきたラズだ。ニホンはいつ戦争になるかもわからない、しかもセレスティアに直接連絡の取れるパイプのない小さな国である。彼としても、本当なら真っ先に止めたいところだったが。


「元々こちらに来る予定はあったんだ。父上の王命で。俺が行くのに、危険だからと彼女を止めることは出来ない」


『王命?』


 詳細を求めるような聞き返し方だった。だがラズは答えない。いくら気の置けない仲の千秋と言えど、国王直々に言い渡された最重要任務を軽々しく口にする程ラズは甘くない。

 ただ黙って彼は膝に置いた書類に視線を落とした。

 正確には、そこに留められた新聞記事。そこにある一枚の写真。

 白い髪に白い肌――そして白い瞳。人間として異質な色彩を持ちながら、だが異質とは感じさせない、それが一種の芸術品であるかのような雰囲気を醸し出す、美しい顔立ちをした青年の姿。

 彼が既にこの国を発ったことを告げる記事を見ながら、ラズは複雑そうに顔をしかめた。


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