第1章:トウキョウ 8
昴は辺りを見回す。
雨が傘を打つ音が煩い。不愉快だ――彼は顔をしかめ、舌打ちした。
アピスに気をきかせて運転手を伴い傘を買いに行ったのだが、戻って来る途中で堪えきれなくなったように雨粒が溢れて落ちてきた。とりあえず凪の墓のある区画の近くまで来たが、彼女の姿はない。辺りに雨を避ける場所がなかったから、何処かに移動したのだろう。
それにしても、雨降る墓地ほど不気味なものはない。人の姿が全く見えないだけでなく、比較的都市部に位置しているのにも関わらず、雨音で車の音も掻き消される。
何となく不気味なものを感じて昴は足を速めた。
そうして、10分ほどしただろうか。
「――ふざけんなよ、アピス」
昴のこめかみに青筋が浮かぶ。アピスの姿は何処にも見当たらない。歩き回ったせいで、足元が濡れてきていることも彼の機嫌を悪くする原因の一つだ。
はじめにいた区画からは大分離れてしまった。ここまでくると、そろそろ昴も気付き始める。
「…すれ違ったか」
車は降りた場所に停まっている。万一すれ違うことも想定して車には運転手を待たせてあるが――昴は携帯を見た。アピスが車に帰っていたら連絡の一つでもあるだろう。しかし着信もメールもない。とはいえ、ここまで探していないとなると――
戻ろう。そう思って、踵を返した昴の視線の先。
―――しゃり。
思わず飛び上がりそうになった。耳に飛び込んできたのは、土にスコップを挿したときのような音。
雨ではっきりとしない景色の中、彼の目の前で、黒い何かが確かに動いていた。
脳が警鐘を鳴らす。
見てはいけない――本能がそう語ってはいても、薄暗い雨の中、人を探し回った目は勝手にピントをあわせていく。
はじめは、猫かと思った。
だが、猫にしては大きすぎることに直ぐに気付く。そうこうしているうちに、丸い二つの緑色の瞳が、彼を振り向いた。
赤
――その瞬間、昴は身を翻した。
傘を捨て、走る。ひたすら走る。恐怖も何もなかった。ただ、足がそう動く。行き先も定めず――定める余裕もなく、昴は全力で逃げた。
だが。
ぐわん、と、彼の全力を嘲笑うような勢いで横を何かが駆け抜けていった。目の前に何かが飛び出し、彼は思わず足を止める。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
昴の腰ほどくらいの大きさか。それはやはり黒い猫のようでいて、見ようによっては獰猛な犬のようにも見えた。だが、そのどちらとも違うのは確かだ。
緑の瞳が、昴の瞳を捉える。
そして、それは―――笑った。
口角を上げて、にやりと。
動物の表情ではない。
緑の瞳に囚われて、昴は一歩も動けなかった。それはしばらくそうしてにんまりと笑っていたかと思うと、かぱ、と口を開ける――目は笑ったまま。
口内の鮮やかな赤が露になる。
昴は息を飲んだ――
「―――昴っ!!」
先程から探し続けていた声に名前を呼ばれると同時に、目の前から異形の物が消え去る。否、正確には、消えたのは昴の方だ。
聖族、コードウェルのみが使うことの出来る神の術――転移術。神が、5体の聖精霊を作った際にそれぞれに分け与えた、世界の均衡を守るための術の一つ。
空間を無視する術の影響でくらくらとする頭で横を見ると、アピスが険しい顔で後方を睨んでいた。ほっ、と思わず安堵の息が漏れる。
「…ったく、どこにいたんだ?」
「変な気配がしたから車に戻ったの。そうしたら、昴が私を探しに行ったっていうから…」
「あれは何だ?」
アピスは眉をひそめる。
「闇精霊みたいだったけど…どうして此処に?」
セレスティア以外の世界に精霊が現れるには、その世界で契約した術士が精霊を召喚するしかない。だが誰が、何のために。
アピスが手を離すと、昴が少しよろめく。口元を抑えて近くの気に手をついた彼を見て、心配そうにアピスは背中を擦りながら尋ねた。
「…何か見た?」
「……何か喰ってたんだ…」
口内の赤が目に飛びこんで来たのは、精霊がしゃりしゃりと何かを咀嚼していたからだ。その光景を思い出し、おぞましさに昴は身を震わせる――あれは何だった?
す、と、背中を擦るのとは反対のアピスの手が昴の視界を塞いだ。不思議と思い出しかけた光景が闇に沈んでいく。昴は息を深く吸い、吐いた。乱れていた呼吸が落ち着いていく。
ちらりとアピスを見上げると、彼女は唇を噛み締めて昴を見つめている。昔、彼女が言った言葉が昴の頭の中にも浮かんだ。近くにいながら、彼を恐怖から守れなかったことを悔いているのだろう。
昴と目が合い、彼女は何か言おうと口を開く。だが言葉を発するより先に――険しい表情で後ろを振り返らざるをえなかった。
「速い…!!」
思わずそう呟き、アピスは昴を背後にかばうようにして構える。長く真っ直ぐと続く単調な墓地の道の先から、濃厚な闇の気配が凄まじいスピードで近付いてくるのが昴にもわかった。
やがて、黒い点が視界に現れる。かと思うと、次の瞬間にはあのにんまりとした笑みがはっきりとわかる程、それは接近していた。
ひゅ、と、短く息を吸った昴の口から音が漏れる。闇の気配に気圧されて固まっている昴の手を取り、アピスは木の影に隠れながら叫んだ。
「――威圧せよ、プルトン!」
瞬間、空に亀裂が走る。
現れたのは、体長5mはあろうかという、巨大な黒鳥だった。ただの鳥と言うには語弊があるだろうか。形を一定に保っていられないらしく、輪郭は常に安定せず、動けばその後に糸のように黒い筋が残る。
上級闇精霊プルトン。
アピスが契約するフォルテ以外の精霊で、フォルテより前から契約している精霊でもある。
長い付き合いの精霊は、主の短い命令に的確に反応する。甲高い鳴き声を一声上げると、猛烈な勢いで例の精霊に突進していった。
アピスは木の影からその様子を窺う。プルトンは空間を圧縮し、それで精霊を押し潰さんとしていた。その瞬間、プルトンの周りの景色が歪む――木も、墓も、地面すらも。中心に据えられた精霊とて例外ではない。縦に引き裂かれるように、アピスの目には精霊の身体が歪んだように見えた。
だが、ふと、プルトンが術を解除する。景色も元に戻った。アピスは目を見張る――つい今まで、プルトンの的となっていた筈の精霊の姿がそこにない。
ををん――
と、空高くからこちらを見下すような遠吠えが聞こえる。アピスも、プルトンも頭上を見上げ――灰色の空に浮かぶ一点の黒と、視線が絡み合ったような気がした。
赤も見える。
また、笑っている。
「――笑い事じゃないわ」
アピスの呟きに応えるためか、それとも暗に彼女の命令を読み取ったのか、プルトンは意を決し、俊敏に空に舞い上がった。
しかし状況はさして変わらない。手を替え品を替え幾度となくプルトンは攻撃をしかけるが、悉く精霊は逃げ出してしまう。
アピスは舌打ちした。
プルトンは決して弱い精霊ではない。寧ろ上級精霊の中でもレベルはかなり高い方だ。だが状況は明らかにこちらに不利だった。小さな身体を活かした俊敏な動きで駆け回る精霊に完全に翻弄されている。これでは、いつ隙が出来てそこを突かれるかわかったものではない。
そうこうしている内に、アピスの目の前で、上手くプルトンの背後に回った精霊が、にやりと笑って彼に飛びかかった。
「プルトンっ…!!」
押し殺したアピスの悲鳴とプルトンの絶叫が重なる。プルトンが全力で抵抗したせいか精霊はすぐに彼から離れたが――その左翼の根本が、大きくえぐれてしまっている。
しゃり、しゃり――
あの音が聞こえる。
精霊は、赤い口内をちらつかせながら味わうようにプルトンの一部を咀嚼している。
昴は再び吐き気を感じて目を反らした。
「精神体を喰う精霊ね…じゃあ昴が見たのは、魂でも喰べてるとこかしら」
アピスはおぞましい推論を口にする。魂など――と反論する前に、やはり昴は堪えきれず口元を抑える。転生を信じているわけではないが、その希望すら打ち砕く救いのない光景に本能が見ることを拒絶している。
「昴、ここにいて」
「アピス!?」
昴の静止など聞かず、アピスは折角隠れた木の影から身を乗り出した。
精霊はアピスの気配に気付き、笑みを浮かべて彼女に接近する。
「肉体もイケる口?」
意外にも冷静に、ふむ、と感心したように呟きながら、一度転移術でそれを避ける。直ぐ様避けられたことに気付いた精霊が身を翻し、今度は大口を開けてアピスに飛びかかった。だが、アピスに到達する前に、見えない壁のようなものに弾き返されてしまう。
それと同時に、アピスの背後からプルトンが飛び上がった。プルトンの羽ばたきに圧され、後方に吹き飛ばされそうになるのを精霊は必死で踏ん張る。
圧力という名の風のせいで顔を上げることも出来ない。
だから、アピスの接近にも気付かなかったのだろう。
風が止んだその一瞬――それを理解するよりも早く、目の前に現れたアピスの顔に、精霊は実に人間らしい驚きの表情を浮かべた。
緑と赤の瞳がかち合う。
「――影よ」
アピスは静かにそう呟いた。
瞬間、赤い瞳が揺れる。
瞳が僅かに発光する。
そして――一瞬で、赤から金に反転した。
精霊の顔が、驚きではなく恐怖で引き攣る――その前に、その姿は掻き消えた。
昴は、わけのわからないまま一連の動きを目で追っていた。
急に、現実に戻ったかのように雨の音が耳につき始める。
今のは、プルトンの能力ではない。
長い付き合いだ。プルトンのことは昴でも多少知っている。穏やかな性格のこの闇精霊が――慈悲も何もあったものではない、こんな攻撃をするだろうか。
それに、アピスが呟いた瞬間、街灯に照らされた彼女の影が、歪に歪んだように見えたのは気のせいだろうか。
丁度、咆哮を上げるような龍の形に――
ごくりと、彼は唾を飲んだ。
アピスが昴を振り返る。
「怪我はない?」
「あ…ああ……なあ、今のがフォルテか?」
第8世界でしかアピスに会ったことのない昴は勿論、戦場でしか使われないフォルテのことを見たことはない。噂には聞いていたが――実際目にしてみると、その能力は噂以上に容赦ない。
アピスは昴の無事を確認すると、濡れるのも構わず、今度はプルトンの方に歩み寄る。えぐられた場所を痛々しい表情で見ながら彼女は答えた。
「ええ。『影』だけどね。本体は見たもの全て消してしまうから、なるべく私の視線を媒介にしてるの。精霊にとり憑かれるわけだから、これはこれで大変なんだけど――ん、大丈夫よ、プルトン」
沈んだ主の声が気になったのだろうか。顔を擦り寄せてきた精霊を、アピスは優しい微笑みを返して撫でる。
「――慣れてるから」
何に、と思わず口を挟みそうになって昴は声が出る直前で踏み止まった。そんなもの、一つしかないではないか。
問答無用の殺傷能力――下手をしたら、殺傷より質が悪いかもしれない。存在そのものを消されてしまうのだから。
アピスとて、血の通った人間なのだ。
――慣れないものなんだよ。不思議だよな。殺しても殺しても、罪悪感ってのは永遠に付きまとい続ける。
そしてそれは罪なのだと、命を奪う者の定なのだと、かつてそう言った友人の顔が思い浮かぶ。
「…無理させてごめんなさい。ゆっくり休んで」
アピスの言葉に応じ、小さく鳴き声を上げるとプルトンは姿を消した。ようやくこちらを向いたアピスの顔は、固く引き締められている。
「ラズに連絡を取ってくれる?一応、彼も警戒するように」
「じゃあ今の精霊は…」
昴は半ば確信を持ってアピスに尋ねる。だが昴の言わんとしていることを理解したアピスは静かに首を横に振り、じっと昴を見つめる。
雨の音が、辺りに響いていた。




