第1章:トウキョウ 9
一人の男がふと足を止めた。
歳は40を少し過ぎた程度だろうか。薄茶の艶のない髪を一つに束ね、目元には隈が広がっている。元はそれなりに整っていたのだろうが、疲れきった表情のせいで今はただの神経質そうな男に見える。
ガラス越しに彼は階下の部屋を見下ろした。3人の男の姿がそこにある。皆同様に身体を拘束され身動きが取れない状態で放置されており、顔には真新しい傷がある。だが、状況は全く同じでありながら様子は人によってまちまちだった。一人はもうずっと横になったまま脅えたように震えているし、一人は眠りこけているかのように動かない。ただ、最後の一人――四院醍醐だけは毅然とした表情でこちらを見上げていた。マジックミラーになっていて、向こうからこちらの姿は見えないというのに。
彼は苛立たしげに顔を歪め、舌打ちした。
「――いやー、流石、四院家の当主。強いなあ。拷問なんか受けたことないだろうに、良く耐えると思いません?」
「……何故殺さない」
彼は気配もなく現れた小柄な青年に低い声で尋ねた。尋ねるというより、脅しに近い。深く濃い殺意が含まれた声色だ。しかし青年はそんな声をものともせず、無造作に伸ばした黒髪を指先で弄びながら飄々と答える。
「だって俺達の工作を見破ったんですよ?世界連合に流し続けていたデータには指定されたユーザー以外はアクセス出来ないよう、この世界の技術じゃ開けないような厳重なロックがかかってたのに。どこの誰からそんな事を聞いたのか聞き出してそいつを叩かない限りは、またこうやって計画を台無しにしようとする奴が出ますよ」
彼は肩をすくめた。
「――冗談じゃない。3年も前から時間をかけてこの国の核疑惑をでっち上げてきたのに、いざ計画実行ってときに邪魔されてたまるもんか」
「ならリオールは!知っているぞ!あいつもまだ殺していないだろう!?」
とうとう痺を切らしたように彼は青年の胸ぐらを掴んだ。青年もぎょっとして彼を見上げる。ぎらぎらと光る鈍い金色の瞳には自分への殺意まで窺える。青年は慌てて両手を上げて弁解した。
「そっ――それはっ、『あの方』のご命令で!」
「……『あの方』の?」
ふ、と彼の力が緩む。その隙にさっと青年は拘束から抜け出した。乱れた胸元を整えながら、なるべく相手を刺激しないように穏やかな声で言う。
「餌になるって。アピス・ユピテル・コードウェルを誘き出すのにね。ま、殺したら殺したで、怒って俺達のところに乗り込んでこようとするでしょうけど…そのときは同行している騎士とかあのベギンが、危険だからって止めるでしょうから」
「……本当にそう『あの方』が言ったのか?」
「本当ですよ!何なら聞いてみれば良い。さっき外にいらっしゃいましたよ」
青年はそう言うと何事もなかったかのように手をふらふらと振って、やって来た方へ去っていった。その様子からして、暇だったのか、世間話をしに来ただけのようだ。
彼は複雑な表情でその後ろ姿を見送っていたかと思うと、憎々しげに顔を歪めた。そして、ひとつ舌打ちをすると再び階下の部屋に視線を戻す。相変わらずこちらを睨み続ける気丈な男。自分達の前では無力にも等しいのに、四院醍醐は拷問に負けることもなく、未だ有力な情報は何も語らない。
その反抗的な目に挑発されるように、彼はガラスを力強く叩いた。見下ろしていても、見下せてはいない気がしたからだ。
一瞬でも良い――その強い眼差しが揺らぐところを見たかった。
だが、醍醐は決して動じなかった。震え続けていた若い男が音に驚いて飛び上がったが、醍醐はぴくりともしなかった。寧ろ、視線の先に敵がいることがわかったからか、彼は一層目を細めて階上を見上げる。
かっ、と彼の頭に血が昇った。屈しない――何故屈しない!?
怒りを誤魔化すようにさっ、と視線を反らすと彼は身を翻して青年とは反対の方向に足を進めた。
『あの方』の考えていることはさっぱりわからない。
だが、だからと言って彼の目的は変わらない。
絶対に負けない――そのためにも、彼は彼の準備を進めるだけだ。
話を聞き終えたとき、ラズは目に見えて青い顔をしていた。その横で、本来なら顔を青くするべき騎士の千秋が飄々としているのにもかかわらずに。
空港に着く直前に昴から連絡を受けたラズは、彼等よりやや遅れて佐伯邸に到着した。千秋が再会を芝居がかった大袈裟な仕草で喜ぶのを軽く無視してアピスが事の次第を説明しているうちに、だんだんとラズの顔から色がなくなっていったのだ。
少しの間の後、軽く目を瞑り、額に手をやったラズは、ようやく絞り出すように言った。
「――そこまで気が回らなかった…すまない、アピス」
「いいのよ、私も気を抜いてたし。帰ってくるまでにラズに何かあったらいけないと思って連絡しただけだから」
千秋が入れた紅茶をラズに差し出した。千秋の意図を汲み、ラズは紅茶を口に運ぶ――紅茶の暖かさと鼻に香るすっとしたハーブが、動揺した心を不思議と落ち着ける。
同様にアピスの前に紅茶を置いた千秋は自分の分もちゃっかりと用意して、空いていたソファーに腰を下ろした。そして嬉々とした表情で砂糖をスプーンできっかり7杯入れ、溶けきらなかった分を掻き混ぜながら明るい声で言う。
「しかし、これで何か起こってることはわかったな」
「だから何だっていうんだ。アピスが襲われたこととリオールのことが関係あるとは限らないし、あったとしても、結局リオールが自分からいなくなったのか、拐われたのかはわからない」
「そうでもないぞ?」
行儀悪く、千秋は掻き混ぜていたスプーンを左右に振りながら得意そうに言った。
「少なくとも今回のことがリオールに関係して起こったことは確かだし、リオールが拐われたのもほぼ確実だろうな」
ラズは眉をひそめて思わずアピスを振り返った。わけがわからない、と同意を求めるつもりだったが、視線の先でアピスは千秋の言葉に力強く頷いている。一層眉をひそめたラズに、アピスは言った。
「あの精霊と兄様に関係がある点については賛成するわ」
「……どうして」
「ラズ、襲われたのは私じゃない。昴よ」
目を見開く。
確かにその通りだ。契約を交していない自由な精霊ならともかく、術士が操っていて、端からアピスが目的なら、通りかかったからといって昴を襲う筈がない。アピスと昴の関係を知っての犯行ともとれなくはないが、あの精霊の足があれば、面倒なことをせずとも近くにいたアピスに直ぐに追い付けた筈である。
「昴が精霊に襲われなきゃならない理由なんて、私の他には兄様くらいしかないじゃない」
「さっすが俺のアピス。冴えてるー」
「……でも、千秋。兄様が拐われたっていうのは断言しかねるわ。理由は?」
「えー?」
ふん、と鼻息荒く千秋はソファーに沈めた身体を起こすと、乗り出すようにして座り直した。アピスも思い付かないことを思い付いたということがよっぽど嬉しかったらしい。
手にしたスプーンをびしっと前に突き出して、彼は講義を展開する。
「普通に考えろよ、普通に。プルトンと拮抗するくらいの上級闇精霊を扱う術士から逃げ切れるようなら、こっちに連絡入れることだって簡単だろ?闇術ってのはねちっこく人の影を追うのが得意なんだから――ま、まだいなくなってから然程日数が経ってないから、決めつけるのは早いと思うけど」
「…なるほど……そうね。兄様は光属性だって話だし、追っ手が闇術士だとしたら、捕まっていなければ逃げるのは簡単でしょうね。となれば、私達に接触することも簡単に出来るはず――ラズ、どう思う?」
「理論としては間違ってないが…」
どこか釈然としない表情で腕を組むラズ。あまりに単純で簡単な理論なので、突っ込み所が見つからない。だが、そんなに簡単な話だろうか。
「更に更に…」
そんなラズを見ながら、千秋は勿体ぶるように言葉を止め、間を空ける。とっておきの秘密を暴露するときのきらきらとした表情を厳しい顔でラズが睨んでいると、その横でアピスがはっ、と顔を上げた。
「――やっぱり相手は聖族だわ…」
がく、と千秋が肩を落とす。どうやらそれが言いたかったらしい。
またしても一人置いてきぼりにされたラズはアピスを見た。それに気付き、彼女は珍しく興奮気味に答える。
「だって連絡ならアースで出来るもの。なのにそれをしないってことは、敵も聖族で、私達に連絡を取ろうとしたら彼等にも知られてしまうからじゃないかしら。場所を知られないように今まで故意に隠してきたくらいだし、アースの使い方は兄様だってわかってるでしょうから」
「……聖族が…」
リオールを連れ去ったのが聖族だったとして、万一、本当にそれが20年前の事件の犯人と同じだったら――頭に浮かぶ同族の顔。その誰かが大量虐殺を行い、なお平然と自分達の中に紛れているのだろうか。確かに中にはいけ好かない者もいるにはいるが、それでも一応、共にセレスティアを率いる仲間だ。むやみやたらと疑うことには抵抗がある。
本当にそれしか考えられないのだろうか――ラズは顔をしかめ、唇を噛み締めた。
そして、そのときだった。
「――アピス、話がある」
と、間を見て叩かれた扉が開き、神妙な面持ちで昴が部屋に入ってきたのは。




