第1章:トウキョウ 5
佐伯邸から車で30分ほど。
首都圏最大の規模を誇る巨大霊園の一画で、アピスは一つの墓碑の前に佇んでいた。昴の姿はない。いよいよ空気は湿り気を帯びてきて一雨きそうなので、彼は近くまで傘を買いに行ったのだ。普段の彼なら運転手に買いに行かせただろうが、一緒についていったのはアピスへの気遣いもあるだろう。
墓碑は綺麗にされていた。昴自身はあまり来ていないようだが、お金を出せば霊園が管理してくれるというので、頼んであると言っていた。凪はそれなりの金を残しており、アピスが昴に渡したその遺産で当面は維持出来るらしい。
彼女はじっと墓碑を見つめていたかと思うと、ふ、と微笑む。
香椎凪
墓碑に刻まれたその名前――その字の並びを見るのは久し振りだった。
「……遅くなってごめん。2年も経っちゃったよ」
アピスはしゃがみ、墓碑に――正確にはそこにいる彼に話し掛ける。彼が亡くなった後、《鐘楼の殿》ではなく彼の出身であるこの世界のこの国に墓を建てようと提案したのはアピスだった。彼はしばしば故郷に帰りたいとぼやいていたし、《殿》からの脱走を何度試みたかわからないほど、あの場所が嫌いだったからだ。
だが、アピスは今になってそれを激しく後悔していた。
墓というものは、入る者よりも寧ろ残された者のためのものだということを彼女は思い知った。墓は、故人を偲ぶ思いの象徴なのだ。
今日という日をどれほど待ち望んだかわからない。やる瀬ない思いは募るばかりだった。忙しさに悲しみは誤魔化したが、それはふとした瞬間に刃のようになって姿を現し心を引き裂いていく。
今日でけじめをつけるつもりだった。言い残したことはここで伝えて、戻らない過去を嘆く思いは全てこの墓碑に預け、自分は前へ進む。それは、今に向き合い、明日を目指すためには必要なことだった。
だが――
「―――うー…」
唸り声を漏らして、アピスは頭を抱える。
彼は、目の前にいる。
そう思うと――過去の想いを伝えるどころではなく、今の弱音を吐いてしまいそうだ。
「何で今、思いだすかなぁ…」
ここに来たのは、気分転換の意味もあったのに。これから嫌というほど考えなくてはならない問題を一旦忘れて、一から始めるために。
頭に百夜の顔が浮かぶ。
『あいつにとって一番良い道を、探してやってくれないか』
「……兄様の一番良い道って何だろう…って、凪に聞いたってしかたないのに」
アピスは独り言ちる。
リオールを探さなくてはならない。そのことは、アピスの中で既に決定事項だった。彼が逃げたにしろさらわれたにしろ、会って話をしなくてはならない。
問題は、彼の意見を尊重すべきかどうか――その一点に限る。
コードウェルは今、結束しなければならない。一つでも聖族が滅びれば世界の均衡は崩れ、争いや飢餓といった様々な形で歪みが現れてくる。それを防ぐためにも、リオールが必要だ。
皆、それを望んでいる。
だがアピスは迷っていた。強制が絶対だとはどうしても思えない。兄が嫌なのに戻ることを強制して、その先に明るい未来があるとも思えない。しかし、ここでアピスが皆の意思に反してリオールの意思を尊重し、彼が帰ることを拒んだ場合――
――取り返しのつかないことになる。
アピスはちらりと視線を上げた。墓碑に刻まれた名前を見上げる。
何か言ってくれるんじゃないか――そんな気がする。
悩み事、迷い事は殆ど彼に相談してきた。彼はいつだって、アピスに最良の道を教えてくれた。あの裏のない真っ直ぐな目は、何も考えていないようでいて、何よりも一番現実を見つめ、物事の本質を見極めていた。
それが、彼の持つ才能の一つだった。
「―――私、どうしたらいい?」
ねえ、凪、答えてよ――。
虚しくも、木々がざわめく。
そのときだけ、沈黙を守っていた風が彼女の小さな声をさらっていった。
香椎凪とアピス・ユピテル・コードウェルが出会ったのは、二人がようやく10歳になろうかというとき――セレスティアの《鐘楼の殿》と呼ばれる施設に凪がやって来たことがきっかけだった。
《鐘楼の殿》は『術士』と呼ばれる特殊能力者を育てるための専門教育機関である。
『術士』とは、セレスティアに住まう精霊と『契約』を交わすことで精霊を使役する者達のことを指す。人は誰しも生まれながらに火、水、地、風、光、闇、時のいずれかの属性を持ち、各々は己れの属性に従い、同じ属性の精霊とのみ契約を交わすことが出来るのだ――ただ、内に秘められたその才を如何に引き出すことが出来るかは、個人差が大きい。
術士の才のあるものを引き抜き、術士としての教育を施す――その最高峰が《鐘楼の殿》であった。
アピスは生まれてすぐ母とクリスティーヌによって《鐘楼の殿》に入れられた。セレスティアにあってもどの国にも属さない完全孤立な《殿》だから、忌まわしい敵からアピスを隠すのに最適だと思ったのだろう。それに、そこにいるのはどれもセレスティアの誇る一流の術士達である――敵も、そう簡単には突破できまい。
アピスは闇術士だった。
それも、ただの闇術士ではすまなかった。6歳で《殿》の教師の大半を凌駕する力量を身に付け、8歳で闇精霊のトップに君臨する最高精霊フォルテと契約を交わし、名実共に闇術士のトップに立った。
無力故に預けられた赤ん坊の成長に、誰もが目を見張った。
幸い、アピスには分別があったため、精霊を誇示して他の術士を脅かすようなことはしなかった。彼女はあくまで教師に従い、与えられた『課題』を確実にこなし、着実に実績を積み上げていった。
そんな、確実なものだと思われたアピスの地位を唯一脅かす者が、香椎凪だった。
誰もが目を見張った。
生徒だけではない。教師も、そして当の彼女も、床に倒れ、レイピアの切っ先を突きつけられた状態で目を丸くして固まっていた。
ただ、彼だけが何事もなかったかのように表情を変えなかった。きっかり5秒数えると、レイピアを引き、アピスの上から降り、静かに審判をしていた教師の方を振り返る。
そして――にかっと、笑った。
「――俺の勝ち!」
本人の宣言に、我に返った審判は慌ててコールする。
野次馬が一斉にざわめきだした。
数ヶ月前、第8世界から連れてこられた少年――その日は彼が初めて実戦を公開する日だった。だが、そんなことは誰も注目していない。野次馬達が見に来たのは『最強の闇術士』と名高いアピスの試合で、相手の少年は、可哀想な犠牲者だ、とくらいにしか思っていなかった。
ところが、蓋を開けてみればこの結果。
少年は特に冴えた精霊を使役しているわけではなかった。どれもこれも、剣や盾などの姿で存在する中級精霊。アピスがフォルテを召喚しただけで、その覇気にやられて消滅してしまうような、とるに足らないものばかりだった。
だが、少年は勝った。
少年はくるりとアピスを振り返り、屈託のない笑顔を彼女に向ける。
「悪いなー。あんた、一番強いんだって?」
「――おかっ…おかしいよ!何、あの精霊の数は!?」
ぱっ、とアピスは立ち上がり、息も切々に審判の横に立っていた2人教師に叫んだ。消しても消しても、少年は次から次へと精霊を召喚する。もう、何体倒したかわからない。そうこうしているうちにアピスの体力が切れ、レイピアが喉元に突きつけられたのだった。
そこにいた2人の教師は、一方はアピスの教師、一方は少年の教師――反応したのは、少年の教師の方だった。
「よくやった凪!――どーだアピス!質より量だ、ざまーみろ!」
「黙って下さい、スィーニー先生。どうせずるでしょ。先生が手伝ったんでしょー!?」
「生意気な!んなわけねーだろっ。全部凪の実力だよ、凪の!」
「――アピス」
大人気ないと有名な同僚を一睨みして黙らせたのはアピスの教師。彼は極めて静かな声で――そして有無を言わせぬ口調で、彼女にきっぱりと言い放った。
「――世界は広い」
アピスは愕然として教師を見た。
自分が負けたという事実を、突きつけられた瞬間だった。
呆然と、アピスは地面に座り込む。最近は以前に増してフォルテとの相性が良く、力も増してきた。接近戦に持ち込まれても直ぐ様フォルテを召喚できるくらい――だから、調子にのっていた。
目を瞑り、フォルテを召喚してみようと試みる。が、体力はもう限界で、集中は途切れ、術は霧散する。まさか、体力切れでフォルテが封印されるとは思わなかった。
凪の方を見上げると、彼は自分の教師と何か話しているところだった。激しく言い合いをしているようだが、アピスの耳には入ってこない。ただ、その姿にはまだ疲れが見えず、彼女は唇を噛み締めた。
ふと、凪が、アピスの視線に気がつき振り返った。気まずさにいたたまれなくなって、さっと視線を反らしたアピスに、彼は近付いてくる。
アピスの目の前に、小さな手が差し出された。
「――俺、香椎凪。ギルトなんだ」
輝くような笑顔で明るく、何ともないように彼は言う。
それが、二人の出会いだった。
『ギルト』と呼ばれる者がいる。
自然の摂理に反する能力を有する者である。例えば、凪の場合は、通常の術士が1体、多くても2、3体の精霊としか契約出来ないのに対し、『いくらでも精霊と契約出来る』という能力を有するギルトであった。これが、彼が半ば拉致される形でニホンから《殿》に連れてこられた理由でもある。万一彼が自分の能力に気が付いて上級精霊とばかり契約してしまったら、自然のバランスが崩れるうえ、誰も太刀打ち出来なくなるからだ。
アピスはこの一戦以降、凪を越えることを標準に合わせて訓練を続けた。だが結局、彼等が《殿》で行なった手合わせ786戦で、アピスが凪に勝ったことは一度もなかった。大人気ないあの教師はよく考えたもので、武器の形をとる中級精霊は彼の高い身体能力を存分に引き出すのに一役買い、最終的には、アピスはフォルテを召喚する前に距離を詰められて負ける、というパターンが定着した。成長と共に身体的な差が広がったこともあって、アピスには勝てそうな気配すら見られなかった。
いつしか凪は『最強の術士』と呼ばれるようになっていた。
闇術士の域を越えて、彼の力は突出していた。だが、彼はそのあっけらかんとした明るい性格から、人に疎まれることは殆どなかった。あまりによく笑うので、馬鹿なのでは、とアピスも疑った時期はあったが、彼は座学でも当時同世代でトップだったアピスに並ぶ成績を修め、実力だけでなく、一介の生徒でありながら《殿》の運営面でも、アピスと同様発言力も高めていった。
しつこいほどの手合わせ、また、所属する教室が同じだったこともあり、アピスと凪は共にいる時間が長く、互いに良いライバルへと成長していった。信頼関係も築かれ、だからこそ凪は《殿》脱走時の協力者である昴をアピスに紹介し、アピスは自分がコードウェルであることを明かした。秘密を明かしてしまったことで、信頼はより一層高まり、敵対するばかりでなく、二人は戦地に駆り出されたときは協力して成果を上げ、《殿》を運営する長老達を唸らせた。
二人合わせれば怖いものはない――《鐘楼の殿》の最強コンビの名は、セレスティア中に広まるほどにまでなった。
そして、今から2年前。
その最強コンビに下された一つの『課題』。
それは一見、普段の『課題』と何ら変わらないように思えた。
だが、その『課題』が、二人の人生を大きく違えることとなる。




