第1章:トウキョウ 4
「―――最悪だ」
その、何度目かもわからない呟きを聞いて、彼はちらりとバックミラーに映った主人の姿を見た。先程まで目を閉じ深く考え込むようにしていた彼の主人は、今は眉間にしわを寄せて顔をしかめている。50代も後半のはずだが、歴代の四院家の当主が十数名の直属のスタッフと共にやっとこなしていた数々の仕事をずっと一人でこなしているだけあって、まだまだその容姿からは精気が十分に感じられる。
四院醍醐の呟きに、助手席に座っていた秘書は目を通していた書類から僅かに顔を上げた。やはりバックミラーで後部座席を確認すると、彼の方を向く。
「進藤さん、もう少し急げますか?」
「あ、はい…」
言いながら、何処へ、と思う。決まっている。首相官邸だ。
コネを駆使し、四院家という、御簾の向こうどころか雲の上の世界に、運転手として仕え始めてまだ1ヶ月。よっぽど人手不足だったらしく、直ぐ様当主である四院醍醐の専属にさせられ、専ら都内を日々――特にここ数日は――忙しく走り回ったが、これまではどうもそんな凄まじいところに就職したという実感がわかなかった。確かに大企業の本社や、何とか界のドンだとか言われる家に送り迎えはしたが、別にそれはある程度の名家の人間なら珍しいことではない。
だが、今回は話が違う。
首相官邸である。
しかも唐突に、だ。屋敷を出てから官邸に電話を入れ、ものの数十秒でアポをとりつけてしまった。何やら深刻で急を要する用件らしいが、彼の知ったことではない。とにかく、首相官邸に入れるという事自体が――鳥肌ものだ。
秘書に言われ、彼は頭に官邸までのルートをいくつか思い浮かべる。が、この雨を考えると、どの道も混んでいそうだ。
困って思わず後部座席に目をやると、鏡越しに主人と目が合う。
「この雨では急いでも知れているだろう。時間は気にするな。既に証拠はこちらにあるわけだし、政府には下手に動かぬよう警告してある――事故を起こされても困るしな」
「あの…」
彼を落ち着かせるような、静かな声だった。それに乗せられるようにして、彼は恐る恐る聞き返す。
「……何があったのか、お聞きしても?」
直ぐ様隣から秘書の厳しい視線が飛んできて彼は肩をすくめた。彼はこうしてしばしば、好奇心から運転手として出すぎた発言をして、先日も怒られたばかりだった。
だが、主人の反応は違った。彼はふう、と深い溜息をつき、愚痴るように言う。
「君には、ここ数日訳もわからないまま振り回して申し訳ないと思っている。いずれ発表されることだし、そろそろ言っても構わないだろう――この国は、テロにあっていたんだ」
現実からあまりにかけ離れた言葉に息が止まった。
何かの比喩だろうか、と頭を巡らせるが特に何も思いつかない。秘書と主人の様子を見るに、ふざけているとも思えない。
赤信号で車が止まる。雨音とワイパーの音が車内に響く。
特に最近、何か大きな事件や事故があったわけではない。それどころか、近年は国際協調が進み、国内外問わずテロに繋がるような話はめっきり減ってしまった。死語とは言わないが、漫画や映画じゃない限り、そんな単語を耳にする機会はまずない。
しかし今、主人は何と言った?この国はテロに『あってきた』、と――
頭がショートしそうな感覚に襲われ、彼は首をぶんぶんと横に振る。そして言葉の真意を尋ねようと、再びバックミラーに目をやったときだった。
――こん、こんっ
と、今までとは別の音が車内に響く。同時に、運転席の後ろのドアの横に、黒い影があることに気付いた。人?――彼は曇ったガラスの向こうを判別しようと目を凝らす。
「――進藤、車を出せ!」
瞬間、主人の鋭い声が響いた。
咄嗟に従おうとするが、前も後ろも車に囲まれている。唯一左側になら出られるが、そこは反対車線だ。
そんな彼の思考が想像ついたのか、主人は叫ぶ。
「交通ルールはどうでもいい!逃げろ!早く、車を出せ!」
それでもわけがわからず何も出来ないでいる彼の横から、同じく焦ったように秘書が身を乗り出してハンドルを掴み、足を伸ばしてアクセルを踏もうと苦心しているとき。
かちゃ。
鍵のかかっている筈のドアが開き、黒いコートを纏った絶望が車内に乗り込んできた。
結局、リオールの失踪の原因は特定出来なかった。
四院家は誘拐事件として警察に届けを出そうとしていたが、アピスが止めさせた。リオールが自分から出ていったのだとしたら警察に探させずともアピス達が身を引けば帰ってくるだろうし、さらわれたのなら相手は例の事件の黒幕以外に考えられない――そんな相手をこの世界の警察に探させたところで大した成果は望めないだろう。
四院邸で話を終えたアピスは憔悴しきった表情で佐伯邸に向かった。さすがに、久し振りに会う昴の両親と挨拶を交わすときはなんともない様子を振る舞っていたが、結局その後は用意されていた夕食も食べずにすぐあてがわれた部屋に籠ってしまった。
そのまま夜が明け、朝も遅い時間になる。
昴は、部屋の前に立っていた。
かれこれ5分ほど経つ。口には自嘲の笑みが浮かんだ――普段なら自信を持ってきっぱりと物事を決めて突き進むのに、彼女のこととなると途端に優柔不断になる。本当に、いざというときに使えない男だ。
ノックをしようと腕を上げ、直前で止まる。これももう、何回も繰り返している動作だった。後は叩くだけだ。そうすれば、彼女は必ず昴を部屋に招くだろう――しかし、そうしたところで、彼女にかけるべき言葉を彼は知らない。
ただ、顔が見たい。
自己満足なのは十分承知だ。だがそれでも、久し振りに彼女のこんなに近くにいられるのに、顔を見ることが出来ないなんて辛すぎる。
馬鹿だな、と思う。全て吹っ切ったつもりだったが、自分はまだ、こんなにも彼女を欲している。
そして、彼が何度目かに腕を上げ、扉をノックしようとしたときだった。
かちゃ。
と、彼よりも扉の方が先に動く。
驚く昴の目の前に、苦笑したアピスが立っていた。
「……随分と長いことそこにいるみたいだけど」
昴の気配がしていたのだろう。本人から指摘され、彼も今までうじうじとしていた自分が馬鹿ばかしくなり、つられるように苦笑した。
「早く言えよ。情けないのがバレバレじゃねぇか」
「昴の情けないところなんて今更バラされるまでもなく知ってるわよ」
くすり、とアピスは笑う。そこには昨日のような疲れきった表情はなかった。昨日は精神的疲れの以前に肉体的疲れもあったから、あんな酷い顔になっていたのだろう。一晩寝て、少しは回復したか――まあ、昴の手前、強がって隠しているということも十分考えられるが。
「それで、何か用事?」
「いや、特には。昨日、疲れてるみたいだったからな」
「移動疲れだから大丈夫。ショックも大きかったけど、ショック受けてる暇があったら頭を働かせるわ」
そう言ってアピスはにっこり笑う。昴は少し驚いた。2年前の彼女からは想像出来ないような立ち直りの速さだ。
皆、成長するもんだな――感慨深くそう思っていると、その前で、昴に特に用事がないと知ったアピスは話を進める。
「――じゃあ、今日は暇?」
目に期待を込めて見つめられ、昴は反射的に頷く。本当は午後に大学の講義が入っているが、さぼれないことはない。と、いうより、はじめから、アピスの滞在中は大学はさぼって彼女に付いて回るつもりだった。
昴の返事を受けて、彼女は顔を輝かせる。
「凪のお墓に行きたいの。トウキョウにあるんでしょう?」
ああ、やっぱりな、と昴は心のどこかで思った。此処まで来て、次はいつニホンに来られるかもわからないのに彼女がそのことを忘れるわけがない。
彼ももう、半年ほど墓参りした覚えがない。ちょうど良い機会だ。
「……わかった。行くか。用意してくる」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑い、用意のために部屋に引っ込む。昴も自分の部屋に戻ろうと少し早足に廊下を進んだ。その道すがら、何とはなしに思いを馳る――凪の墓参り。1回忌くらいまではわりと頻繁に行っていたが、どうにも実感がわかなくてすっかり足が遠のいてしまっていた。憎めない笑顔は昴の脳裏にも焼き付いており、今も何処かで笑っている気がする。最後に会ったのは2年前になるわけだが、もっと最近見たような気もする。
ま、あいつなら死んでも死なずに、近くから此方の様子を見て笑っててもおかしくない――そう思い、ちらりと後ろを振り返る。だが当然何がいるわけでもなく、長い廊下が続くだけだ。
寂しくなったな。
思わず頭に浮かんだその言葉に昴は自分で驚く。そして、それを振り払うように頭を掻きむしり、今度は小走りになって自分の部屋に向かった。
途中すれ違った家政婦が、頭を下げながらも不思議そうな顔をして彼を見送った。
用意が出来たとの知らせを受けて昴が玄関に行くと、そこには既にアピスの姿があった。彼女に続いて昴が車に乗り込むと運転手はさっさと出発してしまう。
昴は隣のアピスを見やるが、別に気にした様子もない。
「ラザフォードはいいのか?」
「誘ったんだけど、いいって。ベギン王国にはお墓っていう文化がないのよ。亡くなった人は灰にして空に撒くの。生前の姿は心の中に留めておいて――だから偲びたいときはいつでも偲べる、ってね」
ふと、静かに目を瞑って空に向かって立つラズの姿が頭に浮かんだ。時折見かけるから、何をやっているのかと思ったが、そういうことらしい。
ふうん、と言いながら窓の外を見た昴の視界に濃紺が飛び込んでくる。
ラズが慌ただしく屋敷から出てきたところだった。
車はぐん、とスピードを上げ、屋敷はどんどん遠のいていく。身体を捻り、目を細めて後ろを見るが、彼が確認できたのはラズが佐伯家の車に乗り込むところまでだった。
隣で突然そんな動きをした昴を、アピスは不審そうに見上げる。
「どうしたの?」
「いや…ラザフォードが出てきた」
それを聞いたアピスの表情が少し引き締まる。
「何かあったのかな?それとも私達に用事?」
「さあ…何れにせよ、緊急なら携帯に電話してくるだろ」
昴は携帯を取り出す。電源はきちんと入っていた。特に不在着信もない。だが、代わりに――
何も言わず、取り出した携帯をいじりだした昴をアピスは不安そうに見つめた。ラズからの連絡か確認したいが、勝手に覗くのは失礼だと思ったのだろう。昴はアピスの視線を感じて、わからない程度に少し画面を彼女から隠す。
昴の動作からアピスはメールだと察しをつけた。不安は高まる。ただでさえ問題は深刻なのに、これに更に問題が生じるとなると、アピスとラズだけの手には最早負えない。だからといって誰かをこちらに寄越せるほど君主国に人手は余っていないのに。
やがて小さく溜息をついて、彼は携帯を閉まった。そしてアピスの視線に答える。
「別に緊急じゃない」
「ラズからのメールだったの?」
「ああ。あいつも少し出掛けるらしい。時間がかかるから、帰っていなくても心配するなって」
「そう…ラズって変なとこ律義よね。誰かに聞けばわかることなのに」
「全くだ――それにしても、タイミングが悪い」
小さな声で付け加えられた昴のぼやきをアピスは聞き逃さなかった。眉をひそめて尋ねる。
「タイミング?何で?」
「いや、こっちの話だ」
それっきり、昴はその話を拒絶するように窓の外を向いてしまう。アピスは納得のいかない表情をしていたが、それ以上はどうしようもなく、昴とは反対側の窓に視線を移す。
空は、昨日と同様どんよりと曇っている。
通り過ぎる町の木々は微動だにしない。風もないらしい。
怖いくらいに、世界は静かだ。
アピスは目を瞑った――嵐の前の静けさにならなければ良いが。




