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第1章:トウキョウ 17

 すうっ、と息を吸う音が聞こえて、彼は思わずそちらに顔を向けた。


「――もーわけわかんねぇ!」


 ばんっ、と千秋は投げやり気味に手にしていた紙の束を机に叩きつけた。そのせいで、机に積んであった別の紙の束が舞い上がる。

 あ、と千秋が思ったときには既に時遅し。舞い上がった大量の紙は彼の視界を覆い尽くす程だった。

 およそ十秒後、十分な時間をかけて全ての紙が床に落ち、舞う紙の向こう隠れてしまっていた人影が露になる。

 その浅黒い色の頬に走った一本の赤い線。それを見た千秋は、さあっ、と顔を青くする。

 ぎらぎらと光る金色の瞳が、それだけで射殺されてしまいそうな鋭い視線をもって千秋を睨んだ。


「……東金…」


「いやー…わりぃ。まじ、すんませんって。紙ってこえーよなー…うん」


 冷や汗を流し目を反らす千秋に向かって彼は一歩を踏み出した。そのとき床に落ちた紙を避ける辺りが生真面目な彼らしい。

 最早その上が無法地帯と化した机をだん、と叩き、身体に響くような大声で彼は怒鳴った。


「この馬鹿力の野蛮人が!!だから貴様と仕事なんざ嫌だったんだ!」


「その程度の傷で何キレてんだよ、シャビ。男はもっと寛大でいよーぜ?」


「馴れ馴れしく私の名前を呼ぶな!そもそも、そういう問題じゃないだろーが!!」


「だから、悪ぃって」


「貴様はどうしてそんなに軽いんだ!?」


 もう何度目になるかもわからないそのやり取りを右から左に聞き流しながらラズは小さく溜息をついた。

 やはり人選ミスか。

 作業が捗ると思ってとった処置が、余計に作業を送らせている気がする。

 そのとき、かた、と音を立てて目の前にカップが差し出された。その中ではコーヒーが湯気を上げている。カップを置いて引き下がっていく手を追い、脇に立つ彼女の顔を見ると、表情の乏しい彼にしては珍しく、疲れたきった様子ではあるものの、その顔に微笑みを浮かべた。


「ありがとう、ナナセ」


「いいえ、とんでもないです。あのラズ殿下にコーヒーを入れられるなんて、光栄の極みですから」


 栗色の髪を耳にかけながら、トレイを手にした少女ははにかんだ。彼女の名前はナナセ・ファノン。王国北部出身者に特有の透き通るように白い肌を持つ、まだ16歳の少女だ。アピス達には侍女だと説明してあるが、本当はギルトとして持って生まれたその能力故に王国に保護――悪く言えば監視――されている少女で、報告書を送ったところ、父がラズに寄越してきたのである。

 現在のところは送られてきたところでこれといって役に立つ娘ではない。なのでニホンに来てからはずっと、ラズ達に紅茶やコーヒーを入れたりなど、本当に侍女のようにささやかなサポートを受け持っている。普段はベギン城でそれこそ侍女付きの特別扱いを受けて暮らしているが、それでもある程度のことは自分でやっているらしく、特に彼女の入れるコーヒーと紅茶は絶品だった。

 はじめのうちは聖族やその騎士と私兵という重役に囲まれた威圧感のせいか口数も少なかったが、段々と慣れてきたらしい。元々の明るい性格もあって、今では出来る限りラズ達と親しもうという積極的な姿勢さえ窺える。

 言い合いを続ける二人を見ながらナナセは苦笑した。手にしたトレイにはまだ二つのカップが乗っている。千秋とシャビの分だが、言い争いに割り入って出す勇気はないようだ。


「東金騎士もジンナー様も、お元気ですね」


「お陰で作業が全く進まない…」


 はあ、と溜息をつくラズと、くすくすと笑うナナセ。その二人の姿に今更気付いたのか、言い争いをしていた千秋は勢い良く彼らの方へ振り向くと、息も切々に叫んだ。


「――ラズ!やっぱりこいつ反省してねぇじゃねーか!」


「だから貴様は!何度言ったらわかるんだ!!殿下に馴れ馴れしい口を聞くんじゃない!それでも騎士か!」


「はーん…嫉妬か、シャビ君?悪いが君の尊敬して止まないご主人様とは幼い頃から共に過ごし、生死の危機を共に乗り越えてきた『戦友』だからねぇ…ただならぬ絆があるのだよ」


「なっ…!!」


「……いい加減にしろ、お前等」


 妙に鼻を高くして自慢げに話す千秋とそれを受けて真っ赤になるシャビ。呆れてものも言えないとは正にこのことであるが、終わりの見えない意味のない争いを止めさせるべく、ラズは仕方なく二人の間に割って入った。同時に、面倒臭そうに左手を一振りする――すると、床に散らばっていた紙が独りでに集まり、ふわりと浮いて元あった場所に束になって積み上げられた。机の上にあったものも同様に勝手に束を形成しだす。それを見たナナセは、まあ、と目を丸くする。

 ラズはうつ向き、額に手をやって疲れたように言う。


「……頼むからこれ以上仕事を増やさないでくれ…」


 手詰まりで苛立っていることはラズもわかっている。でなければ、こんな時期になってもなお一つの部屋に男が三人も集まり、ぐだぐだと紙とパソコンを相手に格闘なんかしていない。

 彼等がニホンにやってきて一月ほどが経った。

 ラズはコーヒーを口に運びながら窓の外に視線を移す。相変わらず雲は空を埋め尽くし、圧迫感は否めない。だが、今はこの雲だけが戦争を引き止める頼りの綱なのだ。

 ラズの視線につられて、ナナセも外を見る。


「……この世界は晴れることがないのですか?」


「いや。こうごちゃごちゃしてると、そんなに広い空は望めないが――環境はセレスティアとそう変わらない」


「でも、私がこちらに来てからはずっと曇りや雨ばかりで…農家の方は大変でしょうね」


「まあな。だが、命あっての仕事だろう――バレたらアピスに殺されるかもな」


 苦笑するラズの言葉の意味がわからずナナセは首を傾げるが、それを無視して、彼は睨み合いを続ける部下と友人に向かって手元のボールペンを投げつけた。

 それが、有り得ない加速度をつけて二人の眉間に命中する。

 がん、と殴られたような衝撃に千秋もシャビも足元がふらつき、床に倒れた。唖然としてこちらを見上げる彼等をラズは冷ややかな視線で見下ろす。


「余程俺を困らせたいみたいだな」


「い、いえっ…!」


「ってー……アースは反則だろ」


「黙れ、東金!」


「千秋」


 どこまでも冷たく静かな声に、流石の千秋も固まる。恐る恐るラズを見ると、彼はやはり冷ややかな目で千秋を見下ろしていた。

 恐怖にすくみ上がり、千秋は立ち上がると、身体を強張らせながらもいそいそと自分が散らかした書類の整理にとりかかった。ラズが掻き集めはしたが、順番はばらばらになっている。それを横からぎこちない仕草で手伝うシャビを見て、彼は疲れたような息を吐くと腰かける椅子の背に身体を預けた。

 本当に、何も進まない。

 自分も相当苛立っている、とラズも思う。だがこの閉塞感はもう自分の中では処理仕切れない域に達していた。

 手元に集めた資料は一通り検討したが、結局、犯人の特定はおろか、容疑者を搾ることさえできなかったのだから。

 何も例の同盟から取り寄せた資料ばかりではない。過去数十年に遡ったセレスティアの政治犯の記録や各国の動向など、パソコン上のデータだけでファイルは2500。紙に落とした資料の束は、積み上げたらラズの身長の二倍を軽く超えるのではなかろうか。

 そう、その紙が問題だった。

 ラズもアピスも千秋もシャビも、科学大国の人間なのだ。普段からこのように書類と向き合うことを仕事としてはいるが、徹底したセキュリティの下、彼等が扱うのは殆ど電子化され、コンピュータによってきっちり管理されたもの。紙の書類もあるにはあるが、サインをするためだけの簡易なものが多い。故に、こうして紙に書かれた重要書類の扱いには全く慣れていないのだ。

 セレスティアのセキュリティ技術はこちらの世界のものを遥かに上回る。それをここに持ち込むことがセレスティアの独立に反する以上、紙に落とさざるを得ないのは仕方のないことなのだが――もう少し、まとめるなり何なり、どうにかならなかったのだろうか。

 誰に言うわけでもなく文句をつらつらと頭の中に浮かべていたラズは、やがてその不毛さに気が付くと、それを振り払うように髪を片手で掻き回す。再び険悪な雰囲気を醸し出し始めている正面の二人のことはもう諦めて、彼はパソコンのメールボックスを開いた。

 メールを待ち続けてもうどのくらいになるか。彼が同僚に調べ事を頼んだのは、本国に報告書を送った後直後だから――もう一月近く経つらしい。その間、その同僚が起こしたアクションといえばナナセを送ってきたくらいで、頼まれた通り調べているとは言っていたが、きちんとした報告は届いていない。

 ラズは、その調べ事が事態を打開するような気がしてならなかった。勘でしかないが、引っかかるのだ――ただ、出来れば勘違いであって欲しいと願うのもまた事実。

 実際、ラズが思った通りのことが今起こっているのだとしたら――それを知ったアピスは、間違いなく傷付くから。

 しかし、今日もまたメールが届いていることはなかった。彼は表示が間違っているだけではないかという僅かな希望を持ってメールリストの一番上のものをクリックするが、出てきたのは父からの皮肉たっぷりな報告書に対する返答だった。やはり報告書の偽造はバレバレだったらしく、一応騙された振りはしていてくれているが、言葉の節々が刺々しい。まあ、それでもナナセを送ってきた辺りをみると、父は父なりにラズの身を心配しているのだろうが。

 有り得ない希望をかけた自分が虚しくなって、ラズは静かにパソコンを閉じる。報告がない以上仕方がない。今は目の前の山をもう一度見直そう――そう、彼が決心した瞬間、部屋中に響き渡るような音で、電話が鳴りだした。ラズが千秋を空港に迎えに行くときに借りた携帯で、借りっぱなしになっている。

 千秋とシャビの視線も思わず電話に移り、その二人を楽しげに見守っていたナナセも、驚いたように電話を振り返る。ラズ自身も少し驚いた様子で携帯を手に取ると、恐る恐る通話ボタンを押した。


「……はい」


『あ、ラザフォード君?』


 佐伯家の人間と百夜にしか教えていないはずの電話の向こうの聞き慣れない馴れ馴れしい声が誰だかわからず、ラズは一瞬眉をひそめる――だが、本当に一瞬だった。彼は直ぐ様目を見開くと、勢い良く椅子から立ち上がる。


「おまっ…!!??」


『今は黙って僕の言うことを聞いて――知ってること、全部話すから』


 予想だにしない相手からの電話だったが、その一言がラズの驚きも何も全てを取り払った。

 相手の口調が普段より若干堅いことを気にしつつ、ラズは静かに彼の言うことをに耳を傾けた。


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