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第1章:トウキョウ 16

・・・・・・・・・・

第8世界

イギリス






 テーブルの上のカップを取り、口をつける。しかし口元に感じた冷たさに顔をしかめ、百夜は直ぐ様それを放した。すっかり冷めきってしまっている。

 そのとき、タイミング良く部屋にかかった時計が音を立てて時間を告げる。手元の本からは顔を上げず鐘の回数を数え、彼は驚くと同時に納得した。侍女がこの紅茶を持ってきてから、もう2時間が経つ。

 即ち、彼がそこに座り、本を読み始めてからそれだけの時間が経ったということだ。

 勿体無いことをしたな――そう思いながら彼は本をテーブルに伏せ、伸びをする。彼女の紅茶は絶品だったのに。

 目を細め、彼はすぐ隣の窓から空を見上げた。

 雲が高いところに見える。

 そのまま視線をずらしていくと、遠くの空が仄かに橙色に染まっていた。

 瞬間、脳裏に浮かんだのはこちらを押し潰すような、鬱蒼とした曇り空だった。一瞬で掻き消えてしまいそうなその記憶を、噛み締めるように百夜は目を瞑る。イギリスの別邸に避難してきて間もなく1週間が経つ。始めの2、3日こそこの国の広く高い空に違和感を覚え、何となく居心地悪さを拭えないでいたが、1週間も経てばもうすっかり身体はこちらに馴染んでしまっていた――同時に、ニホンの空がいかに異常だったかを、彼は今更になって実感する。

 だが、慣れたまま身を委ねてはいけないと、百夜は思っていた。

 あの空の下、まだ恐怖に脅える人がいる限り。

 椅子の背にもたれ、書斎を見回す。広い部屋だが、それ以外に特に何か変わったところがあるわけでもなく、ごく普通の書斎だった。装飾品があるわけでも、高そうな美術品があるわけでもない。思えば本邸の書斎も似たようなものだった。寧ろあちらはビルの中のオフィスのような部屋で、木で囲まれたこちらの方が、あたたかみがある分、洒落ているのかもしれない。

 とにかく――四院醍醐は、そういった装飾を嫌う人だったのだ。

 醍醐の書斎はその典型と言える。彼が最も落ち着ける空間は、家中で最も簡素な空間だった。

 百夜は手近にあった紙を読みかけの本に挟むと、醍醐の形に使い古された椅子から腰を上げた。形が合わないため、長時間座っていると腰への負担は半端ない。立ち上がった彼は、冷たい紅茶を飲み干すと、そのまま部屋を後にした。

 父の所在は未だ知れない。残された側近の奮闘で、四院が携わる業務は辛うじて滞ることなく行われているが、限界は近かった。社会に序列階級がある以上仕方のないことだが、頭を失った組織は簡単に潰れることが多い。それを考えると、彼等はよくやっている方だ。しかし早急に統制をきちんと取らなければ、四院もまた脆く、簡単にその権威を失っていくだろう。

 百夜が必要とされている。

 彼等は皆、最悪の事態を想定していた。そして、これだけ長いこと醍醐の行方が知れないとなると、予想は確信に代わりつつある。幸いにも、百夜は幼い頃から徹底して四院の当主になるべく育てられ――途中、重圧に堪えきれず逃げた時期もあったが――学業の成績には申し分ない。更に大学を卒業した後は醍醐の側で、その仕事ぶりを学ばされていた。中には醍醐に優るとも劣らない聡明な男だと讃える者も多く、百夜自身も、まだ父には及ばずとも、周りの助けがあれば、父の穴を埋めるくらいなら出来ると確信していた。

 条件は整っている。

 にも関わらず、何故彼がまだこんなところで呑気に本など読んでいるのかと言えば――単に、それは彼自身の覚悟が出来ていないからであった。

 誰がこんなことを予想出来ただろう。

 あの、四院醍醐が――死んだかもしれない、なんて。

 ぐ、と歯を噛み締め、百夜は廊下をしばらく進むと、突き当たりに現れた大きな扉に手をかけ、開く。


「―――百夜!」


 開けると同時に名前を呼ばれ、彼は声の主の姿を見るより先に驚いた。そして、ソファから立ち上がってこちらに歩み寄ってくる彼の形相にたじろぐ。


「なんだ……来てたのか」


 どうにかそれだけ言うと、百夜に前に立った彼は、無言で彼の胸ぐらに掴みかかった。


「どうして――どうして醍醐さんのこと、教えてくれなかったの」


 怒りと悲しさの入り混じった表情。百夜は自分より若干高い位置にある顔を見上げ、口を噤むことしか出来なかった。











 手にした本を棚に戻すとアピスは一息ついて一歩下がった。本棚全体を見渡す。壁一面を占める棚の下の方には普通の文庫本などもあるが、上の方に向かうにつれて殆どが政治学の専門書になっていった。先程からいくつか手に取って見てはいるが、《殿》で政治学を特別受講していたアピスでもさっぱりわからないものも多い。

 四院邸のリオールの部屋にアピスはいた。

 百夜を始め、四院の人間はもう殆どが避難してしまい、家にはまるで人気がない。2日後に、最後まで残っていた使用人と執事もキョウトの別邸に避難し、荷物も全て運び出してしまうというので、最後に何か手掛りがないかと探しに来たのである――まあ、望みは薄いが。


「――ええ!?昴様、まだこちらにいらっしゃるの?佐伯の御当主はもうキョウトに行かれたんでしょう?」


「そうなのよ、さっきお見かけしたわ…リオール様のこと、調べていらっしゃるみたい」


「まあ…立派といえば立派だけど、命知らずね。知ってる?首都圏の人口、この一月で半分に減ったらしいわよ」


 開け放った窓から、庭にいる使用人達の他愛もない噂話が聞こえてくる――アピスはこめかみの辺りを押さえた。

 昴を止めるどころか、昴に慰められてしまった。あの後、昴は自分で晃一ときちんと話し合い――その話の結末がどうなったのか、結局アピスは教えてもらえなかった――晃一は、もう3週間ほど前にキョウトへ発った。だから、佐伯邸には今、昴とアピス、ラズ、千秋、そしてラズの私兵と、ラズが本国から呼んだ侍女の6人しかいない。

 きっと、昴を逃がさなかったことはこの先しばらく後悔としてアピスの中に残る。あの日から時間が経ち、冷静になればなるほど思うのだ――セレスティアに関わり過ぎた昴に、何も起こらないわけがない、と。

 それに、ラズの警告がある。

 部屋を移動して再び眠ったアピスが目を開けたとき、側にいたのは昴ではなくラズだった。昴から話を聞いていた彼に促されずとも、未だ混乱から抜けきっていなかったアピスは思わず、自分の身に起こったことを彼に話していた。


 悪夢だった。


 血の海に、赤い身体。

 事切れた凪に、昴が重なる。

 それを聞いたラズは、アピスに警告した。


『――アースに飲まれるな、アピス』


 意味が分からず首を傾げる彼女に、ラズは驚愕の事実を口にする。


『お前にアースの制御法を教えたのは俺だ――まだ幼かった俺だ。そして、お前はそれしかちゃんとした訓練を受けていない』


 いくら聖族といえ、神の力はその身体には強すぎる。故に、聖族は幼い頃からそれを自分で制御出来るように訓練を受けさせられるのだ。

 勿論、そのことはアピスも知っている。ずっと昔に、ラズに教えられたのだ。幼いアピスの周りにいた聖族らラズただ一人で、聖族の能力については、全てをラズから教わったと言っても過言ではない。


『とはいえ、俺は一応、一通りの制御法はきちんと教えたつもりだ。基礎的な制御能力については、何の問題もないと思ってる――問題は、お前のその瞳』


 そう言って、ラズはアピスを指差した。

 赤い瞳が大きく揺れる。


『父親の瞳も赤かったから、単なる遺伝だと思ってるだろうが――それはただの遺伝じゃない。


瞳の赤は、アースの作る色だ。


アースの思念が赤いのは知っているだろう?お前のその瞳は、本来は身体の内側に留まるべきアースが、強すぎて表に出てきている状態なんだ』


 アースには個人差があり、よって、アースを使って出来る能力も人によって変わってくる。基本的に思念の追跡――同じ聖族の位置を探ったり、意思疎通をすることだ――は誰にでも出来る。その他に、それぞれのアースの強さに応じて、ものを動かしたりする能力が加わってくるのだ。

 一方、聖族として生まれながら、全くアースを使えない者もごく稀に存在する――『インフェリア』と呼ばれ、一般にその聖族の恥とされる特殊ケースに、アピスは勿論、ラズもまだ会ったことはないが。

 目を丸くするアピスに、ラズは更に続ける。


『アースがもたらす能力の再現を俺は知らない。だが、強ければ強いほど良いってわけでもないんだ。制御しきれないアースは情緒不安定の原因になりうる。そして、宿主の一番アースに近い部分――感情と強くリンクして、下手をすれば、アースに飲まれて宿主は自我を失う。


アピスが見た夢は、おそらくその初期段階だ。


お前の不安と、アースがリンクして、そんな映像を生み出した。それだけなんだ。だから惑わされるな』


 やはり、アピスはラズの言うことが理解しきれず眉をひそめる。惑わされるな、など――言われずとも、十分承知している。

 何故、わざわざそんな深刻そうな顔をして言うのか。

 本当の衝撃は、その後だった。


『――アースが夢を具現化したという報告例がある』


 アピスは固まった。


『大分昔の記録だが、あるにはあるんだ――だから、これだけしつこく言う。良いか――


昴を守りたければ、アースに飲まれるな。


不安を忘れろ。


毅然として、自分の意志を持って挑め』


 ラズの言葉を聞いて、理解した瞬間、昴を止められなかったことを、どれだけ後悔しただろう。

 どれだけ我が身を呪っただろう。

 結局、気を抜くことは許されず、強く、より強く生きることを強いられるのだ。

 だが、ここまで来てしまったらもう後には引けないのもまた事実――もう後は、昴の身に何かが起こる前に、その原因をアピスが処理するしかない。


 この身に変えても。


 昴がアピスと共に来るという危険を選んだ覚悟に見合う覚悟を、アピスもしなくてはならない。

 彼女は拳を握り締めた。


「――アピス」


 物思いに耽っていると、唐突に名前を呼ばれた。彼女は振り返る。そこには、昴と二人の見慣れない女性の姿があった。二人とも制服らしきものを着ている――この屋敷の使用人らしい。

 首を傾げるアピスに、昴は背後の女性達をちらりと見て言った。


「興味深い話を聞いたんだ――四院邸に出入りした人間で、怪しげな奴はいなかったか、と聞いたんだが…」


 アピスは神妙な顔つきで頷き、二人を見ると、本の山で散らかったソファとテーブルを片付けて、座るように促した。


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