第1章:トウキョウ 14
持て余した激情をぶつけるように昴は髪をかきむしる。
「お前がそんな顔するから――余計に離れられなくなるんだろ!?」
目を反らそうと顔を背ける彼女の頬を両手で包み、昴はそれを阻止する。自身は膝をついてしゃがみ、揺れる赤の瞳を間近から覗き込む。
「立場も『迷信』も一旦忘れろ。お前はどうしたいんだ――俺が聞きたいのはそれだけだ」
「…私は……」
魔法にかかったように、昴の言葉に流される。しかしアピスは出かかった言葉を寸前で飲み込んだ。
不安定に揺れていた瞳に、毅然とした意志が戻ってくる――しかし、それも壊れるか壊れないかのぎりぎりの線で揺らめいている。威勢を込めて睨むように昴の目を見るが、昴の強い眼差しに負けそうになり、彼女は堪えるように唇を噛んだ。
瞳が、身体が震えている。
しばらく無言の攻防が――アピスと昴の間で、そしてアピス自身の中で――続いた。
今日は小降りの雨の音が、静かにその間を埋めている。その音を聞きながら、昴は昨日の大雨で外に出来ているだろう水溜まりを連想した――静かな水面は、僅かな刺激にも揺れる。絶え間なく静かに降り注ぐ雨に、水溜まりは止まることなく揺れ続ける。
形も定まらない不安定なものを愛でるのは、ニホン人の性だと言うが。
先に動いたのは昴だった。彼女の頬を撫で、ゆっくりと顔を寄せる――彼女もそれを、拒まない。
ついばむような口付けを繰り返し、昴はふと、頬に触れる手が得た感触に瞼を上げる。
目の前の赤い水面は、揺れて揺れて――溢れ落ちた。
アピスは身を引き、顔を両手で覆う。
代わりに両手が空いた昴は、驚くでも、慰めるでもなく、ただ黙って彼女の頭に手をやり、優しく撫でる。
「……駄目…」
か細い、悲鳴のように高い声。
指の隙間から涙が溢れる。
そんな弱々しい姿は、もうずっと、誰にも見せていなかった。この2年間、彼女にかかる責任と忙しさが、その姿を許さなかった。それまでも、走ることを強制されたような人生だったが、その頃は確かにあった安らぎはもうどこにもなく――彼女自身が手放したのだ――彼女は、更に強く強く、立って、前に進むことを強いられた。
だから今、2年分の何かが、彼女の瞳から溢れ落ちる。
「昴は絶対に生かさなきゃいけないって、そう決めたのに…2年前も、昨日も」
「お前は優し過ぎるんだ」
いつだって、自分の希望は後回しで。
他人の意向を優先する。
それは《殿》の絶対命令の下に人間兵器として扱われた期間が長かったせいなのかもしれない。
自分の意向が通らない世界で育ったせいかもしれない。
皮肉なものである意味一番の致命傷となりうる戦場を経て、彼女は優しさや思いやりを学んだのだ。
そして、人より多く戦場に出たせいで――学び過ぎた、とでも言うのだろうか。
彼女は優しくなりすぎた。
だが、彼女は首を横に振る。
「そんなんじゃない――そんなんじゃないの…ただ、昨日のお父様を見ていたら…」
昴の頭に昨日の小さな晃一の姿が浮き上がり、彼は思わず顔をしかめた。
「…壊したくない……あんなに昴のことを思ってくれている人から貴方を取り上げるなんて、そんなこと、私には出来ない…」
「……父さんのこと気にしてたら、何も始まんねぇだろ」
「違う!これは、私の個人的な問題で…!!」
とうとうアピスが顔を上げると、頬を伝い、顎に溜った涙の雫が飛び散った。状況は状況だが――それを見て、昴は純粋に、美しい、と、そう思った。
「私には望んでも決して手に入らなかったものだから――ちゃんとあるのに、それを壊すのは……何か、嫌なの…」
痛ましげに、昴は一層顔を歪めた。アピスの葛藤の理由がようやく分かった気がした。彼女は家族を知らない――だからこそ、余計に強い憧れを抱く。そして、彼女が一番良く知り、近くで見てきた家族こそが、佐伯親子なのだ。
自分の希望を優先するか。
自分の理想を優先するか。
だが――それは昴にはどうしようも出来ないことだった。
晃一がアピスに何を言ったのかはわからないが、昴とて、父がどれだけ自分を心配してくれているかわからないわけではない。それを全て踏まえた上で、アピスを選んだのだ。
頭を撫でる手を止め、そのまま昴はアピスの顔を引き寄せると額に優しいキスを落とす。
「……壊れねぇよ」
嗚咽を殺そうと震えるアピスの顔を胸に押し付け、その耳元で昴は囁く。
「離れてたって、親は親だ。繋がりはそんなに柔じゃねぇ。生きてれば、必ずまた戻れる。だから、今は――」
昴はそこで一端言葉を切った。アピスが戸惑ったように顔を上げ昴を見上げると、彼は苦笑し、ぽんぽんと、彼女の頭を励ますように叩く。
「――それよりも壊れそうなお前を支えねぇと」
気丈に振る舞っていても、少しつついただけでこんなに揺らいでしまう彼女を放ってなんかおけない。
こんな最悪のタイミングで彼女をこちらに呼び寄せたのは昴だ。その責任は、負わなくてはならないのだから。
否――責任でも義務でもなく、これは、単に彼のプライドな問題なのかもしれないが。
アピスは言葉を失い、込み上げるものを堪えるように今度は自ら昴の胸に顔を押し付けた。
間違っている。
この選択は、どう考えたって間違っている。結局何の解決にもなっていない。昴の事を本当に想うのなら、この優しさに甘えてはいけないのだ――なのに、止められない。
本当は、肩の力が抜ける場所が欲しい。
そう思うと、凪か昴の顔しか浮かばない――ああ、凪。
凪は、死んでしまったから。
もう、昴しか――
「――っ…と……」
頭に浮かんだ考えに驚き、アピスは目を見張った。
そして、慌ててそれを振り払う。
混乱している。
それでは、まるで――昴は凪の代わりみたいだ。
そんなこと、絶対にない。
アピスの異変に気付いた昴が、不審そうに彼女の顔を覗き込み、声をかけるが、それは彼女には届かない。
目を見開き、頭を抱え、アピスは荒い息を吐く。
凪は、家族みたいなもので。
昴は、確かに愛した人――愛しい人。
絶対に違う。
絶対。
絶対――
赤い海の断片が見えた。
見覚えのある光景だった。
「―――――凪?」
そうだ、彼女が次に見たとき。
凪は既に血の海に横たわり、
息絶えていた。
「凪!!」
アピスは赤く染まる身体に駆け寄り、叫ぶ。
返事はない。
震える手を延ばした。
今は向こうを向いているその顔が、凪のものでなければ良い――そう、僅かな希望を込めて。
横たわる、まだ暖かい身体を転がす。
ぬるりという、なんとも言い難い感触がした。
「――――あ…あぁ……」
確かにそれは凪ではなかった。
ただ、凪ではなかっただけだ。
それは―――
「―――――昴っ!!」
悲鳴だった。
汗をたっぷりとかいて、延ばした手は空を掴む。
それをすかさず、横から延びてきた大きな手が包み込んだ。
「……どうした?」
優しげな表情で、昴は汗に濡れたアピスの前髪をもう片方の手で掻き揚げる。息を荒げて自分を凝視するアピスに小首を傾げ、握った手に力を込めると、彼女は我に返って身体の緊張を解いた。
そして、ようやく自分がベッドの上にいることに気が付いた。
――夢?
どこから、どこまでが。
アピスの問いかけるような視線に気付くと、昴は一旦手を離して、サイドテーブルの水を汲みながら言った。
「突然、気絶するように寝たんだ。疲れが溜ってたんだろ」
起き上がり、コップを受け取ろうと、アピスは手を差し出す。昴の手からアピスの手に、コップが移る――ことはなく、アピスの手をすり抜けて、音もなく、コップはベッドの上に落ちるとじわじわと染みを広げていった。
あ、と、小さく呟くアピスを一瞥して、昴は直ぐ様側にあったタオルで水を吸いとる。そして、コップを拾おうとするアピスの手を――震える手を掴んで止めて、昴は彼女を優しく抱き締めた。
手だけでなく、身体全体が震えていた。
「夢でも見たか?」
瞬間、アピスの目に赤い光景が蘇る。
片手で昴の服を強く掴み、もう一方で彼女は口元を抑えた。苦しげな呻き声が口から漏る。昴はそれに気付くと、彼女の背中を優しく擦ってやる。堪えるように顔をしかめるアピスに、昴はただならぬものを感じながら――出来るだけ彼女が安心できるよう、静かな声で言った。
「我慢しなくていい――出せ。気にするな」
昴がそう言った途端、アピスはうつ向いて、全てを吐き出した。
気持ち悪かった。
気分が悪かった。
見た夢の光景もそうだが――何より、そんな夢を見た自分が、気味が悪かった。
「――あのアピスが?」
話を聞いたラズの第一声はそれだった。
それほど、信じられなかったのだ。彼女が無理して気丈に振る舞っていることに気付かないラズではないが、戻したとなると、相当重いものを感じていたらしい。
昴は頷き、ちらりと、背後の扉に視線をやる。
「そういうわけで、あの部屋のシーツを変えるにも時間がかかるから、部屋を移動させた。今は寝てる――悪い夢でも見たんだろうが、話さねぇし…」
「………夢、か…」
ラズは考え込むように腕を組み、うつ向く。何か思い当たる節があるようで、昴は促すような視線を送ったが、気付かなかったのか、無視したのか――多分後者だ――ラズは顔を上げると、全く別のことを昴に尋ねた。
「結局、残るんだろう?」
「……」
完全に見透かされて不愉快ではあったが、ラズに敵うわけもなく、昴は素直に頷いた。
「今から両親と話してくる――母親、泣かすかもな」
「それは構わないが」
本当にどうでもよさそうに一蹴する。流石に昴も眉をひそめるが、気にするでもなくラズは続けた。
「お前、アピスを殺すなよ」
昴は言葉に詰まる。そんな昴の頭を軽くこずきながら、ラズはアピスの部屋の扉に手をかけた。
「アピスは、自分が死んでもお前を生かそうとするだろうな――そのことを、忘れるなよ」
「考え直せと言いたいのか?」
「ムキになるな」
部屋の扉を開けながら、昴は苦笑して振り返る。
「俺だって鬼じゃない。不愉快ではあるがな――生きろよ」
昴は――笑えなかった。
『生きろ』――そんな命令形は初めて聞いた。それは思いの他強く彼の胸に押しかかり、息が詰まるような気さえしてくる。
ぱたんと閉まる扉を見ながら、彼はぎゅ、と唇を噛み締めた。




