第1章:トウキョウ 13
「昴、逃げて」
翌日、朝食を終えた昴の後を追ってきたアピスがそう言ったとき、彼は僅かに視線を上げるだけでそれ以上の反応は返してこなかった。アピスは困ったように息を吐くと、彼の許可もなく部屋のソファに腰を下ろす。
「……おい」
「別に戦争のことばかりじゃないわ。貴方、襲われてるのよ?余計な心配をかけるのもどうかと思ってお父様には言わなかったけど…」
「勝手に座んな」
アピスの腕を掴み立ち上がらせようと引っ張る昴。それを乱暴に振りほどき、アピスは挑むように昴を真っ直ぐ見た。
「私達の問題なの。確かに、ここに至るまで昴にはたくさん協力してもらった――でも、本当なら貴方には関係ないことなのよ」
事がこんなに大きく深刻になるなどアピスも予想していなかった。だから、昴がこんなに深く関わって来ることなど想定していなかったのだ。
これでは、彼の身を思い、2年間に別れた意味が全くない。
「まだ気にしてんのか」
昴の声にアピスはぐ、と唇を噛む。だが、負けまい、と強い意志をもって彼から目を反らさない。そんなアピスの様子に昴は溜息をつくと、呆れたように続ける。
「まだ、っていうより、また、か……『凪が死んだのはセレスティアの不可侵っていう原則を犯したから?』――確かそんなくだらねぇ感じだったよな」
「……そんな言い方はないんじゃない?」
「俺にしてみりゃ狂言や戯言と変わりねぇし――それで、俺はそのとき言ったよな?」
ふん、と鼻で笑うと、彼は実に彼らしい不遜な態度で――当時と同じ表情、同じ口調で、そっくりそのまま繰り返した。
「『迷信なんて糞食らえ』」
膝の上に置かれたアピスの拳が握り締められるのを視界の隅で確認し、彼は続ける。
「なんだかんだで最後には納得してたじゃねぇか。それで血も柵も全部取り払って、国を立て直そうと思ったって言ってたじゃねぇか――確かに一度出来た溝はもう埋めても元には戻らなかった。それがきつくて別れたのが建前だった。だが本音は、お前が全部取り払って、やっと『国』と向き合えたからだと思ってたが、違ったのか?」
「直ぐにそんな簡単な話じゃないとわかったのよ」
アピスのような、セレスティアに生まれ、セレスティアに生きる者には切っても切り離せない定めと原則。それを一言で一蹴した彼が信じられず、また同時に羨ましくもあった。勿論始めは受け入れられず大分揉めたが――やがてその昴の言葉が原動力となって凪の死から彼女を立ち上がらせた。本来ならばコードウェルの長たるリオールがいなくては始まらないはずの国の復興も自分でも出来るのではないかと思って着手した。
血も柵も受け入れると言った凪。
血も柵も取り払えと言った昴。
二人の言葉はまるで正反対だが、どちらが正しいかなど当時のアピスにはどうでも良かった。ただ、立ち上がるには理由がなくてはならなかったから――あえて困難を強いられる昴の言葉を選んだ。
否、本当は逃げたかっただけかもしれない。
昴の言う『迷信』を信じるならば――凪が死んだのは、他でもない、彼をセレスティアに招くことを許した自分のせいになってしまうから。
だが結局まやかしはまやかしに過ぎず。
アピスはすぐに挫折を味わった。
柵は思った以上に深く、定めは思った以上に絶対だった。
昴と別れたのは、そんな挫折を味わって直ぐのことだった。
「――言われたのよ。『お前じゃ無理だ』って」
「他人に言われたくらいで諦めるとはな」
「ベギンの聖精霊にね」
昴は目を丸くした。言葉が出て来ない。
聖精霊。
アピス達を束縛する大本は、即ち昴の否定する『迷信』でもあり――彼はその存在を信じてさえいなかったのだから。
その反応を見て、自嘲するようにアピスは笑う。冷たい、皮肉げな笑い。
「復興をしようと国に帰ってすぐ、偶然出くわしたの……本人に頼まれて、ベギンには教えてないけれど――ねえ、柵を作る本人に言われちゃったのよ。私、これ以上どうしたら良い?」
手を伸ばし、毅然とした目をしながらも、すがるように昴のシャツを掴むアピス。だが昴に言葉はなく、彼女はがっくりとうなだれる。
「凪と、昴のこと――断ち切れ、と。すぐに元いた世界に返して、二度と関わるなと言われた。下手な干渉はセレスティアにも第8世界にも良くないから……でも、貴方はそれじゃ納得しないだろうと思って」
「言ってくれれば――!!」
怒ったような表情で、しかし昴は悲鳴に近い声で叫んだ。
が、それに顔を上げたアピスの、その表情の、なんと冷たいことだろう。
「言えば――何かが変わったの?」
昴は言葉を飲み込む。答えは明らかだった。だが――認めたくない。
昴から身を離し、アピスはソファに座り直す。うつ向くと、長い髪に隠れてその表情はわからなくなった。
「それでも、抗おうとした。
昴の言葉を信じたかったから。
柵からいつか抜け出せるかもしれないと、思ったから。もしかしたら本当に無理で復興は無駄に終わるかもしれない。でも、別にその程度のことなら構わないわ。努力が水の泡になるだけだもの――だけど、そんな一か八かの賭けに貴方の命を巻き込むなんて出来るわけないじゃない…!!」
言葉の勢いに反し、アピスは意外にも静かに顔を上げた。
赤の瞳が立ち尽くす昴を捉える。
「今も同じなのよ、昴」
アピスの言葉に、はっ、とするように昴は目を見開いた。
強い眼差しが彼を貫き、動くことを許さない。
「兄様と連絡をつけるのに貴方を介さなきゃならないことがどれだけ辛かったか……だからこそ、もうこれ以上は一緒にいられない。関わらないで欲しい」
アピスの口から、それまで直接言われることのなかった拒絶の言葉――それは思いの他、昴に強い衝撃を与える。
昴を見上げるせいで露になった彼女の喉元。こくん、と動く様子がよく見える。
「――だから、御家族と逃げて」
懇願するように。
アピスは言う。それは、それまでの声に比べると僅かに――本当に僅かな差だが――小さな声だった。
昴は身体の横で拳を握り締めた。力を込めてもなお足りず、更に力を込めると、掌に、ちり、と小さな痛みが走る。少し伸びていた爪が掌に食い込み、赤い血が滲む。
赤。
――昴はその端正な顔を歪め、堪えきれないように口を開いた。
「――そんなこと言うお前が、どうしてそんな顔してんだよ…!!!!」
目の前の、赤い瞳が大きく揺れる。
アピスは息を飲み――悲しげな表情を取り繕うよう、歯を噛み締めて昴を睨むように見上げた。
アピスと昴が去った食堂で。
給仕も下がり、今は広いテーブルの隅にラズと千秋が座っているだけだった。食後のコーヒーを飲みながら、ラズは新聞を読み、千秋はそれを覗いている。
首都圏から人が流出し始めているという記事だった。皆考えることは同じで、今はトウキョウを出た人間が一斉にキョウトやナゴヤ、オオサカに向かい、近い内に西ニホンでは住宅不足が問題になるだろうといわれている。
それを見ながら千秋はちらりとラズを見上げた。
「……昴、逃げると思うか?」
「さあ」
昴が残るか避難するか、それが問題になっていることは昨日のうちにアピスに聞いていた。彼女は考え直させると言っていたが、果たしてどうなることやら――
新聞から目を上げることもなく気のない返事を寄越すラズに千秋はふてくされる。嫌がらせに新聞の裏からラズが読んでいる辺りを指で弾いて遊んでいると、呆れたような溜息をついて彼は新聞を机の上に広げてしまう。悪戯も邪魔され、新聞にも興味を失い、千秋はつまらなさそうにコーヒーカップを口に運んだ。
「あいつ、俺様なのにアピスの言うことだけは何だかんだで聞くんだ。惚れた弱みってやつ?」
「そうだな」
「昨日止めたときは意地張ってるくさかったけど、一晩経ったら熱も覚めたかね?」
「そうだな」
「つーか、2人で昴の部屋行ったしな――アピスが色仕掛けの1つ2つすれば、あの昴もイチコロだってわけだ!」
「死語だな」
ラズが聞いていようがいまいが、構わず続けていた千秋。ただ、最後の最後でラズはすかさず突っ込んで来た。聞いてんのかよ――千秋がそう言うと、ラズは再び、そうだな、と返事をする。
呑剣な眼差しで千秋はラズを睨むが、彼は気にした様子もなく新聞を捲った。
「はあぁぁぁ……ま、別に昴がいなくなったとこで何が変わるわけでもねーし…寧ろ重りが一つ減るわけだしな」
「今からそんな心意気じゃ問題だな……お前、絶対にアピスを死なせるなよ」
呆れから一転、強いラズの口調。きょとんとする千秋にラズはようやく一瞬だけ視線を上げ、だが直ぐに元に戻す。
何か言うわけでもなく、ただそれだけ。
千秋はこめかみを震えさせながら精一杯の笑顔を浮かべ、身を乗り出す。
「ラーズさーん?意味、わかんねーんですけどー?しかもなんかちょーっと、物騒だったんですけどー?」
ぐい、と眼前に迫られ、流石にラズも顔を上げざるを得なくなる。だが千秋の苛立ちには構わず――寧ろ新聞を読むのを邪魔されたことに対して、不機嫌そうに口を開いた。
「――アピスは身を呈してでも昴を守ろうとするだろうからな。お前はそうならないように更にアピスを守るか、そうなる前に昴を守るか…今のうちに決めとくことだ」
そう言うと、ぐい、と手で千秋の顔を退かして新聞を読むことを再開した。千秋は千秋で理解が追い付かず、ラズにされるがままに乗り出した身を元に戻す。
千秋がラズの言葉を理解し、飲み込むには、たっぷり10秒かかった。
「――昴が逃げないって思ってんのか!?」
「避難なんかしないだろうな」
「アピスが言っても?」
「アピスが本心から言えば話は別だろうが…」
ますますわけがわからなくなって千秋は眉をひそめる。
「アピスが……昴に避難して欲しくないと思ってるってことか…?」
「まあ、お前がわからないのも無理ない」
アピスはラズを兄のように慕い、ラズはアピスを妹のように可愛いがってきた。
だからアピスが昴と別れた本当の理由も知っている。
神の手の内から逃れられないとわかっていても、ここまで、長なきコードウェルを率いて復興を進めるその原点に、昴の言葉があることも勿論知っている。
「アピスは、きっとまだ昴のこと――」
もう後は言わずともわかるだろう、と。
言葉の最後を飲み込んだラズを、千秋は腑に落ちない顔をして見つめていた。




