第9話 結界崩壊、パニックの王都
「戻ってきたか! 使者め、遅いぞ!」
使者が帝国を発ってから、十日あまり。
ヴェルダン王宮の執務室で、王太子フロリアンは転がるように戻ってきた使者を出迎えた。
部屋には、顔の爛れを隠すためにヴェールを被ったジビュレと、苛立ちを隠せない大臣たちが詰めかけている。
「さあ、見せろ! ロヴィーサは何と泣きついてきた!? 『殿下、お許しください、今すぐ帰ります』と手紙に書いてあるのだろう!?」
「は、はひぃっ……! こちらを……ロヴィーサ様が直々に……!」
使者が差し出したのは、フロリアンが送った親書そのものだった。
裏返され、綺麗に折り畳まれている。
「ふはっ、見ろジビュレ! 私の言った通りだ! あいつは手紙を読んだその手で、すぐに返事を書いたのだ!」
フロリアンは勝ち誇った笑みを浮かべ、乱暴に手紙の封蝋を爪で引き裂いた。
――その瞬間。
サラサラと。
封と一緒に鉛の薄紙が裂け、手紙の隙間から紫黒色の細かな粉末が舞い散った。
「ん……? なんだ、この粉は――」
フロリアンが眉をひそめた刹那、手紙の裏面に書かれた、見覚えのある文字が目に飛び込んできた。
『どうぞ、その素晴らしい聖女様とお幸せに。私の国は、もうここにあります』
「な……っ!?」
フロリアンが絶句した、まさにその時だった。
ドンッ!!!!
王都の大地が、底から突き上げられるように激しく跳ね上がった。
執務室の豪奢なシャンデリアが激しく揺れ、壁の絵画が次々と落下してガラスが粉々に砕け散る。
「きゃあああああっ!? な、何事ですの!?」
ジビュレが悲鳴を上げて床にしがみつく。
だが、揺れは収まらない。それどころか、神殿の方向から、雷鳴をも凌駕するすさまじい破砕音が王都中に轟き渡った。
ズドオオオオオンッ!!
「で、殿下! 窓の外を! 神殿が……大神殿がぁぁっ!!」
大臣の一人が窓にしがみつき、泡を吹いて叫んだ。
フロリアンがよろめきながら窓辺に駆け寄り、外を見下ろす。
王都の中心にそびえ立っていた『白銀の神樹』が――根元から裂け、黒い煙を噴き上げながら、無人の神殿広場へと倒れていった。
断ち切られた水路に残る魔力が、幹を内側から割ったのだ。地下では貯留槽の蓋が閉じ、神樹に流れ込んでいた毒の筋も途絶えた。
崩れ落ちた枝が、避難のため張り巡らされていた縄を押し潰した。
そして。
ピシ……ピキキキキッ!!
神樹の破壊と同時に、王都の空を覆っていた透明な天幕――『聖なる大結界』に、蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が一瞬で全方位へ走り抜けた。
パアァァァンッッ!!!
まるで、巨大なガラスの天井が叩き割られたような、耳をつんざく大音響。
光の破片となって四散した結界は、二度と再生することなく、黄ばんだ大気の中に溶けて消え去った。
「う、嘘だろ……結界が……我が国の結界が……消えた……?」
フロリアンは血の気を失い、ガクガクと顎を震わせた。
手から滑り落ちた手紙が、床の粉末の上に落ちる。
光の天幕が消えると、神樹の煙は王都を覆い続けることなく、冬の風に千切られて流れ始めた。
それだけではない。
北東の湿地帯から、結界の消滅を察した魔獣どもの咆哮が届き始めたのだ。
「ギョオオオオオッ!!」
「グルルルルッ!」
街中から、民衆の絶叫とパニックの悲鳴が湧き上がる。
『結界が割れたぞーっ!』
『魔獣が入ってくる! 逃げろ!』
『聖女はどうした!? あいつのせいで国が滅びるぞ!』
『偽物の聖女を引きずり出せ! 殺せ!!』
怒り狂った民衆が投石を始め、王宮の正門前に押し寄せてくる地響きがここまで届いてくる。
「いやあああっ! いやよ、何なのよこれぇぇっ!」
ジビュレは耳を塞ぎ、床を転がりながら喚き散らした。
駆け寄ってきた侍女が「ジビュレ様、お逃げください!」と肩を抱こうとすると、ジビュレはその侍女の顔面を爪で激しく引っ掻いた。
「触るんじゃないわよ、この下女がぁっ! わたくしは聖女よ! あいつが……あのロヴィーサの呪いのせいに決まっているでしょ! あいつの首を刎ねて、この神殿に晒し首にしなさいよぉぉっ!」
「黙らんか、この愚か者どもがぁっ!!」
ドスの利いた怒号と共に、執務室の扉が勢いよく開いた。
姿を現したのは、王冠を斜めに歪ませ、怒りで顔を紫に染めたヴェルダン国王だった。
「ち、父上……」
フロリアンが縋り付こうとした瞬間。
バチィィィィンッッ!!
すさまじい破裂音が部屋に響き渡った。
国王の平手打ちをまともに受け、フロリアンはよろけて机にぶつかった。
「ぐわぁっ……!? な、何を……父上、私は――」
「貴様という奴は……! 貴様が『出涸らしの役立たず』と見下して追放したロヴィーサこそが、この国の結界の心臓部だったのではないか!!」
国王は額に青筋を浮かべ、床に倒れたフロリアンを長靴で何度も蹴りつけた。
「朕には代わりが利くと申したな! 救援の申し出まで握り潰しおって! たった今、帝国から最後の降伏勧告が届いたぞ! 我が国は終わりだ! 魔獣の群れを防ぐ手立てもないのだぞ!!」
「い、痛い! やめてください父上! 私は王太子ですぞ! ジビュレが……ジビュレが大丈夫だと言ったから――」
「お前の責任をわたくしに押し付けるんじゃありませんわよ、この腰抜けぇっ!」
ジビュレが血走った目でフロリアンに掴みかかり、二人は床に転がり、煤と血で汚れた服を掴んで引っ張り合い始めた。
王太子と聖女の、目も当てられない醜態。
大臣たちも近衛兵も、誰一人として二人を止めようとはしなかった。ただ冷え切った、軽蔑の視線が向けられるだけだ。
その時。
ドォォォォン……ドォォォォン……。
王都の警鐘に重なるように、遠くから戦鼓が響いてきた。
伝令兵が転がり込む。
「ほ、報告ッ! 国境の守備隊は降伏! オルデンブルク帝国軍が、王都の外郭要塞へ迫っております!!」
「魔獣は……魔獣はどうした!」
「帝国の先遣隊が、北東の街道で食い止めています! 避難民は南門へ……!」
国王の足元で、フロリアンが顔を上げた。
国境からの報告は数日前から途絶えていた。彼はその間も、結界さえ直せばよいと繰り返していたのだ。
「そ、それなら、ロヴィーサも来ているのか」
伝令兵は答えに詰まった。
フロリアンはよろめきながら窓にすがりついた。丘陵を越えて現れた黒狼の軍旗が、いくつも風に翻っている。
隣に来たジビュレも、同じ旗を見つめていた。
妹を迎えに来させるつもりで出した手紙の返事が、軍勢を連れて帰ってきた。




