第8話 「どうぞ、お二人でお幸せに」
オルデンブルク帝国の謁見の間で、ヴァルデマーが読み終えた親書を膝に伏せた。
誰も、次の言葉を促さなかった。
「ひ、ひぃ……っ!」
黒大理石の床に敷かれた絨毯の上に、ヴェルダン王国の使者が一人、無様に這いつくばっていた。
膝がガクガクと震え、床に伏せた額を上げられずにいる。
彼を取り囲む帝国の近衛兵たちは、誰一人として身動き一つせず、剣の柄に手を置いて使者を見下ろしていた。
膝の上の羊皮紙には、引き裂かれた王太子の封蝋が残っていた。フロリアン直筆の親書だった。
「……読め、ロヴィーサ」
低く、地割れのような声が降ってくる。
私は玉座の脇の肘掛け椅子から、差し出された手紙を受け取った。
そこに並んでいたのは、目眩がするほど傲慢な文面だった。
『我が愛しきロヴィーサへ。
お前の怒りはもっともだ。だが、当てつけのために帝国の野蛮人に身を売るなど、淑女のすることではない。
私は寛大だ。お前が神殿の結界を直す秘術を持って直ちに戻るならば、過去の不敬をすべて不問にし、特別に私の「第二側室」の座を与えてやろう。
お前を地下から出してやるわけにはいかないが、たまには部屋を訪れて労ってやる。早く帰ってこい』
「…………」
あまりの滑稽さに、声すら出なかった。
第二側室。
地下から出してやるわけにはいかない。
たまには部屋を訪れて労ってやる。
この男は、本当に、心の底から自分が神に愛された特別な存在だと信じているのだ。
人を十年間地下で使い潰し、身代わりの人質として敵国へ売り飛ばしておきながら、指を鳴らせば女が泣いて足元に縋り付いてくると本気で思い込んでいる。
「殺す」
ゴキリ、と凄まじい音が響いた。
見れば、ヴァルデマーが玉座の肘掛けを素手で握り潰し、黒い木片が床に弾け飛んでいた。
琥珀色の瞳は濁った殺意に染まり、膨れ上がった魔力に、謁見の間の大燭台の火が一斉に激しく揺らめく。
「この無能の豚めが……! 我が国の皇后となる女を『側室』だと? また地下に閉じ込めて毒を吸わせるだと……!? 次に顔を合わせたら、この紙をあの王太子の口に詰め込んでやる!!」
ヴァルデマーが腰の長剣を半分引き抜いた瞬間。
私はそっと、彼の分厚い手首に自分の手を重ねた。
「陛下」
「……ロヴィーサ」
怒り狂う獣のような男の視線が、私に向けられる。
触れた手首の脈は激しく波打っていたが、私の掌の冷たさを感じたのか、わずかに刃を鞘へと戻した。
「止めるな。お前を侮辱した奴らを、一人たりとも逃がす気はない」
「王太子へのお怒りを、止めるつもりはございません。ただ、使者には帰ってもらわなくては」
私は微笑んだ。
手紙に目を戻すと、今度は笑いが漏れた。第二側室。ずいぶんと安く見積もられたものだ。
「あの方は、お返事を心待ちになさっているでしょうから。――陛下、私にお返事を書かせていただけませんか?」
「お前が?」
「はい。十年仕えた元婚約者への、最後の礼儀でございますから」
ヴァルデマーは私の冷え切った笑みを見つめ、やがて獰猛な光を宿した瞳を細めた。
……いいだろう、と短く顎をしゃくる。
「使者は控えの間で待たせろ」
近衛兵に連れられ、使者が退出する。扉が閉じるのを見届けて、私は立ち上がった。
従卒が急ぎで運んできた机の上に、フロリアンの親書を裏返しにして広げる。
私は羽ペンに黒インクをたっぷりと浸すと、まだ痺れの残る指で軸を支え、手紙の裏面に短い返事を書いた。
『どうぞ、その素晴らしい聖女様とお幸せに。私の国は、もうここにあります』
それだけだ。
言い訳も、怒りも、恨み言も書かない。
もう、殿下に分かってもらうための言葉を探す必要はなかった。
そして私は、侍女に持ってこさせた小さな革袋の紐を解いた。
中に入っていたのは――あの日、私が手土産として持ってきた『大結界の真核』から、削り取っておいた結晶の粉末。魔力を遮断する鉛の薄紙で厳重に包まれている。
包みを手紙の内側に留め、開封すれば鉛の薄紙も裂けるように細い糸を掛ける。折り畳んでから、赤い封蝋を垂らした。
「ロヴィーサ様、それは……?」
副官のアルノルトが尋ねると、私は封蝋が固まるのを待ちながら答えた。
「王都の結界の内側で封が開かれると、供給の術式を断ちます。こちらの核から止めようとしても、王宮にある制御盤に阻まれますので。向こうから回路を閉じてもらうのです」
「貯留槽の方は?」
「切り離して封じます。神樹は残った魔力に耐えきれず折れるでしょうが、溜めた毒を街へ流すことはありません」
机の端に、南の地図が広げられていた。
使者の往復の間にも、国境では兵の集結が進んでいる。帝国へ来てから私が写し続けた水路の図面も、すでに各隊へ渡っていた。
「神殿の避難状況を確認せよ。取り残された者がいれば、点検通路から出す。魔獣が寄る北東には先遣隊を回せ」
ヴァルデマーの命令に、アルノルトが頷いた。
「承知しました。使者には国境で待ってもらい、先遣隊の配置と避難の完了を確認してから通します」
私は手紙の封を指で押さえた。
「私を取り戻せば元通りになると、まだ思っておいでなのでしょうね。……もう、そのための結界はなくなりますのに」
ヴァルデマーが、返書と私の顔を交互に見た。
「ははっ……! 帰ってこいと言ったら、帰る道ごと潰されたか。お前を敵に回すものではないな!」
ヴァルデマーは使者を呼び戻させた。使者が再び床に伏せると、玉座から立ち上がってその前に立つ。
「おい、使者。その手紙を持って、貴様らの愚鈍な主の元へ帰れ。……そして伝えろ。『北の猛獣の牙が、貴様らの喉笛に届くまで、せいぜい首を洗って待っていろ』とな!」
「は、はいぃぃぃっ! 確かに、お届けいたしますっ!!」
使者は手紙を胸に抱えると、転がるようにして謁見の間から逃げ出していった。
扉が重々しい音を立てて閉ざされる。
ヴァルデマーはマントを翻し、居並ぶ将官たちを一望した。
その顔からは笑みが消え去り、大陸最強の覇王たる冷徹な威厳が満ちていた。
「全軍に布告せよ! 国境の第一、第二重装甲騎兵団、および第三軍団は進軍に備えよ! 俺も今夜、発つ!」
「「「ハッ!!!」」」
居並ぶ将官たちが一斉に右手を胸に当て、靴を打ち鳴らした。
轟音のような返答が、謁見の間に響く。
「目標はヴェルダン王宮! 降伏勧告に応じぬ軍拠点は叩き潰せ! 民の家を奪うな、武器を捨てた兵を斬るな! ……出陣だ!!」
地鳴りのような鬨の声が、黒狼城を揺るがせた。
ヴァルデマーは私の腰を強引に引き寄せ、額を私のこめかみに押し当てて熱い息を吐いた。
「ロヴィーサ。お前を踏みにじった連中の泣き顔を、特等席で見せてやる」
「……ふふ。はい、楽しみにしております、私の皇帝陛下」
窓の外を見上げれば、重厚な鉛色の雲を切り裂くように、帝国の黒鉄の軍旗が一斉に翻っていた。




