第7話 王国の混乱と、傲慢な親書
その頃、ヴェルダン王国の王都は、かつての優雅な面影を完全に失っていた。
空を覆っていた『大結界』の亀裂は日増しに広がり、王都の上空は昼間でも黄ばんだ曇天に覆われていた。
神殿の御神木から逆流し続ける瘴気のせいで、貴族街の豪邸の庭先ですら薔薇の花がドス黒く腐り落ち、風向きが変わるたび、閉じた窓の隙間からも腐敗臭が入り込んだ。
「殿下! 東部領の農民たちが神殿を包囲しております! 『聖女の祈りが偽物だったせいで、麦が枯れ始めた!』と暴徒化寸前です!」
「近衛兵を出して追い払え! 下民どもが騒ぐでないと槍で脅せば済む話だろうが!」
王宮の執務室で、王太子フロリアンは書類を床に叩きつけて怒鳴り散らしていた。
彼の自慢だった手入れの行き届いた金髪は脂ぎり、目の下には濃い隈が張り付いている。
結界に最初の亀裂が走ってから、ひと月近く。
神殿の地下室に送り込んだ神官や魔導士は、すでに二十人以上が吐血して病院送りになっていた。
誰一人として、あの地下の濁流のような瘴気を制御することなどできなかったのだ。
「フロリアン様ぁっ!」
ノックもなしに部屋の扉が乱暴に開け放たれ、ヒステリックな叫び声が飛び込んできた。
入ってきたのは、ジビュレだった。
だが、その姿にかつての「ヴェルダンの至宝」の輝きはない。
顔の右半分には、神殿で浴びた毒泥のせいで赤黒い爛れが残り、それを隠すように塗りたくった厚化粧が汗でドロドロに崩れていた。
「ねえ、いつになったらあの地下の悪臭を止められるの!? 街に出れば『偽物の聖女』と石を投げられそうになるし、わたくしの肌もボロボロよ! お父様もお母様も、伯爵邸から一歩も外に出られないって泣きついているわ!」
「うるさい! 私だって寝ていないんだ! お前こそ、少しは聖女らしい奇跡の一つでも見せて民を鎮めてみろ!」
「なんですってぇ!? 奇跡を起こすのは神の御心であって、わたくしの責任じゃありませんわ! 全部、あの呪われたロヴィーサが小細工をして逃げたせいじゃないの!」
二人がいつものように醜い罵り合いを始めた、その時だった。
ドタドタと慌ただしい足音が廊下を走り抜け、外務卿が青ざめた顔で執務室に転がり込んできた。
「で、殿下! オルデンブルク帝国より、特使が参りました! 全土に向けた公式の布告状が届いております!」
「帝国からだと……!?」
フロリアンは舌打ちをし、机に手をついた。
「チッ、あの北の野蛮人どもめ。人質として送ったロヴィーサが早々にくたばったから、手打ちの条件を吊り上げにでも来たのか。……帝国へ渡したあとのことなど、我が国に責任はないと突っぱねてやれ」
「ち、違うのです! 布告状の内容が……そのようなものではございません!」
震える外務卿の手から羊皮紙をひったくり、フロリアンは乱暴に視線を走らせた。
その瞬間、彼の端正な顔が、凍りついたように硬直した。
「……な、んだ……これは……?」
「なになに? 見せてごらんなさい!」
横からジビュレが手紙を覗き込む。
そこに刻まれていたのは、オルデンブルク帝国の黒狼の玉璽、そして皇帝ヴァルデマー3世の直筆の署名だった。
『我がオルデンブルク帝国皇帝ヴァルデマー3世は、ヴェルダン王国エーレンハイム伯爵家次女、ロヴィーサを唯一無二の正妃として迎え入れることをここに宣言する。――我が軍にその知恵を貸し、我が求婚を受けた愛しき花嫁に対し、無礼を働いた愚物には、帝国の鉄騎をもって鉄槌を下すものと知れ』
フロリアンが読み終えても、しばらく誰も口を開かなかった。
「せ……正妃……!?」
フロリアンの喉から、掠れた悲鳴のような声が漏れた。
「あいつが……あの、薄気味悪くてカビ臭い出涸らしが、帝国の……皇后に……!?」
「う、嘘よ! 何かの間違いよ!」
ジビュレが金切り声を上げ、手紙を奪い取って爪を立てた。
「あの野蛮な皇帝が、あんな地味な雑巾女を正妃にするわけがないわ! わたくしが! わたくしが王妃になるのに、なんであの出来損ないが、それより格上の大帝国の皇后になるのよぉっ! 許せない、絶対に許せないわ!!」
ジビュレは手紙を床に叩きつけ、ヒールで何度も踏み躙りながら発狂したように喚き散らした。
自分より遥かに下だと見下し、踏み台にしてきた妹が、一国の皇帝に「愛しき花嫁」と呼ばれている。
踏みつけた羊皮紙にも、妹の名と皇帝の署名ははっきり残っていた。
一方、フロリアンは呆然と立ち尽くしていたが――やがて、その歪んだ唇に、奇妙な薄笑いが浮かび上がった。
「……そうか。そういうことか」
「フロリアン様? 何をブツブツ言っているのよ!」
「あいつだ。ロヴィーサの仕業だ」
フロリアンは自惚れに満ちた瞳をギラつかせ、顎を撫でた。
「ロヴィーサは、十年間私の婚約者だった。あの女が私を見る目には、いつだって縋りつくような熱があった。……あいつは今でも、私のことが忘れられないんだ」
「はぁ!? 何を馬鹿なことを――」
「馬鹿はお前だ、ジビュレ! よく考えろ!」
フロリアンは勝ち誇ったように大声を上げた。
「あいつは私に捨てられた腹いせに、帝国の皇帝を色仕掛けで誑かし、我が国を見せしめに脅迫しているんだ! 結界を壊したのも、帝国の皇后になろうとしているのも、すべて私を焦らせて、自分を迎えに来させるための当てつけに決まっている!」
外務卿が何か言いかけ、口を閉じた。フロリアンはもう、誰の顔も見ていなかった。
そのまま執務机へ駆け寄り、羊皮紙を広げて羽ペンを走らせ始めた。
「殿下、何をお書きになるのですか!?」
外務卿が狼狽えて尋ねると、フロリアンは鼻を鳴らして笑った。
「親書だ。ロヴィーサへのな。……『お前の意図はすべて分かった。寛大なる王太子である私が、お前の無礼を許してやる。帝国の皇帝などという野蛮な男の元から今すぐ戻ってこい。神殿の結界を直した暁には、特別に私の側室の座を与えてやってもいい』と書いてやるのだ」
「そ、そんな無茶な! 相手は帝国の皇帝ですぞ!?」
「フン、父上に失策を責められる前に戻せば済む! ロヴィーサの首輪を握っているのは私だ! あの女は私の命令なら何だって聞いたんだぞ! 私が『許してやる』と言えば、泣いて喜んで戻ってくるに決まっている!」
フロリアンは書き殴った手紙を乱暴に封筒に詰め、赤い蝋で封をすると、自国の使者に届けさせるよう、外務卿へ押し付けた。
「さあ、持っていけ! ロヴィーサに直接渡せ! あいつが帰ってくれば、結界も元通りになり、帝国の脅威も消え去る! すべて解決だ!」
自らの完璧な策に酔いしれ、高笑いを上げる王太子。
そして、顔を爛れさせたまま「早く戻ってきて地下で毒を吸いなさいよ」と呪詛を吐く聖女。
外務卿は拾い上げた帝国の布告を見つめた。
無礼を働いた者には、鉄騎をもって鉄槌を下す。
その一節をもう一度読み上げようとしても、王太子の高笑いは止まらなかった。




