第6話 夜の告白、奪われた唇
オルデンブルク帝国の帝都にある『黒狼城』に到着してから、二週間が過ぎていた。
石造りの分厚い要塞であるこの城は、外見こそ無骨だったが、内部は暖炉と湯脈を引いた温水管によって常に春のように暖められていた。
北の秘薬『白銀竜の油膏』と、毎日運ばれる栄養価の高い肉料理のおかげで、私の身体は驚くほどの早さで息を吹き返していた。
「……信じられない」
姿見の前に立ち、私は自分の手のひらを見つめた。
指先の紫黒い色は薄れ、ひび割れた傷も塞がり始めている。痺れはまだ残り、細い紐を結ぶのは難しい。
背中の傷跡もはっきり残っている。それでも、薬が効いている間は、痛みに起こされず眠れるようになった。
やつれきっていた頬には血色が戻り、毒で煤けていた亜麻色の髪は、梳かすたびに滑らかな艶を取り戻している。
身に纏っているのは、帝国の仕立屋が急ぎで縫い上げた、深紅のウールと白狐の毛皮で縁取られた豪奢な部屋着。
袖口から出した手をひっくり返す。これで、また好きなだけ本の頁をめくれるようになるだろうか。
コン、コン。
控えめなノックに「どうぞ」と答えると、重い扉が開き、長身の男が入ってきた。
執務用の黒革の軍服を緩め、首元を寛げたヴァルデマーだった。
「起きていたか」
「陛下……。このような深夜に、何か急ぎの軍議でも?」
「いや。ただの夜回りだ」
このところ、夜回りは毎晩だった。私が先に眠ってしまった晩も、朝には窓際の薪籠だけがいっぱいになっている。
今夜は足音が聞こえなくて、私もなかなか寝つけずにいた。
ヴァルデマーは無造作に部屋の中央へ歩み寄り、テーブルの上に置かれていた白磁のポットに手を触れた。
「冷めているな。……温かい茶でも淹れさせようか」
「いえ、十分です。陛下こそ、連日の軍議でお疲れではないのですか? ヴェルダン国境の動向について、連日将官たちが城に詰めているとお聞きしましたが」
「動向も何も、あちらの防衛線は自滅寸前だ。お前が言った通り、王都で結界の暴走が起きたらしい。結界から噴き出た毒泥で、神殿広場が肥溜めのような騒ぎになったと間諜から報告が入っている」
ヴァルデマーは鼻で笑った。
その報告を聞いた瞬間、私の胸の奥で、小さく黒い愉悦が泡立った。
――ああ、やっぱり。
ジビュレは、私が十年間どれほどの毒を呑み込んでいたのか、何も知らずに神樹に手をかざしたのだ。
あの傲慢な姉が、泥水を頭から被って喚き散らしている姿が、ありありと目に浮かぶ。
「……あの結晶が何を抑えていたのか、ようやくお分かりになったでしょうね」
「水路の図面も正確だった。おかげで国境へ兵を回せる。向こうが混乱に乗じて攻めてきても、魔獣が流れ込んでも対処できる」
「街の人たちは……」
「神殿の周囲は避難が始まっている。救援を申し入れたが、王太子は返事も寄越さん」
頷きながら、机の端に置いた図面を見た。地上への流出口には印を付けてある。あの赤い印の下にも、人の家があるのだ。
ヴァルデマーは私の正面まで歩み寄ると、じっと私の顔を見下ろした。
琥珀色の鋭利な瞳が、私の額、頬、唇、そして首元へと、撫でるように滑り落ちていく。
その熱を帯びた視線に射抜かれ、私は思わず一歩後退した。
「……どうかなさいましたか?」
「いや。……血色が良くなったな、と思ってな」
大きな手が伸びてきて、私の頬に触れた。
黒鉄要塞で触れられた時と同じ、分厚くて熱い、戦士の手。
指の腹が、私の耳朶を、それから首筋の滑らかな皮膚を、確かめるようにゆっくりと撫で上げていく。
「……っ」
びくりと肩が震えた。
痛いわけではない。むしろ、触れられた場所から全身に痺れるような熱が広がっていく感覚に、呼吸が浅くなる。
「怯えるな。取って食いはせん」
「お、怯えてなどいません。ただ……不思議なのです」
「何がだ」
「なぜ、陛下が私にここまで良くしてくださるのか、です」
頬の手に触れようとして、途中でやめた。聞いてしまえば、この手が離れていく気がした。
「私は、手土産を持って祖国を売った裏切り者です。しかも、十年も地下で毒を吸い続けた、傷だらけの壊れ物……。ヴェルダンでは、母からも『不気味な子』と遠ざけられ、姉からは『雑巾』と呼ばれていました。……それなのに、なぜ陛下は、私のような女にこんな贅沢をさせ、自ら薬を塗り、こうして構ってくださるのですか?」
ずっと怖かったのだ。
この温かいスープも、柔らかな寝台も、この男の過剰なまでの庇護も。
いつか「もう利用価値がなくなった」と放り出されるための、ただの甘い罠なのではないかと。
静寂が、部屋を満たした。
暖炉の薪がはぜる音だけが響く中、頬に添えられていたヴァルデマーの手が、私の顎をグイと持ち上げた。
「……不気味だと?」
見上げたヴァルデマーの顔は、氷のように冷たく引き締まっていた。
私が目を逸らそうとすると、彼は顎に添えた手を緩めた。
「あいつらは、全員盲目だ。本物の宝石の価値も分からず、泥に埋もれさせていた豚どもめ」
「陛下……?」
「初めは、お前の知恵が欲しかった。俺を前にして値切らせようともせず、戻さぬと約束しろと言う。肝の据わった女だと思った」
ヴァルデマーは私の右手を引き寄せると、傷だらけの自分の頬に、私の掌をそっと当てた。
掌の下で、古い傷の縁がわずかに盛り上がっていた。
「だが、この頃はそれだけでは済まん。お前が飯を食ったか、今日は眠れたかと、執務中まで気にしている。……我ながら面倒なことになった」
「それは、お役目を果たせなくなったら困るからでは……」
「仕事だけなら、毎晩ここへ来る必要はないだろう」
言い切ったあと、彼は困ったように眉を寄せた。
その顔を見て、頬に触れていた指を少し動かす。短い髭がちくりとした。
「……私も、今夜は足音を待っていました」
口にしてから、顔が熱くなった。
彼が来ないと寂しい。それを認めるのが、こんなに怖くて、嬉しいとは知らなかった。
「……ぁ」
顎の下に、彼の指が戻ってくる。
近づいた顔が、一度、止まった。
「嫌なら言え」
私は首を横に振り、軍服の胸元を掴んだ。
そのまま、ほんの少し背伸びをした。
次の瞬間には、唇を塞がれていた。
「――んっ!?」
思っていたより熱くて、目を閉じるのが遅れた。
腰を抱く腕に力が籠もる。私が息を継ぐと一度離れ、額を合わせて待ってくれた。
「……もう、終わりですか」
聞いた自分に驚いた。
ヴァルデマーも目を丸くして、それから声を立てずに笑った。
「煽るな」
二度目の口づけは、さっきより深かった。
軍服を握っていた指を離し、彼の首へ腕を回す。足に力が入らなくなっても、腰を支える手が離れることはなかった。
見上げれば、ヴァルデマーは濡れた唇元を親指で乱暴に拭いながら、獰猛な獣のように口角を吊り上げていた。
「……これでも、ただの手駒への扱いに見えるか」
「へ、陛下……今のは……」
「足りんなら、もう一度するが」
ヴァルデマーは私の乱れた前髪を優しく掻き揚げると、額に、今度は羽毛のように軽い口づけを落とした。
「ロヴィーサ。お前を、我がオルデンブルク帝国の正妃に迎えたい」
「正妃……!? 人質の、私をですか!?」
「人質としての身分は解く。最初の約束も変わらん。ここに残って、俺の隣にいてほしい」
私は軍服を見下ろした。袖口に、軟膏の白い跡が残っている。
傷に触れる時はあれほど慎重になるのに、求婚の言葉には少しも迷いがなかった。
「……はい。私も、あなたの隣がいいです」
答えた途端、また抱き寄せられた。
今度は私から、彼の頬に口づけた。
「では、明日、諸国へ知らせる。ヴェルダンにもな」
元婚約者と姉の顔が浮かぶ。
けれど今は、その驚く顔を想像するよりも、目の前で嬉しそうに笑うこの人を見ていたかった。




