第5話 聖女のメッキが剥がれる音
オルデンブルク帝国の馬車が雪の街道を北へ進んでいた頃。
南のヴェルダン王国は、春のような陽気と、熱狂的な歓声に包まれていた。
「見よ! 我が国の誇る『奇跡の聖女』、ジビュレ嬢である!」
王都の中心にそびえ立つ白亜の大神殿。
その見晴らし台の上で、王太子フロリアンが胸を張り、大観衆に向かって声を張り上げていた。
隣には、金糸と真珠を惜しみなく縫い付けた純白のドレスに身を包んだジビュレが立っている。
「キャアアアッ! ジビュレ様ーっ!」
「聖女様、万歳! ヴェルダン王国に栄光あれ!」
広場を埋め尽くした数万の民衆が、地鳴りのような拍手と喝采を送る。
日陰者だった妹ロヴィーサを北の野蛮国へ厄介払いし、邪魔者が消えた宮廷で、二人は晴れて正式な婚約を発表したのだ。
「うふふ、見てフロリアン様。民がわたくしを崇めていますわ。あんなカビ臭い出涸らしの妹を追い出して、本当に正解でしたわね」
ジビュレは扇で口元を隠し、得意げに囁いた。
「ああ、まったくだ。あいつの暗い顔を見ずに済むだけで、宮廷の空気まで澄み渡ったようだ。……さあジビュレ、仕上げだ。いつも通り神樹へ祈りを捧げ、結界の加護を民に見せつけてやれ」
「ええ、お任せくださいませ」
ジビュレは優雅な足取りで、神殿の中央にそびえ立つ御神木――『白銀の神樹』へと歩み寄った。
大結界の魔力を地上へ放射する、王国の繁栄の象徴。
台座の前に立ち、両手を組んで目を閉じ、敬虔な祈りのポーズを取る。
――簡単なことだ。
ジビュレは心の中で鼻を鳴らしていた。
ただこうして目を伏せ、民に見栄えの良い微笑みを浮かべていれば、地下から澄み切った魔力が神樹を通って溢れ出し、光の粒子となって王都に降り注ぐ。
これまで十年間、何一つ苦労することなく手に入れてきた名声。
あの愚鈍な妹が地下で何をしていようと知ったことではない。要は、この神樹から光が出さえすれば、すべては自分の功績なのだから。
「――大いなる天の光よ。我が祈りに応え、ヴェルダンに慈悲を満たし給え……」
鈴を転がすような美声で祈りの言葉を紡ぎ、ジビュレは神樹の幹にそっと手をかざした。
その時だった。
ボコッ。
「……え?」
神樹の根元から、汚水が沸騰したような、鈍い音が響いた。
光の粒子は現れない。
代わりに漂ってきたのは――むせ返るような、ドブ川と腐った卵を混ぜ合わせたような強烈な悪臭だった。
「な、何この匂い……? フロリアン様?」
ジビュレが顔をしかめて振り返った瞬間。
ドシュウウウッ!!
すさまじい轟音と共に、神樹の幹に無数に開いた魔力の放出口から、純白の光などではなく、タールのようにドロドロとした黒紫色の汚泥が噴き出した。
「ぎゃあああああっ!?」
ジビュレが、扇を放り出して悲鳴を上げた。
頭上から降り注いだ黒い泥水が、自慢の黄金の巻き毛をベチャリと押し潰し、何百万エレンもかけて仕立てた純白のドレスを一瞬でドブ色に染め上げる。
「じ、ジビュレ!? 何事だ!」
駆け寄ろうとしたフロリアンも、足元の噴水孔から噴き上がった黒い飛沫を顔面に浴びて足を滑らせた。
ド派手に尻餅をつき、王家の紋章が刻まれたマントが泥まみれになる。
「うわっ、くさっ……! なんだこれは、毒か!? 息が……息ができない!」
「いやあああっ! 汚い! 目に入った! 痛い、痛い、顔が焼けるわぁぁっ!」
見晴らし台の上は、一瞬にして地獄絵図と化した。
聖女のドレスからは異臭を放つ煙が立ち上り、泥の付いた皮膚に、小さな水疱が浮かんでいく。
広場の民衆は、歓声から一転、恐怖の叫び声を上げてパニックに陥った。
「な、なんだあれは!?」
「黒い煙が出ているぞ! 聖女様が呪われたのか!?」
「くさい! 喉が焼ける! 逃げろ、毒だ、魔獣の瘴気だ!!」
逃げ惑う民衆が押し合いへし合い、神殿前は大混乱に陥る。
広場を取り囲んでいた貴族たちも、ハンカチで鼻を覆いながら青ざめて後退した。
「ど、どうなっているのだフロリアン殿下!?」
「ジビュレ嬢、祈りはどうしたのです! 結界を浄化なさい!」
「わ、わたくしに言われても分かりませんわ!」
ジビュレが髪から泥を払いながら、ヒステリックに絶叫する。
「いつもは手をかざすだけで光っていたのよ! 勝手に綺麗な魔力が湧いてきていたの! なんでこんな汚いものが吹き出してくるのよぉっ!」
「お前が祈りをサボったからではないのか!?」
「なんですってぇ!? わたくしのせいにする気!? あなたこそ、ロヴィーサを追い出す前にちゃんと引き継ぎをさせたの!? あいつが何か小細工をして逃げたに決まっているわ!」
ドロドロの顔を見合わせ、怒鳴り合う王太子と聖女。
かつて絵画のように美しかった二人の姿はそこにはなく、互いに責任を擦り付け合う醜悪な男女の姿だけが、神殿の上に晒されていた。
そこへ、神殿長が息を切らして駆け上がってきた。
「で、殿下! 大変でございます! 地下の霊廟が……大結界の濾過室が、完全に沈黙しております!」
「なんだと!? ロヴィーサの代わりの神官を何十人も送り込んだはずだろう! あいつが一人でやっていたことだぞ、大人の神官が束になればどうとでもなるはずだ!」
フロリアンが胸ぐらを掴んで喚き散らすと、神殿長は泣きそうな声で首を横に振った。
「む、無理です! 処理しきれない瘴気が水路から逆流し、部屋に入った神官たちが次々と吐血して倒れております! あそこは人間が入れる環境ではありません! あのような劇毒を、生身の体で一人で中和し続けていたなど……ロヴィーサ様は化け物です! 常人の魔導士に務まるわけがございません!」
「な……っ」
フロリアンは神殿長の襟を掴んだまま、口を開けていた。
化け物。
あいつが、一人で。
『十年間の働きには礼を言っておこう。せいぜい大人しくしていろ』
そう吐き捨てたあと、ロヴィーサが足元へ転がした指輪。拾わせもせず置き去りにした銀の輪を、なぜか今、思い出した。
あいつは――あの出涸らしと見下していた女は。
替えの神官をいくら送り込んでも、あいつ一人の代わりにもならないというのか?
「嘘よ……嘘よそんなの!」
ジビュレが爪を立てて耳を塞ぎ、喚き散らした。
「あいつはただの私の身代わりよ! 出来損ないのくせに、私をこんな目に遭わせて……許さない、絶対に許さないわ! 今すぐ連れ戻しなさいよフロリアン様! あいつを地下に鎖で縛り付けて、元通り毒を吸わせればいいだけでしょ!?」
「連れ戻せだと……!? 馬鹿を言うな、あいつはもう帝国の領内に入っているんだぞ!」
ドブ泥にまみれた神殿の上で、悪臭と罵声が渦を巻く。
そして――。
ピシリ。
王都の上空で、何かがひび割れるような、甲高い不吉な音が響いた。
見上げれば、王都を十年間守り続けていた透明なドーム――『大結界』の天頂部に、黒々とした亀裂が走り始めていた。




