第4話 狂犬の過保護
「……これは、酷すぎる」
白髪交じりの老軍医が、震える手で眼鏡を押し上げながら呟いた。
要塞の奥、衝立で仕切られた寝台の上で、私は麻のボロ服を脱ぎ、背中を医師たちに晒していた。
部屋の温度は、汗ばむほどに上げられている。
けれど、私の肌に触れる医師の手指は、氷のように冷たく感じられた。
「火傷……ではないな。皮膚の深層まで魔毒が沈着し、壊死と再生を無理やり繰り返した痕だ。肩から腰にかけて、一面に広がっておる。指先の爛れと変色もこれによるものだ。……よくぞ生きておられた」
「痛覚は……もう、あまり残っていませんから」
私が淡々と答えると、衝立の向こうで椅子が鳴った。
「おい。治るのか」
衝立の端から、ヴァルデマーが顔を出しかけた。
「陛下! まだ診察中でございます!」
老軍医の声に、足音が止まる。
私は慌ててシーツを胸元に引き寄せた。医師が衝立の隙間を閉じると、その向こうから、先ほどより低い声がした。
「……答えろ。治るのか、元に戻るのかと聞いている」
老軍医が額に冷や汗を滲ませながら、深く頭を下げた。
「……完全に痕を消すのは、神の奇跡でもなければ困難かと。ですが、体内に残留した毒素を中和し、痛みを鎮めることは可能です。帝都の研究所で精製している『白銀竜の油膏』と温熱治療を用いれば、皮膚の爛れは徐々に塞がりましょう。指先の感覚が十分に戻るまでは、半年ほど見ていただきたい」
「半年か。……遅いな」
「これでも破格の速度でございます! 常人ならとっくに内臓が腐り落ちて絶命している毒の量ですぞ!」
衝立の向こうが静かになった。
老軍医は傷を洗い終えると、私に清潔な布を巻き、背中だけが出るように寝衣を掛けてくれた。
「これから薬を塗りますぞ」
「……俺にも教えろ」
ヴァルデマーが、また衝立の前まで来ていた。
老軍医はため息をついて私を見た。
「陛下に入っていただいても?」
あの大きな手を思い出す。水を飲ませ、涙を拭ってくれた手だ。
私は少し迷ってから、頷いた。
「はい。……お願いします」
入ってきたヴァルデマーは、傷を見た途端に顔を険しくした。
老軍医はその手を洗わせ、軟膏の量と、皮膚を擦らずに塗る手順を念入りに教えた。
「痛みが出たら、すぐに手を止めてくだされ。私は衝立の外におりますので」
従卒が湯を取り替え、医師が衝立の外へ回る。
二人きりになったようで急に落ち着かなくなり、私は胸元の布を握り直した。
「あ、の……陛下、そのようなお見苦しいものを、皇帝自ら触れるようなことでは――」
「黙れ。見苦しいなどと誰が決めた」
ヴァルデマーは寝台の端に腰を下ろすと、冷たい陶器の壺から、乳白色の軟膏を指先ですくい取った。
北の秘薬と呼ばれる軟膏は、ミントのような清涼な香りがした。
「背中を向けろ」
「自分で塗れます」
「自分の背中にどうやって手を回す。……届くところは任せる。背中は俺がやる」
私は頷き、シーツを握ったまま彼に背中を向けた。
ごつごつとした男の指先が、私の肩甲骨のあたりに触れる。
「っ……」
思わず肩が跳ねた。
痛覚は麻痺しているはずなのに、ヴァルデマーの指先から伝わる体温が、傷口の奥まで染み渡るように熱かったからだ。
指がぴたりと止まった。「痛むか」と尋ねられ、首を振る。彼はさっきよりもゆっくり、軟膏を置くように塗り広げていった。
「……十年、と言ったな」
背後から、低く押し殺した声が降ってきた。
「あいつらは……あの阿呆どもは、十年間、お前一人に国中の毒を吸わせていたのか」
「はい。私は生まれつき、魔力を中和する特異な体質でしたから。……姉のジビュレは人前に立つのが上手でしたが、瘴気を処理する力はありませんでした。私だけが耐えられるのだから、当然だと、そう言われていました」
「当然なものか」
ヴァルデマーの指先が止まり、空いた手がシーツを握った。
「そんなものは『身代わり』などではない。ただの家畜の扱いだ。己の手を汚さず、安全な神殿の上で民に手を振る聖女だと? 笑わせるな。……妹を地下へ置いたまま、よくも白いドレスで笑えたものだ」
「……」
「逃げようとは、思わなかったのか」
問いかけたあと、彼は少し待った。急かす声は続かなかった。
逃げようと考えなかった日は、なかった。それなのに。
「外へ出る許しも、お金もありませんでした。でも……それだけではなかったのです。家族だと、思っていたから」
ポツリと、言葉が口から零れ落ちた。
「いつか、父様や母様が頭を撫でてくれるんじゃないかと。ジビュレが『ありがとう』と笑いかけてくれるんじゃないかと。……婚約者だったフロリアン殿下が、一度だけでも私を一人の女性として見てくれるんじゃないかと。そう思って、必死にしがみついていただけです」
願っているうちに、十年が過ぎてしまった。
「でも、人質として売られた時……やっと目が覚めました。あそこには、私の居場所なんて最初からなかったんだって」
薬を塗り終えた手が寝衣を戻し、そのまま私の肩を引き寄せた。
「きゃっ……!?」
振り向くと、頬が分厚い胸板に触れた。
ヴァルデマーの腕が腰を支え、もう片方の手が私の頭を抱いていた。背中の傷には触れない、不器用な抱き方だった。
「へ、陛下……!? 私の寝衣に、薬が染みてしまいます――」
「知るか。そんなもの、新しいのを着れば済む話だ」
耳元で、荒い息が吐き出される。
額に軍服の襟が当たる。私は少しだけ顔を埋めた。
ヴァルデマーの声が、すぐ耳元で響いた。
「二度と、自分の価値を低く見積もるな。……あんな腐った国で使い潰されかけたお前を、俺が丸ごと買い取ったのだ。お前の知恵は借りる。だが、身体まで使い潰すために買った覚えはない」
「陛下……」
「お前を道具にした連中の喉笛は、俺が必ず噛み千切ってやる。……安心しろ。我が帝国は、お前を誰かの身代わりにすることなど絶対にせん」
信じてよいのだろうか。
すぐには答えが出なかった。それでも、彼の胸から離れたくないとは思った。
「……では、もう少し。このままでいても、よろしいですか」
ヴァルデマーが私を見下ろした。
「それくらい、いちいち許しを乞うな」
ぶっきらぼうに言って、腰を支える腕を掛け直す。
私は初めて、自分から人の服を掴んだ。
翌朝、私を乗せた帝国の馬車は、黒鉄要塞を発ち、帝都へと向けて雪の街道を、揺れを抑えながら進み始めた。
馬車の中には最高級の毛皮が敷き詰められ、温かい湯たんぽと、甘い果実水が用意されていた。
そして――。
その頃、遥か南のヴェルダン王国では。
上ではまだ、誰も気づいていなかった。
神殿の頂に立つ『聖なる神樹』の根元から、じわりと、どす黒い汚泥のような煙が立ち上り始めていることに。




