第3話 十年ぶりの温かいスープ
羽織らされた黒狐の外套は、ずっしりと肩に食い込むほど重かった。
けれど、裏地に仕込まれた羊毛と獣の脂の匂いが、芯まで凍りついていた私の皮膚を容赦なく温めていく。
「おい、部屋を暖めろ。それから炊事場から煮込みとパンを持ってこさせろ。今すぐだ」
ヴァルデマーが低く怒鳴ると、さっきまで私を殺気立って見つめていた副官の巨漢が、慌てて敬礼して部屋を飛び出していった。
私は要塞の奥、皇帝の私室らしき殺風景な石造りの部屋へ通され、毛皮が無造作に敷かれた長椅子に腰を下ろさせられた。
壁の燭台に火が灯され、鉄の火鉢に炭が放り込まれる。
パチ、と爆ぜる音を聞きながら、私は膝の上で指を丸めた。爪の生え際から滲んでいた黒い血が、急激な温度変化でズキズキと痛み始める。
「……あの、陛下」
「座っていろ。動くなと言ったはずだ」
部屋に入ってきたヴァルデマーは、革手袋と籠手を外して机に放り投げると、自ら水差しから木の杯に水を注ぎ、私の前にドンと置いた。
酒くさい匂いはしない。ただの冷たい水だ。
「喉が渇いているだろう。飲め」
「……毒は、入っていませんか」
私が乾いた唇でそう尋ねると、ヴァルデマーは酷く不快そうに片眉を吊り上げた。
「馬鹿を言え。毒殺する相手に、わざわざ自分の上着を着せる趣味はない。……それに、我が帝国の飯に毒を混ぜるような真似は、料理人に対する侮辱だ」
「……失礼いたしました」
杯を両手で受け取ろうとしたが、指先が痺れて力が入らず、手元から滑り落ちそうになる。
それを、ヴァルデマーの大きな手が上からあっさりと支えた。
――分厚くて、硬い手。
剣のタコと無数の傷跡が刻まれたその掌は、驚くほど熱かった。
かつて婚約者だったフロリアン殿下が、一度たりとも私に触れようとしなかったのとは、まるで違う。
「……飲ませてやる。口を開けろ」
「自分で、飲めま――」
また指が滑った。ヴァルデマーは何も言わず、杯の底を支えている。
私は諦めて、その手に口元まで運んでもらった。
水が唇を濡らす。少しずつ飲み下す私を見て、彼は杯を傾ける角度を変えた。
喉のひりつきが治まったところで口を離すと、ようやく杯が卓上へ戻された。
「少しは人心地がついたか。……入ってこい!」
扉が開き、従卒が蓋付きの鍋と銀盆を運んできた。
テーブルに置かれたのは、湯気をもうもうと上げる深皿の煮込み料理と、焼きたての厚切り黒パン、それに干し肉とチーズ。
その瞬間、鼻腔を満たした匂いに、私の胃がギュッと痙攣した。
炒めた玉ねぎの甘い匂い。しっかりと煮込まれた牛肉の脂の香り。黒胡椒のスパイシーな刺激。
「……これは?」
「見て分からんのか。牛のすね肉と根菜のシチューだ。北の兵が戦の前後に食う、ありふれた煮込みだがな」
「これを……私に?」
「他に誰がいる。貴様の手土産に見合う報酬の前払いだ。さっさと食え」
ヴァルデマーは無骨な木の匙を私の手に握らせた。
けれど、私は匙を握ったまま、動けなかった。
ヴェルダンの神殿の地下室で与えられていたのは、いつ煮込んだかもわからない灰色の麦粥と、カビの生えたパンの耳だけだった。
それすらも、「瘴気を吸うための器に、贅沢な栄養など不要だ」というフロリアン殿下の指示で、一日に一度、わずかな量しか運ばれてこなかったのだ。
湯気が立つほど温かい、肉の塊が入った料理なんて。
地下へ入れられる前に食べたきり、もう十年も口にしていなかった。
「……どうした。毒が入っていると言って、また疑うか?」
「いえ……そうではなくて」
指先がカタカタと震えて、匙が木皿に当たってカチカチと情けない音を立てる。
食べたいのに、身体が恐怖していた。
こんな贅沢なものを口にしたら、後でジビュレに髪を引っ張られて「調子に乗るな」と殴られるのではないか。
フロリアンに「お前の分際で」と足で踏みつけられるのではないか。
そんな惨めな記憶が、熱気の中にまで染み出してくる。
「……チッ」
低く、苛立たしげな舌打ちが聞こえた。
見上げると、ヴァルデマーが私の手から強引に木の匙を奪い取っていた。
「じれったい女だ」
彼は大きな匙でシチューの底からゴロリとした牛肉と人参をすくい上げると、ふうふうと息を吹きかけて冷まし――そのまま私の口元へ突き出してきた。
「食え」
「へ……? あ、の、陛下自らそのような――」
「食べられそうなら、口を開けろ。こぼしても叱る者はおらん」
目の前の匙から、肉とハーブの匂いがする。私はおずおずと口を開いた。
熱いシチューが、舌の上に乗せられる。
「…………っ」
噛んだ瞬間、ほろりと崩れた牛肉から、濃厚な肉汁が溢れ出した。
塩とハーブの香りが口いっぱいに広がり、煮崩れた人参の甘みが喉を通っていく。温かいものが、冷え切っていた食道を通って、胃袋の底へと落ちていく感覚。
泥の味もしない。
鉄サビの苦味もない。
舌を焼くような瘴気の痺れも、どこにもない。
――ただ、純粋に、美味しい。
「……う、……っ」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
飲み込もうとしたのに、喉がうまく動かない。視界が急速に滲んで、木皿のシチューが歪んで見えなくなった。
「おい、どうした。本当に不味かったのか?」
ヴァルデマーの焦ったような声が聞こえる。
首を横に振ろうとしたのに、ポロポロと、堰を切ったように涙が零れ落ちて止まらなくなった。
「ち、が……違い、ます……」
しゃくりあげる声が漏れる。
人質として売られた時も、姉に嘲笑われた時も、婚約者の足元へ指輪を転がした時も、一滴の涙も出なかったのに。
口元を押さえても、涙は止まらなかった。次の一口を待ってしまう自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。
「あたた、かい……です……。すごく、美味しくて……あたたかくて……」
みっともなく泣きじゃくる私を、ヴァルデマーはしばらくの間、無言で見下ろしていた。
呆れて突き放されるかと思った。冷血帝と呼ばれた男が、泣き虫の小娘など相手にするはずがない。
けれど。
ふわりと、分厚い指先が私の頬に触れた。
「……泣くな。折角の飯が冷める」
親指で一度拭うと、彼は袖口を指に被せ、今度はそっと頬を押さえた。
「あの国は……十年間、お前をどう扱っていた?」
頭の上から降ってきたヴァルデマーの声は、先ほどまでの怒鳴り声とは打って変わって、地を這うように低く、冷たかった。
私が身をすくめると、彼は口を閉じた。
「……話せるところだけでいい」
次の声は、少し抑えられていた。
「……何も、恵んではくれませんでした」
私は涙を拭われながら、掠れた声で答えた。
「私の命も、心も、血も、全部あのお方たちの踏み台でした。温かいものを食べる権利なんて、私にはないと……そう言われて育ちましたから」
「そうか」
ヴァルデマーは短くそう呟くと、再び匙に少しだけシチューをすくい、私の口元へと運んだ。
「ならば、覚えておけ。ここでお前の飯を取り上げる者はおらん。……一度に無理をするな。足りなければ、また持ってこさせる」
「……はい」
差し出された匙を受け止め、私は泣きながら、夢中でシチューを飲み下した。
二口、三口。
ヴァルデマーは文句も言わず、私が木皿を空にするまで、じっと無骨な手でシチューを運んでくれた。
食べ終えた頃には、凍えていた手足の先まで、じわりと温かい血が巡っていた。
「……ごちそうさまでした、陛下」
「うむ。……おい、アルノルト!」
ヴァルデマーが扉に向かって怒鳴ると、先ほどの副官が飛び込んできた。
「はっ! 何でございましょうか!」
「軍医を呼べ。この女の指と肺を診させろ。……それから、帝都の本宮に早馬を飛ばせ。『ヴェルダンから最高の獲物が転がり込んできた。歓迎の準備をしておけ』とな」
「ははっ!」
副官が畏まって駆け出していく。
ヴァルデマーは窓の外――遠く南の空、ヴェルダン王国の方向を冷徹な目で見据え、獰猛に口角を吊り上げた。
「さて、ロヴィーサ。お前の言う通りなら……あの阿呆どもの国境結界は、そろそろ最初の悲鳴を上げている頃だな」




