第2話 冷血皇帝への手土産
国境を越えるまでの五日間、護衛の兵士たちが私にくれたのは、干からびた黒パンの端切れと濁った水だけだった。
「おい、死ぬなよ。帝国に引き渡す前にくたばられたら、俺たちの首が飛ぶんだからな」
馬車の鉄格子越しに投げ込まれる言葉に、私はただ無言でパンを噛み砕いた。
固くて顎が痛かったけれど、神殿の地下で吸わされていた瘴気のドロリとした苦みに比べれば、ただの小麦の味は驚くほどまともだった。
兵士たちは私が絶望して泣き叫ぶのを見たがっていたようだが、残念ながら私にはそんな無駄な体力は残っていない。
北へ進むにつれ、空気はみるみるうちに冷たくなり、麻布一枚の肌に針のように突き刺さる。
やがて馬車が止まったのは、灰色の巨石で築かれたオルデンブルク帝国の前哨基地――『黒鉄要塞』の門前だった。
「受け取りの確認書にサインをしろ! 聖女の身代わり、エーレンハイム家の娘を引き渡したぞ!」
ヴェルダンの兵士が、帝国の門番に向かって引き攣った声で叫ぶ。
門をくぐって現れた帝国の兵士たちは、ヴェルダンの優男たちとはまるで違っていた。
黒く焼き入れられた鋼の鎧を纏い、誰もが熊のように分厚い体躯をしている。無言のまま槍を構えるその威圧感に、ヴェルダンの連中は私が馬車から引きずり降ろされるや否や、挨拶もそこそこに蜘蛛の子を散らすように逃げ帰っていった。
……本当に、情けない国。
背後で車輪の音が遠ざかっていく。私は振り返らなかった。
「入れ、ヴェルダンの人質」
無骨な兵士に背中を押され、要塞の司令室へと通される。
頑丈な鉄扉が開くと、部屋の中にはパチパチと爆ぜる暖炉の熱気と、鉄サビ、そして獣の毛皮の匂いが満ちていた。
部屋の中央、大きな軍事地図が広げられた長机を囲むように、歴戦の将官たちが腕を組んで立っている。
その視線が一斉に、みすぼらしい格好の私へと突き刺さった。
「……なんだ、その小汚い娘は」
「ヴェルダンの王家は我が国を侮辱しているのか? 王家に準ずる家の娘を預かる手打ちのはずが、送られてきたのは今にも死にそうな骨と皮の女ではないか」
将官たちの苛立ちを含んだ低い怒号が重なる。
だが、そのざわめきは、部屋の最奥から響いた一つの足音によって、ピタリと止んだ。
コツ、コツ。
重厚な革長靴の音。
暖炉の前に置かれた肘掛け椅子から、一人の男が立ち上がった。
――ヴァルデマー3世。
北の軍事大国オルデンブルクを率い、他国からは『北の猛獣』『冷血帝』と恐れられる男。
無造作に短く刈り込まれた灰色の髪。
彫りの深い顔立ちには、右のこめかみから頬にかけて古い刀傷が走っている。
贅肉の一切ない鋼のような体躯から受ける威圧感は、地下室のどんな濃密な毒よりも息が詰まるほど重かった。
ヴァルデマーは、机の上に放り出されていた無骨な長剣を鞘ごと拾い上げると、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
琥珀色の鋭利な瞳が、値踏みするように私を上から下まで見下ろす。
「……エーレンハイムの次女、ロヴィーサだな」
低く、腹の底に響く声だった。
「はい、陛下」
「ヴェルダンの王太子は手紙で、お前を『我が国の愛すべき花であり、恭順の証』と書いて寄越した。だが――見ろ」
ヴァルデマーは長剣の鞘先で、私の右手を軽く持ち上げた。
麻の袖から覗く私の手首は病人のように細く、指先は紫に変色し、ひび割れて黒い血が滲んでいる。
「愛すべき花が、このような手をしているはずがなかろう。……貴族の令嬢の手ではない。拷問でも受けていたのか。これほど擦り減るまで、何をさせられていた」
「出涸らしだと……あちらの姉と殿下は、そう呼びました。ふふ、人質にするには十分らしいですけれど」
私が乾いた声で微笑むと、周囲の将官たちがぎょっと息を呑んだ。
帝国の皇帝を前にして、平然と口を開く人質など見たことがなかったのだろう。
ヴァルデマーの眉が、わずかに動いた。
「恐怖で頭がおかしくなったか? それとも、足が震えているのを誤魔化すための笑いか」
「足が震えているのは、北風が冷たく、この服が薄すぎるからです。……それから陛下、頭がおかしくなったわけではありません。至って正気です」
「ほう。ならば、自分がどのような立場に置かれているか分かっているな? 我が帝国は、ヴェルダンの欺瞞を許さん。今にも死にそうな娘を送りつけられては、人質として預かることもできん。このまま引き渡しを無効として、お前を送り返すこともできるのだぞ」
冷徹な宣告。
将官の一人が、机に置かれた受領書へ手を伸ばした。
けれど、私の心はどこまでも静かだった。
ここで黙れば、あの地下へ戻される。死ぬより先に、それだけは嫌だと思った。
「送り返されるくらいなら、ここで首を刎ねていただく方がましです。……ですが陛下、その前に一つだけ、私と取引をなさいませんか」
「……取引だと?」
ヴァルデマーの琥珀色の瞳が細められる。
私は麻服の胸元に指を滑り込ませた。
肌に密着させていた黒紫色の結晶を剥ぎ取り、取り出す。
護衛の兵士たちが一斉に殺気立ち、「武器か!」と怒声を上げるのを、ヴァルデマーが片手を上げて制した。
コトン。
それを、机に広げられた軍事地図のど真ん中――ヴェルダン王国の王都が描かれた位置に、無造作に転がした。
「……何だ、その不気味な石は」
「『大結界の真核』です」
私は息を吸い、はっきりとした声で言った。
「ヴェルダン全土を守る防衛結界は、神殿の聖女が祈りで維持していると信じられています。ですが実態は、私が地下室で十年間、国中から集まる瘴気を濾し、消しきれない毒を貯留槽に封じていました。この結晶は、その制御核です。……あの国は、私の血と肉を濾過器にして繁栄を保っていたのです」
将官たちが顔を見合わせた。
側近の宮廷魔導士が青ざめた顔で結晶を凝視し、持っていた魔力測定器の針が一瞬で限界を振り切って破損した。
「へ、陛下……! この核から、国境の結界と同じ波形が出ています! 中には濃縮された瘴気まで……素手で触れてはなりません!」
「私が離れたことで、あの国では瘴気の処理が止まりました。核まで壊せば、貯留槽の毒が一気に溢れます。ですが、私なら貯留槽を閉じたまま、結界への魔力供給だけを断てます。要塞の魔導砲も、門の防壁も止められるのです」
「……」
「ヴェルダンは私に優しくありませんでした。私を人間として扱わず、身代わりの雑巾として使い潰し、最後はあなたへの生贄として放り出した」
私は一歩、ヴァルデマーへ踏み出した。
紫に変色した指先を胸に当て、皇帝の冷酷な瞳をまっすぐに見つめ返す。
「命乞いはいたしません。ただ――私をあなたの手駒として、あるいは妃として買い取ってはいただけませんか?」
「買い取れ、だと?」
「はい。結界の魔力水路の図面と、各要塞から届く点検記録は、私が読んで処理していました。神殿の点検通路も知っています。この核を扱える者と、水路の位置を知る者。どちらも、あなたの軍には必要ではありませんか」
言い終えると、息が切れた。それでも、最後だけは声を落とさなかった。
「引き換えに、私を二度とあそこへ戻さないと約束してください」
静寂が、司令室を支配した。
暖炉の薪がパチリと弾ける音だけが、やけに大きく響く。
将官たちが息を詰めて皇帝の顔色を窺う中、ヴァルデマーは微動だにしなかった。
机の上の黒い結晶を見つめ、それから、私のぼろぼろの手と、まっすぐに前を見据える私の瞳を、じっと見つめ直す。
やがて。
「……ふ」
低く、地鳴りのような息が漏れた。
ヴァルデマーの唇が、ゆっくりと吊り上がる。
今まで伏せていた札を、ようやく見せられたという顔だった。
「はは……あっはははは!」
豪快な笑い声が、石造りの要塞を震わせた。
あの『冷血帝』が声を上げて笑う姿に、将官たちが目を見張る。
ヴァルデマーは長剣を机の上に放り出すと、大股で私に近づき――無骨で大きな手で、私の顎をグイと持ち上げた。
「面白い。実に面白いな」
近すぎる瞳を、私は目を逸らさずに見返した。
革手袋越しに伝わる体温が、凍えていた私の肌をじんわりと灼く。
「ヴェルダンの阿呆どもは、己の首を吊るための縄を、自ら手放してこちらへ寄越したわけだ」
「……はい」
「良かろう、ロヴィーサ。貴様の取引、このヴァルデマーが丸ごと買い取ってやる。二度とあの国へ人質として返しはせん」
ヴァルデマーは私の顎から手を離すと、自らの肩にかかっていた、黒狐の分厚い毛皮の外套を勢いよく外した。
そして、それを私の華奢な肩へと、手荒に――けれど確実に冷気を遮断するように、上からバサリと羽織らせた。
「ひゃっ……」
「震えている暇があるなら、肉を食え。……我が帝国は、有能な手駒を飢えさせるほど落ちぶれてはおらん」
男の汗と鉄の匂いが染み付いた外套は、呆れるほど重く、そして――泣きたくなるほど温かかった。




