第10話 一日で落ちた防衛線
蹄の音が、大地を太鼓のように打ち鳴らしていた。
外郭要塞の手前で、軍は一度足を止めた。
私が跨がる黒毛の軍馬を、ヴァルデマーが隣の白馬から見下ろしている。
「手綱の扱いは慣れたか、ロヴィーサ」
「まだ少し、指に力が入りません。……でも、ここまでは自分で来られました」
「馬車へ戻るなら言え。お前が見届けたいというのなら、最後まで付き合うがな」
帝都からの道中は馬車で過ごした。軍と合流してからは、毎夕、彼に乗馬を教わった。
今日は穏やかな馬を選んでもらい、手綱も握りやすい太さに巻いてある。そこまでしてもらったからには、自分で王宮まで行きたかった。
ヴァルデマーは琥珀色の瞳を細め、獰猛な笑みを浮かべた。
彼が纏う黒鉄の甲冑は、朝の光を鈍く跳ね返し、背後には数万の将兵が控え、冷たい空気の中に馬の白い息が立ちのぼっていた。
見上げれば、ヴェルダン王都を取り囲む外郭要塞――『鉄壁の三重門』が、すぐ目の前に迫っていた。
かつて他国の侵略を幾度も退け、「難攻不落」と豪語されていた王国の誇り。
だが、その城壁の上に並ぶヴェルダンの兵士たちの顔に、戦意など微塵もなかった。
兵士たちは光の消えた空を仰ぎ、次いで、城壁の下を埋める帝国軍へ目を向けた。弓を構える者は少なかった。
「……あそこの第三砲塔です、陛下」
私は手袋をはめた指先で、第一要塞の西端を指し示した。
「あの砲塔も、神殿から魔力を受けていました。予備の魔導炉に切り替えたのでしょうが、煙が漏れています。冷却水路が止まったまま焚けば、持ちません」
城壁へ向かって、降伏を求める声が響く。
しばらくして、城門には白布が掲げられた。だが第三砲塔からは赤い弾が放たれ、私たちの前方で土煙が上がった。
「殿下直属の砲兵です。……まだ撃つつもりなのですね」
「ロヴィーサを後ろへ。西の砲塔だけを狙え」
近衛兵が私の馬を下がらせる。その間にも、砲塔からは熱気が噴き出していた。
「火矢を用意せよ、射手隊!」
ヴァルデマーが低く号令を下すと、前衛の弩弓隊が一斉に弦を引き絞った。
放たれた火矢が、黒い放物線を描いて要塞の通気孔へと吸い込まれる。
直後。
ドォォォォンッ!!
過熱した魔導炉の油に火が移り、第三砲塔の通気孔から炎が噴き出した。
石壁の一部が崩れ、こちらを狙っていた砲身が大きく傾く。
兵士たちの悲鳴が風に乗って響いてくる。
「つ、通信が途絶した! 魔導炉が爆発したぞ!」
「防衛線が持たん! 迎撃の手順はどうなっているんだ!?」
「無駄ですよ」
私は静かに呟いた。
「魔力が止まった際の手順は、何度も提出しました。副官から返ってきたのは、殿下は式典の砲列を優先なさる、という返事ばかりでした。点検記録でも、冷却水路の修理はずっと未着手のままでしたから」
ヴァルデマーは低く喉を鳴らして笑った。
「自分の砲まで潰したか。……門が開くぞ。進め! 白旗を掲げた者は追うな!」
地鳴りのような咆哮と共に、帝国の重装騎兵が開かれた城門へとなだれ込んだ。
戦いは、戦と呼べるものにすらならなかった。
それから一時間も経たぬうちに、第一要塞に続いて第二要塞も門を開いた。
そして第三要塞の門前に到達した時、重厚な鉄扉が自ら軋んだ音を立てて開いた。
中から現れたのは、白髪の老将軍を先頭にした、数百名のヴェルダン守備兵たちだった。
彼らは剣を腰から外し、槍と一緒に道の脇へ並べていく。
「こ、降伏いたします……! 我が軍に、もはや戦う大義も力もございません!」
老将軍は泥まみれの石畳に膝をつき、両手をついて深々と平伏した。
その視線が、ヴァルデマーと馬を並べる私に向けられた瞬間、老将軍の目が見開かれた。
「ま、まさか……ロヴィーサ様……!? 本当に、ロヴィーサ様なのですか……!?」
「お久しぶりでございます、バルツァー将軍」
私は馬を止め、見下ろした。
かつて、年に一度だけ地下霊廟の備品点検に訪れていた、実直な老武官。
彼だけは、薄暗い地下で血を吐きながら結界を支えていた私に、時折こっそりと砂糖菓子を差し入れてくれた人だった。
「あぁ……なんというお姿に……」
バルツァー将軍は震える手で顔を覆い、涙をぼろぼろと石畳に零した。
「神殿からは、あなた様は病死したと聞かされておりました! 帝国の布告が届くまで、それを信じて……。私が地下で見たお姿を、もっと強く訴えていれば!」
「将軍……」
「私が知っていたことは、今朝、兵にも話しました。あなた様の報告書の控えも残っております。……これ以上、宮廷の隠し事のために兵を死なせたくはありません。どうか、降伏をお認めください!」
背後の兵士たちも、空の両手を前について頭を下げた。
誰一人として、剣を握ろうとする者はいなかった。
差し入れの砂糖菓子は、いつも紙に二つだけ包まれていた。
あれだけで嬉しくて、何日も分けて食べた。その人に今、顔を伏せられると、何を言えばいいか分からなかった。
「……控えを、残してくださっていたのですね」
将軍が頷く。
捨てられたと思っていた私の字が、まだどこかに残っている。そのことだけは、嬉しかった。
「バルツァー将軍、兵の命は保障する」
隣から、ヴァルデマーの重厚な声が響いた。
皇帝は長剣の切っ先を鞘に納め、平伏する将軍を見下ろした。
「貴様らの恭順を受け入れよう。……武器を捨てた兵は斬らん。代わりに、街の避難と魔獣の警戒に力を貸せ」
「は、ははぁっ……! オルデンブルク皇帝陛下、ロヴィーサ様、寛大なる御慈悲に感謝いたします……!!」
将軍たちが咽び泣く中、帝国軍はそれ以上の交戦をせず、王都外郭の全ての関門を掌握した。
半日。
たった半日で、ヴェルダン王都を守る三重の防衛線は、すべて帝国の手に落ちたのだ。
そして――。
私たちの軍勢は、王都の最後の砦である、白亜の王宮正門の前に到達した。
門の上には、すでに白旗が掲げられていた。
城門の奥からは、逃げ惑う貴族たちの悲鳴と、誰かを罵り合う甲高い怒号が、風に乗ってここまで響いてくる。
「さて、ロヴィーサ」
先に馬を下りたヴァルデマーが、私へ両手を差し出した。
鞍から降ろしてもらうと、固い地面を踏んだ足が少しふらつく。彼は私が立ち直るまで腰を支えたまま、耳元へ顔を寄せた。
「舞台は整った。……お前を地下に閉じ込めていた豚どもを、引きずり出しに行こうか」
「はい、陛下」
私は静かに微笑んだ。
差し出された腕に手を掛ける。
ここを去る時は、槍で背中を小突かれていた。今、門の内側に並ぶ兵たちは、私のために道を開けていた。




