第11話 玉座の前の醜悪な擦り付け合い
白亜の王宮の謁見の間は、もはや国の最高意思決定の場などではなかった。
床には散乱した機密書類と、逃げ惑う貴族たちが落とした装飾品が踏み躙られていた。
玉座に座るヴェルダン国王はすでに王冠を外して帝国の先遣使が示した停戦書に震える手で署名を済ませ、近衛兵たちに冷徹な命令を下していた。
「縛れ! その二人を太い縄で縛り上げろ!!」
「な、何をなさるのです父上! 私はこの国の王太子ですぞ!?」
「黙れ、この国賊が!!」
近衛兵たちに取り押さえられ、後ろ手に荒縄で縛り上げられたフロリアンが、血走った目で喚き散らしていた。
豪奢な軍服の肩章は引きちぎられ、先ほど国王に殴られた頬は青黒く腫れ上がっている。
その隣では、ジビュレもまた近衛兵に両腕を掴まれ、床に膝をつかされていた。
顔の右半分に広がった爛れは膿を持ち、厚化粧が汗と涙でドロドロに溶けて、まるで道化師の仮面のように崩れ落ちている。
「離しなさい! 無礼よ、無礼者! わたくしはヴェルダンの奇跡の聖女よ! 神の愛し子であるわたくしに触れるなんて、呪い殺されたいの!?」
「聖女だと!? まだそんな戯言を抜かすか、この売女めが!」
床に組み伏せられたフロリアンが、首をねじ曲げてジビュレを睨みつけ、唾を吐きかけた。
「貴様が『祈りだけで結界は保てる』と嘘をついたからだ! ロヴィーサの代わりなど神官で務まると言い、あいつを追い出せと私を唆したのは貴様だろうが!」
「なんですってぇぇっ!?」
ジビュレが、押さえつける近衛兵を振り仰いで叫んだ。
彼女は後ろ手に縛られたまま、獣のように身体をよじってフロリアンに体当たりを喰らわせた。
「どの口がそんなことを言いますの、この腰抜け! わたくしの美貌に目が眩んで、ロヴィーサを邪魔者扱いしたのはあなたの方じゃない! 『あんな陰気な女より、君のような華やかな花こそが王妃にふさわしい』って、毎晩わたくしの部屋に忍び込んできた癖に!」
「ぐわっ……! 貴様が擦り寄ってきたんだろうが! 『妹は不気味だから早く追い出して』と泣きついてきたのはどこのどいつだ!」
「あなたが乗ってきたんじゃないのよ! あいつが地下で死にかけていた時も、『薬などやるな、パンの耳でも食わせておけ』って笑っていたのはあなたでしょぉぉっ!!」
二人は縛られたまま身をよじり、互いに足を掛け、頭突きを喰らわせようとした。
王太子が伸ばした足を近衛兵が押さえ、聖女が顔を寄せるより先に二人を引き離す。
大広間に集まっていた数百人の貴族や大臣たちは、ただ冷え切った、底知れない軽蔑の目を向けていた。
かつて社交界で「国を救う光の聖女」と「太陽の如き麗しの王太子」と持ち上げられていた二人の、救いようのない正体。
つい先日まで二人を褒めそやしていた貴族が、目立たぬように列の後ろへ下がった。
「ひ、ひぃ……っ、何という醜態……」
広間の隅でガタガタと震えていたのは、エーレンハイム伯爵とその妻――ロヴィーサとジビュレの実の両親だった。
伯爵は、娘であるジビュレの悲惨な姿を見ても、助け舟を出すどころか、汚らわしいものを見るように後ずさりしていた。
「あ、あなた……どうしましょう! このままでは私たちまで責任を問われて処刑されてしまいますわ!」
「ええい、知るか! 元はと言えば、あのジビュレの我が儘を甘やかしたお前のせいだ! ……私は最初から、ロヴィーサを手放すことに反対だったのだ!」
伯爵は周囲の貴族たちに聞こえるように、わざとらしく胸を叩いて叫んだ。
「そうだ、ロヴィーサは私の愛しい、自慢の次女だった! 神殿に差し出したのも、すべてこの愚かな王太子とジビュレに脅迫されたからなのだ! ロヴィーサが戻ってくれば、父である私の言葉なら必ず聞いてくれるはずだ……!」
十年間、地下室へ見舞いにも行かず、次女の生存確認すら使用人に任せていた男が、今は誰よりも大きな声で娘の名を呼んでいた。
その浅ましさに、周囲の大臣たちすら眉をひそめて顔を背けた。
その時だった。
ドォォォォン……!
謁見の間の大扉を揺るがす、重厚な地響きが轟いた。
なおも罵り合っていたフロリアンとジビュレの動きが、凍りついたように止まる。
ギィィィィィ……。
重い蝶番が軋む音を立て、鉄で補強された大扉が、左右へとゆっくり開け放たれた。
廊下に整列していたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ、オルデンブルク帝国の親衛重装歩兵たちだった。
大剣を手に、一糸乱れぬ動作で広間の中央へと道を切り開く。
そして――。
コツ、コツ、コツ。
響いてきたのは、二組の足音だった。
一組は、重い軍靴の音。
もう一組は、それより軽く、ためらいのないヒールの音。
「ひっ……!」
誰かの短い悲鳴が、広間の天井に吸い込まれた。
姿を現したのは、黒き狼の毛皮を肩に羽織り、抜き身の長剣を提げたオルデンブルク帝国皇帝、ヴァルデマー3世。
大陸最強の覇王が放つ、息をすることすら許さない圧倒的な殺気と威圧感。
そして、その腕に優雅に手を添え、堂々と歩み入ってきた女性。
深紅の外套を近衛兵へ預けると、その下から黒曜石色のドレスが現れた。旅のために裾を留めていた釦を、侍女が素早く外す。
胸元には白銀竜の心臓石を使った帝室の首飾りが輝き、髪には正妃となる者に贈られる紅玉のティアラが留められていた。
頬には血色が戻り、整えられた亜麻色の髪が、歩くたびに滑らかな光を放っていた。
十年前、暗闇の底へ突き落とされた娘。
ひと月半前、出涸らしの雑巾として敵国へ売り飛ばされた娘。
――ロヴィーサ・フォン・エーレンハイム。
「あ……」
床に転がっていたフロリアンの口から、泡のような声が漏れた。
「あ、あいつ……本当に……?」
ジビュレは、見開いた目を血走らせたまま、息を吸い込むことすら忘れていた。
かつて自分が足蹴にし、ボロ布を着せて見下していた妹が、今や自分の生涯のどんな晴れ舞台よりも遥かに気高く、美しく、絶対的な権力者として目の前に立っている。
フロリアンが口を開きかけた。
ロヴィーサの目は、彼を通り過ぎ、玉座の前で待つ国王へ向いていた。




