第12話 泥に塗れる元婚約者と姉
大広間に入ると、さっきまで廊下へ響いていた怒鳴り声が止んだ。
石の床を進むヴァルデマーの軍靴が鳴る。絨毯に足を乗せると、その音も小さくなった。
道を開けたヴェルダンの貴族や騎士たちは、誰一人として目を合わせることすらできず、息を詰めて平伏していた。
中央の開けた場所まで進み出たところで、私は足を止めた。
私の靴先からわずか数歩の距離に、煤と血で服を汚したフロリアンとジビュレを見下ろす。
「……あ、あぁ……」
フロリアンの喉から、掠れた声が漏れた。
腫れ上がった目を限界まで見開き、私の姿を食い入るように見つめている。
私の顔より先に、ティアラと首飾りへ目が動いた。その癖だけは、以前と何も変わらなかった。
フロリアンは、縛られた両腕を芋虫のように蠢かせ、床を這いずりながら私の足元へと擦り寄ってきた。
「ロ、ロヴィーサ……! ロヴィーサなのか……!?」
「殿下。床が汚れますので、あまり動かれない方がよろしいかと」
私が感情の欠片もない声で告げると、フロリアンの瞳に、狂気じみた希望の光が宿った。
私の声を聞いて、まだ話が通じると思ったらしい。彼はさらに身を乗り出した。
「ロヴィーサ! ああ、来てくれたのか……! 悪かった、俺が悪かったんだ!」
フロリアンは額から血と脂汗を流しながら、私の足元の絨毯に顔を擦り付け、泣き叫ぶように懇願し始めた。
「俺は騙されていたんだ! 全部、そこのジビュレに唆されたんだよ! 『ロヴィーサは冷たい、不気味だ』と耳元で吹き込まれて、俺は判断を狂わされていた! 俺が本当に愛していたのは……十年間、陰ながら支えてくれたお前だけだったんだ!」
「……ほう」
私の隣で、ヴァルデマーが低く喉を鳴らした。
手に提げた長剣を握り直し、冷酷な光を宿した琥珀色の瞳で、足元の虫けらを見下ろしている。
だが、フロリアンは皇帝の殺気すら目に入らない様子で、さらに必死に言葉を重ねた。
「頼む、ロヴィーサ! こんな野蛮な北の男の元にいる必要はない! もう帝国へ帰らず、ヴェルダンに残ってくれ! 側室などとは言わない、お前を私の正妃にする! ジビュレなど今すぐ処刑して、お前をこの国の国母として迎えるから……! だから、あの結界を直してくれ! 俺を、俺を救ってくれぇっ!!」
救ってくれ。
愛していた。
正妃にしてやる。
私は、続く言葉を待った。
結局、最後に出てきたのは結界を直せという頼みだった。私の身体を案じる言葉は、一つもなかった。
フロリアンが私の靴の爪先に額を押し当てようと、首を伸ばした。
その瞬間。
「――触らないで」
スッ、と。
私は冷ややかに右足を引いた。
前のめりになったフロリアンは、絨毯の上へ顔を伏せた。
「ぶっ……!」
後ろ手に縛られた腕をもがかせ、必死に顔を上げる。
「私の靴を頼りに起き上がろうとなさらないで」
フロリアンは鼻から血を垂らしたまま、私を見上げた。
「ロ、ロヴィーサ……? お前、何を……俺は、お前の愛した婚約者だぞ……?」
「婚約者? 十年前、私に安物の銀の輪を放り投げ、会うたびに毒を抜けと命じるばかりだった方がですか? ……あの日、あなたが『愛など微塵もなかった』と仰った時に、すべては終わったのです」
私が淡々と告げると、今度は広間の隅から、引き攣った叫び声が割り込んできた。
「ロ、ロヴィーサ! ああ、私の愛しい娘よ!」
群衆をかき分けて飛び出してきたのは、実の父親であるエーレンハイム伯爵と、その妻だった。
伯爵はボロボロと嘘の涙を零しながら、両手を広げて私にすり寄ろうとする。
「無事だったのだな! お父様は、お前が帝国へ行くと聞いた時から、夜も眠れずに心配していたのだ! 王太子殿下の暴挙を止められず、本当にすまなかった……! さあ、家に帰ろう! エーレンハイムの屋敷で、これからは家族水入らずで――」
「どちら様でしょうか?」
私の静かな問いかけに、伯爵の言葉がピタリと止まった。
「な……何を言うのだロヴィーサ。お前の父だぞ? 生みの親の顔を忘れたというのか!?」
「私の両親は、十年前、十歳の娘を神殿の地下室に放り込み、『お前のような不気味な子は死んだものと思う』と言い放った日に、すでに死にました」
私は眉一つ動かさずに、平然と言い放った。
「私の知る限り、エーレンハイム伯爵家に娘は一人しかいなかったはずです。――あちらに転がっている偽聖女様だけが、あなた方の自慢の愛娘ではありませんでしたか?」
「ひ、ひぃっ……!」
母が口元を押さえてへたり込み、伯爵は青ざめて言葉を失った。
伯爵は周囲を見回した。だが、彼の代わりに口を開く者はいなかった。
「あ……ああああっ!」
その時、床に転がっていたジビュレが、狂ったような叫び声を上げてのたうち回った。
縄で縛られた身体を激しく揺らし、膿の混ざった顔を歪ませて私を睨みつける。
「泥棒猫……! 泥棒猫ぉぉっ! 全部わたくしのものよ! そのドレスも、その宝石も、その皇帝も、全部わたくしが手に入れるはずのものだったのよ! 返しなさいよ! 出来損ないの出涸らしのくせに、わたくしから奪うんじゃないわよぉぉっ!!」
血を吐くような嫉妬と憎悪の叫び。
ジビュレは膝で床を蹴り、私のドレスの裾へ顔を突き出した。
だが、その濁った口元が布地に届くことはなかった。
ドカッッ!!
「ぐぎゃあっ!?」
ヴァルデマーが軍靴でジビュレの肩を押し返した。
倒れた姉を近衛兵が押さえる。近衛兵が姉の襟を掴み、身を起こさせる。
「二度と近づけるな」
低い声に近衛兵が頷き、姉を柱の脇へ引き離した。
私の手は、いつの間にかヴァルデマーの袖を握っていた。彼は私の手に一度触れてから、玉座へ向き直る。
「おい、ヴェルダン国王」
ヴァルデマーの低い怒号が、謁見の間の天井を揺るがす。
玉座の前で縮こまっていた国王が、ビクゥッと肩を跳ねさせた。
「は、ははぁっ……!」
「停戦は認めた。だが、講和にはまだ条件がある。王家と神殿が何をしたか、民の前に明らかにせよ。首謀者を裁き、被害への償いをさせろ」
「仰せの通りにいたします」と、国王は何度も頷いた。
ヴァルデマーは、その返事を遮った。
「貴様自身の退位も含めてだ。息子に罪を被せて玉座に残れると思うな」
国王の手が、外された王冠のそばで止まった。
国王が、縛られた息子を見た。
フロリアンはもう、父へ助けを求めてはいなかった。二人とも、自分の名が次に呼ばれるのを待っていた。




