第14話 もう、どこにも行かせない
オルデンブルク帝国の帝都、黒狼城。
南方のヴェルダン王国での清算をすべて終え、凱旋を果たしたその夜、皇帝の寝所にはパチパチと薪がはぜる音だけが満ちていた。
湯浴みを終えた私の髪からは、まだ白樺とハーブの香りがほんのりと漂っている。
薄絹と柔らかな毛皮を重ねた寝衣を纏い、私は天蓋付きの大きなベッドの端に腰を下ろしていた。
「……ふう」
膝の上に置いた自分の両手を見つめる。
爛れた傷はほとんど塞がり、爪の根元には血色が戻っている。指先の痺れは、疲れるとまだ強くなった。
フロリアンも、ジビュレも、実の両親も、すべて自業自得の地獄へと落とした。
憎らしい連中を叩き潰したはずなのに――一人きりになると、次に何をしたらよいのか、分からなくなっていた。
地下へ戻らなくていい。結界のために、朝まで起きていなくてもいい。
そのはずなのに、役目を探してしまう。
――私の手土産は、もう使い終わった。
ヴァルデマーは、正妃に迎えたいと言ってくれた。
それを疑いたいわけではない。ただ、何もしないままここにいてよいのかと考えると、落ち着かなかった。
指先が、小さく震えた。
寒くもないのに、ガチガチと奥歯が鳴りそうになる。
その時だった。
ギィ、と重い扉が開き、湯気をまとった長身の男が入ってきた。
軍服を脱ぎ捨て、黒い部屋着の胸元を寛げたヴァルデマーだった。
濡れた灰色の髪を乱暴に手で掻き揚げながら歩み寄ってくるその姿は、昼間の軍服姿とは違って見えて、思わず目を伏せた。
「……まだ起きていたか」
「陛下……」
ヴァルデマーはベッドの脇に立つと、私の青ざめた顔と、小刻みに震える指先をじっと見下ろした。
誤魔化そうと手を引いた瞬間、彼の太い腕が伸びてきて、私の両手を上からすっぽりと包み込んだ。
――熱い。
戦場で鍛え上げられた分厚い掌が、私の冷え切った指先をぎゅっと握り締める。
「手が冷えているな」
「いえ……お風呂から上がったばかりですので、気のせいです」
「嘘を吐くな。震えているではないか」
ヴァルデマーはため息を一つ吐くと、ベッドに腰を下ろし、そのまま私の身体を後ろから強引に引き寄せた。
「きゃっ……!?」
背中が、熱く頑丈な胸板にぴったりと密着させられる。
太い腕が私の腰に回り、膝の上の毛皮ごと抱き寄せられた。
首筋に、ヴァルデマーの荒く熱い息が直接吹きかかる。
「へ、陛下……何を――」
「震えを止めてやっている。……それとも、俺の腕では不満か?」
「そ、そのようなことは……っ」
私は少し身体をずらし、彼の胸に頭を預けた。
男の硬い筋肉の感触と、石鹸とわずかな革の匂いが鼻腔を満たす。
顔を見られずに話せると思うと、さっきまで言えなかったことを口にできそうだった。
「……陛下」
「何だ」
「私……本当に、これで良かったのでしょうか」
掠れた声で、私は問いかけた。
「姉も、元婚約者も、両親も、もう私には命じられません。復讐を悔やんではいないのです。でも……結界も手放して、軍にお貸しできる知恵も使い終わったら、私はここで何をすればよいのでしょう」
言ってしまってから、彼の腕を握った。
次の役目が欲しいのではなかった。このままここにいてよいと、もう一度、聞きたかった。
ヴァルデマーはしばらくの間、無言のまま私を抱きしめていた。
そして、私の耳元に唇を寄せると、地鳴りのように深く、優しい声で囁いた。
「馬鹿者が」
「……え?」
「また値札をつけ直すつもりか。取引は済んだ。求婚はそのあとにしたはずだぞ」
ヴァルデマーの手が私の顎に触れ、ゆっくりと顔を上向かせた。
見つめ合う至近距離。
彼は、私が頷くまで目を逸らさなかった。
「明日は遅くまで寝ていろ。そのあと、俺と飯を食え。……それだけでは、不足か」
「陛下……」
「そばにいてほしいと言っただろう。手ぶらで来い、ロヴィーサ」
ごつごつとした指先が、私の唇をなぞり、首筋へ、そして鎖骨へと滑り落ちていく。
触れられた場所が火傷したように熱くなり、呼吸が浅くなる。
「やりたいことができたら聞かせろ。ないうちは、俺に付き合え。……毎晩、寝顔だけ見て引き返すのは、もう飽きた」
「……っ」
「もう、誰の身代わりにもさせん。誰の影にもさせん。……お前は、俺のたった一人の女房だ。どこにも行かせんぞ、ロヴィーサ」
顔を埋めると、彼の腕がまた少し狭まった。
何か言い返したかったのに、視界が滲んで、ポロポロと涙が頬を伝った。
黒鉄要塞でスープを食べた時と同じ、けれど今度は、温かくて甘い涙だった。
「……はい」
私は彼の手首に、自分の指を絡めた。
「では、明日の朝は私を待っていてください。先にお仕事へ行かないで。……一緒にいたいのです、ヴァルデマー様」
初めて、本人に向かって呼んだ名前。
ヴァルデマーが、息を止めた。
「……明日の朝だけで済むと思うなよ」
引き寄せられるように、唇を塞がれた。
「――んっ……」
名前を呼び直す間もなく、二度、三度と唇が重なる。
背中が寝台に沈む直前、彼の手が枕を引き寄せた。
傷の残る場所を庇うその手に、私は触れた。
「……もう、大丈夫です」
「そう言って、無理をするだろう」
「今は、していません」
確かめてもらうように、自分から彼の首へ腕を回した。
口づけが頬へ、耳元へと移る。寝衣の紐に掛かった指が止まると、私は頷いて、彼を引き寄せた。
「好きです、ヴァルデマー様」
彼の目を見たまま、返事を待った。
抱きしめる腕が強くなり、返事は耳元に落ちてきた。
「……俺もだ」
もう一度聞きたいとせがむと、彼は困ったように笑った。
その夜、私の願いを、彼は一つも聞き流さなかった。




