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この国は、身代わりの私に優しくない  作者: 九葉(くずは)


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最終話 優しくない国に、さようなら

 ゴオォォォン……ゴオォォォン……。


 オルデンブルク帝国の帝都に、春の祝賀を告げる鐘が鳴り響いていた。

 婚礼を挙げてから、一年。

 黒狼城のバルコニーへ出ると、広場を埋めた人々が一斉に手を振った。


「皇后ロヴィーサ陛下、万歳!」

「皇帝陛下、万歳! 帝国に栄光あれ!」


 純白の礼装の袖を上げ、私も手を振り返す。

 銀糸で刺繍された黒狼が、陽の光を受けてきらめいた。冠の重さにも、まだ少し慣れない。


「疲れてはおらんか、ロヴィーサ」


 隣のヴァルデマーが、小声で尋ねた。

 朝、部屋を出る時にも、階段を上る時にも、同じことを聞かれている。


「大丈夫です。まだ出てきたばかりでしょう?」


「顔色が変わったら、すぐに中へ戻すからな」


 厳めしい顔のまま、彼の手が私の腰を支えた。

 そこから、まだ膨らみのないお腹へ、そっと触れる。


 子供がいると分かったのは、つい先日のことだ。

 軍医の話を聞いた時、ヴァルデマーは珍しく黙り込んだ。それから、私の手を取って「そうか」と言い、しばらく離さなかった。

 その晩から、階段を一人で上らせてもらえなくなっている。


「ほら、あちらを見てください」


 広場の端で、緑の布を振っている一団を指した。

 城の薬草園で働く人たちだった。冬の間、温室で一緒に苗の植え替えをした娘が、両腕をいっぱいに伸ばしている。


 婚礼のあと、自分で始めた仕事は、薬の材料に混じる瘴気を見分けることだった。

 治療は医師たちの仕事だ。私は十年間で嫌になるほど覚えた毒の見分け方を教え、代わりに、土の作り方や苗の育て方を教わった。


 薬草の種類を取り違えて、庭師に叱られたこともある。

 その日の夕食で話すと、ヴァルデマーは笑った。翌日、庭師が城へ呼ばれたので肝を冷やしたが、届いたのは私の手に合う小さな植え鏝だった。


 今では、それも片手で使える。

 私は手袋の中で、指をそっと曲げた。


「よく見えるな。皆、お前を探しているぞ」


「ええ」


 声を掛けたくて身を乗り出すと、腰の手がすかさず引き戻した。


「陛下!」


「落ちてからでは遅い」


「まだ半歩しか動いていません!」


 笑い声が、近くに控えていた侍女からも漏れた。

 ヴァルデマーだけが、何がおかしいと言いたげな顔をしている。


 春風がベールを揺らした。

 ふと南の空が見え、先週届いた報告書を思い出す。


 ヴェルダンからの報告には、畑の復旧が進んでいること、神殿の貯留槽から汚泥が運び出されていることが記されていた。

 退位した国王は旧離宮で監視下に置かれ、評議会の調査を受けている。

 かつての王太子と聖女、そして伯爵夫妻についても、短い記載があった。


 ◇


「交代だ。道具を戻せ!」


 鉛鉱山の坑道に声が響くと、フロリアンはようやくつるはしを下ろした。

 手のひらに豆が潰れ、腰を伸ばすだけで顔が歪む。王族の紋章を縫い付けた服はもうなく、囚人の上着は肩も袖も擦り切れていた。


「……手紙は、来ていないか」


 監視兵に尋ねる声は、かつてのようには響かなかった。


「お前宛てのものはない」


「ロヴィーサからだ。皇后から、何か……」


 監視兵は首を振り、次の囚人の道具を数えた。

 フロリアンはしばらく立ち尽くしたあと、食事を受け取る列の最後尾についた。


 神殿の地下では、ジビュレが汚泥を入れた桶を持ち上げていた。

 防護の手袋は重く、覆面を通しても臭いが鼻につく。


「もう嫌よ……! どうして、わたくしがこんなことを!」


 叫んでも、代わりに桶を持つ者はいない。

 妹の名を呼びかけ、ジビュレは唇を噛んだ。


 処理の手順は壁に掛けられている。道具も薬も、仕事が終われば洗う湯もある。

 それでも、たった一日の作業が長かった。

 ロヴィーサは、ここで十年を過ごしたのだ。その事実を考えかけるたび、ジビュレは桶を乱暴に床へ置いた。


 元伯爵夫妻には、領地へ戻る許しも出ていない。

 施療院の裏手に与えられた小部屋で暮らし、配給と引き換えに雑役をしている。昔の使用人を見かけて呼び止めても、頭を下げて駆け寄ってくる者はいなかった。


 ◇


「……何を考えている」


 ヴァルデマーの声で、広場の歓声が耳に戻った。

 私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。


「南からの報告を、少し」


「読むのが嫌なら、俺のところへ回せ」


「もう平気です。復旧の報告は、これからも読ませてください。ただ、あの人たちの暮らしぶりは……次からは、要りません」


 罰が続いているかを確かめるために、朝を使いたくなかった。

 今日もこのあと、薬草園から新しい芽の報せが来る。夕方には、子供の産着を選ぶ約束もある。


「分かった」


 彼はそれだけ言って、私の手を握り直した。

 広場の人々へもう一度挨拶をしてから、私たちは城の中へ戻った。


 扉を閉じると、歓声が遠くなる。

 ヴァルデマーはすぐに私を椅子へ座らせ、重い冠を外した。


「締めつけてはいなかったか」


「少しだけ。……ありがとうございます」


 彼の指が、冠の当たっていた髪をそっと梳く。

 私はその手を捕まえ、隣の椅子へ引いた。


「お食事まで、ここにいてくださいます?」


「そのつもりだ。執務の書類も持ってこさせた」


「まあ。私より用意がよろしいこと」


 卓上へ運ばれてきたのは、牛のすね肉と根菜のシチューだった。

 玉ねぎの甘い匂いに、黒胡椒が少し。匙で触れると、肉はすぐにほぐれた。


 あの要塞で初めて口にした時と、同じ匂いがする。


 ヴァルデマーが私の皿へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 私が自分で匙を持っているのを見て、何も言わず、自分の皿を引き寄せる。


「食べさせてくださらないのですか?」


 思い切って聞いてみた。

 彼がこちらを向く。私は笑って、匙を差し出した。


「今日は、お願いしたくて」


「……お前、近頃は俺の使い方を覚えたな」


 呆れた声とは裏腹に、彼はすぐに匙を受け取った。

 肉を小さくほぐし、ふう、と息を吹きかける。口元へ来たそれを食べると、ヴァルデマーは相変わらず、私が飲み込むまで待っていた。


「美味しいか」


「はい。とても」


 今度は泣かずに答えられた。

 けれど彼の頬に触れたくなって、私は椅子から少し身を寄せた。


「愛しています、ヴァルデマー様」


 匙を持ったまま、彼が私を見る。

 その耳がわずかに赤くなるのを、私は見逃さなかった。


「食事中に不意を突くな」


「お嫌でした?」


 答えの代わりに、口づけが返ってきた。

 離れた唇へ、もう一度、私から触れる。


「……愛している、ロヴィーサ」


 お腹に添えた手を、彼の手が包んだ。

 いつかこの子にも、同じ食卓で温かいものを食べさせたい。美味しいと言えば、きっとこの人は、今と同じ顔をする。


 窓辺の陽だまりに、二人分の湯気がのぼっていた。


 優しくなかったあの国に、さようなら。


「おかわりはあるぞ」


「では、もう少しだけ」


 差し出した私の皿を、彼が受け取った。

 明日もここで、同じ人と朝を迎える。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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