四話 鉄血漢と呼ばれる男
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レン・ラッセル。
その名が、どうにも耳に残っていた。
イヴ・フェリーは執務机に戻ると、先ほどまで手にしていた書類を机の中央へ置いた。
紙一枚。
たったそれだけのものが、妙に気にかかる。
普段ならば、新しく配属された職員の名前など一度目を通せば十分だった。
誰がどこの家の人間で、何歳で、どの部署から来たのか。
必要な情報さえ頭に入っていれば、それ以上知る必要はない。
人間そのものに興味があるわけではない。
重要なのは、その人間が仕事をする上で信用できるかどうか。
それだけだ。
だというのに。
「......ラッセル、か。」
イヴはもう一度、その名を口にした。
帝国内でこの姓を知らない者は少ない。
まして、ある程度の家格を持つ者ならば、その名がどこへ繋がっているのか知らぬはずもない。
ラッセル。
帝国でも古い歴史を持つ家門の血を示す名。
現在、その本流にあたる家はベッドフォード公爵家へと続いている。
外交を担ってきた名門。
長い歴史。
広大な領地。
そして、帝国内でも有数とされる財力。
その名を背負うことが、どういう意味を持つのか。
貴族社会に生きる人間ならば、知らないはずがない。
しかし....。
先ほど目の前にいた少女は、その名前をまるで珍しいものでもないように口にしていた。
「レン・ラッセル......十八歳。」
書類をめくる。
ティアーズ商会所属。
商会長スノウ・ヴァレンティアの娘。
仕入れ・下請け取引部門に所属。
実務経験あり。
皇宮との今回の大規模取引に伴い、商会側から派遣。
ここまでは理解できる。
問題は、その先だった。
彼女が普段名乗っている名は、レン・ヴァレンティア。
正式な身元上の姓は、レン・ラッセル。
父親であるレイン・ヴァレンティアもまた、ラッセル家の血を引いている。
さらにヴァレンティア家そのものも、帝国内では決して無名の商家ではない。
つまり。
目の前にいた十八歳の少女は、見た目以上に厄介な背景を持っている。
いや。
正確には――本人が厄介なのではない。
本人の周囲が厄介なのだ。
「局長、失礼します」
扉を叩く音に、イヴは顔を上げた。
「入れ。」
入ってきたのは、物資管理局次長のニコルだった。
彼女は両腕に抱えた書類を机へ置く。
「レンさんですが、無事に職員寮へ案内されたそうですよ。」
「そうか。」
「ただ.......。」
ニコルが少しだけ言葉を濁した。
「荷物がかなり多かったようで.....。」
「見れば分かる。」
イヴは淡々と答えた。
先ほど皇宮へ到着した馬車を思い出す。
馬車から運び出されていた荷物は、職員一人分とは思えない量だった。
衣服。
書籍。
雑貨。
家具まである。
職員寮へ移るというより、家財道具を丸ごと運び込んだと言ったほうが正しい。
「商会の令嬢ですから、仕方ないのでは?」
「寮に家具を持ち込む必要性はないはずだ、備え付けの家具もあるだろう。」
「そこまで言います?」
「必要なものを持ってくればいい。」
「十代の女の子に、それを求めるのは少々酷では?」
「仕事に年齢は関係ない。」
「........相変わらずですね、局長は....。」
ニコルが小さく笑った。
イヴは眉間に皺を寄せる。
「何がだ。」
「いえ。新人が来たというのに、最初に気にするのが荷物の量なのが。」
「問題があるなら指摘する。それだけだ。」
「はいはい。」
ニコルはそれ以上追及しなかった。
だが、書類を整理しながらふと思い出したように口を開く。
「そういえば、レンさんですが....。」
「何だ?」
「職員寮の案内をした者によると、随分と落ち着いていたそうです。」
「...そうだろうな。」
イヴは短く返した。
「皇宮に来るのが初めてではないからだろう。」
「それもあるでしょうけど...。」
ニコルは少し考えるように首を傾けた。
「なんというか...皇宮そのものに、あまり興味がないようだったと。」
「興味?」
「普通なら、初めて長期間暮らすことになったら、もう少し緊張したり、周囲を見たりするでしょう?」
「....。」
確かに。
先ほど彼女を見た時もそうだった。
皇宮という場所に対して、必要以上の畏怖がない。
かといって、敬意を欠いているわけでもない。
妙に自然だった。
まるで――。
皇宮も、商会も。
彼女にとっては「自分がそこにいる場所」の一つに過ぎないような。
「それでいて、仕事について話した時は随分しっかりしていたそうですよ。」
「何を話した?」
「仕入れのことです。商会では買い付けも担当していたのでしょう?」
「ああ。」
「なら、仕事に関しては問題なさそうですね。」
「まだ判断するには早いと思うが...。」
「局長ならそう言うと思いました。」
ニコルは笑いながら部屋を出ていった。
扉が閉まる。静けさが戻った。
イヴは再び書類へ視線を落とした。
だが、文字が頭に入ってこない。
レン・ラッセル。
なぜ商会長の娘が皇宮へ派遣されたのか。
それだけなら理解できる。
今回の取引は大きい。
商会側から人間を一人常駐させる必要もある。
商会長の娘ならば、責任を取れる立場でもある。
だが。
なぜ彼女なのか。
長女ではない。
次女でもない。
次期商会長とされている姉ではなく、三女。
しかも、本人は商会の仕事に対して積極的な人間ではないという。
資料にはそう書かれていた。
与えられた仕事はこなす。
しかし、自ら仕事を増やそうとはしない。
それだけなら、怠け者と判断するところだ。
だが、先ほど実際に話した限りでは、そう単純でもない。
質問には答える。
仕事の話も理解している。
自分が何をすべきかも把握している。
ただ――。
必要以上に頑張ろうとしない。
「.....合理的、というべきか。」
イヴは呟いた。
自分と似ている。
そう思った直後、その考えを打ち消した。
違う。
自分は仕事を必要とする。
仕事を終わらせることに価値を見出している。
対して彼女は。
仕事を「必要だからするもの」と考えているように見えた。
そこに執着がない。
だからこそ、かえって読みにくい。
野心のある人間なら簡単だ。
出世。
評価。
金。
家門のため。
そういった目的があれば、その人間が次に何をするかはある程度予測できる。
しかし。
何も求めていない人間は、予測が難しい。
イヴは椅子の背に身体を預けた。
「...厄介だな。」
その時だった。
コンコン、と再び扉が鳴った。
「入れ。」
「失礼します。」
扉が開く。
そこに立っていたのは、先ほどの少女だった。
「レン・ラッセルです。」
「どうした?」
「明日からの仕事について確認しに来ました。」
イヴは時計を見る。
予定より少し早い。
「席に座りなさい。」
「はい。」
レンは素直に椅子へ腰を下ろした。
視線が机の上の書類へ向く。
そこには大量の書類が積み重なっている。
普通の人間なら、その量を見ただけで顔を引きつらせる。
だが、レンは一瞬目を向けただけだった。
「...多いですね。」
「そう思うか?」
「はい。でも、これが全部今日中に処理するものなら大変だと思います。」
「今日中のものだけではない。」
「...。」
レンが黙った。
そして。
「大変ですね。」
先ほどと同じ感想を、今度は少しだけ重く言った。
イヴは思わず彼女を見る。
「他人事だな。」
「他人事ですから。」
「...。」
「私の仕事ではないので。」
悪びれもせず言う。
イヴは一瞬、言葉を失った。
普通なら「手伝いましょうか」くらい言うものだ。
だが。
彼女の表情を見る限り、嫌味でも挑発でもない。
本当にそう思っているだけらしい。
「...正直だな。」
「よく言われます。」
「褒めてはいない。」
「知ってます。」
レンはけろりとしている。
イヴは小さく息を吐いた。
妙な少女だ。
だが、不思議と不快ではない。
「明日からの仕事について説明する。」
「お願いします。」
イヴは資料を一枚取り出した。
「午前は局内の各部署を案内する。物資の流れを理解してもらう必要がある。」
「はい。」
「午後からは仕入れ関連の書類整理。その後、実際の取引に同行してもらう。」
「分かりました。」
「商会で買い付けをしていたなら、こちらの仕事も理解は早いだろう。」
「恐らく。」
「恐らく?」
「皇宮と商会では規模が違いますから。」
その返答はもっともだった。
イヴは頷く。
「その通りだ。分からないことがあれば聞け。」
「どこまで自分で判断していいですか?」
先ほどとは違う質問だった。
イヴは少しだけ目を細める。
「具体的に言え。」
「取引先から契約条件の変更を求められた場合です。商会ではある程度自分で判断していました。」
「ならば、ここでも基本的には同じだ。」
「いいんですか?」
「自分で判断できるものまで、いちいち上に確認する人間は仕事を遅らせる。」
「...なるほど。」
レンは納得したように頷いた。
「ただし、金額や契約内容、皇宮内の規則に関わる場合は必ず確認しろ。」
「分かりました。」
「それと...。」
イヴは彼女を正面から見た。
「ここでは家柄を仕事に持ち込むな、とだけ言っておく。」
レンの新緑色の瞳が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬だった。
だが、イヴは見逃さなかった。
「...はい。」
「ラッセルの名も、ヴァレンティアの名も関係ない。仕事ができれば評価する。できなければ指摘する。」
「それは助かります。」
「助かる?」
「家の名前で扱われるの、あまり好きじゃないので。」
意外な答えだった。
イヴは何も言わなかった。
レンは少し考えるように視線を逸らした。
「まあ、私が言っても説得力ないですけど。」
「なぜだ?」
「私は商会長の娘なので。」
それだけ言って、彼女は立ち上がった。
「明日からよろしくお願いします、局長」
「こちらこそ。」
レンが扉へ向かう。
その背中を見ながら、イヴはふと口を開いた。
「レン。」
「はい?」
「正式な書類ではラッセルを使え。」
「分かりました。」
「普段は好きにしろ。」
レンは少しだけ笑った。
「ありがとうございます。」
扉が閉じる。
イヴは一人、静まり返った執務室に残された。
「...家の名前で扱われるのが嫌、か。」
机の上に置かれた身元調査書を見る。
そこには、ただ文字が並んでいるだけだった。
レン・ラッセル。
十八歳。
ティアーズ商会。
スノウ・ヴァレンティアの娘。
それだけなら、何も不思議ではない。
だが、実際に本人を見た後では違って見える。
紙に書かれた情報の隙間に、まだ何かが隠れているような気がした。
それを暴く必要があるとは思わない。少なくとも今は。
イヴにとって重要なのは、彼女が仕事をできる人間かどうかだけだ。
それ以外のことは、どうでもいい。
――そう思った。
思ったはずだった。
「...妙な娘だ。」
誰もいない部屋で、もう一度そう呟く。
そして、その言葉が自分の口から出たことに、イヴ自身がわずかに眉を寄せた。
人間を評するとき、自分はいつももっと簡潔だ。
有能か。
無能か。
信用できるか。
できないか。
それで十分だった。
なのに。
あの少女についてだけは、まだ判断がつかない。
それが、気に入らない。
イヴはペンを取り、目の前の書類へ視線を戻した。
「...明日から見ればいい。」
彼女が何者なのか。
何を求めて皇宮へ来たのか。
そして――。
どこまで仕事ができる人間なのか。
答えは、そのうち分かる。
そう考えて、イヴはようやく書類へ向き直った。
けれど、その日の最後まで。
彼の頭の片隅から「レン・ラッセル」という名前が消えることはなかった。
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