五話 変化
レンが皇宮の物資管理局で働き始めてから、今日で二週間が経った。
たった二週間。
それなのに、最初の日のことが随分と遠く感じられる。
皇宮という、それまで商会の人間としてしか出入りしたことのなかった場所で暮らし、働く。
最初こそ少しばかり勝手が違ったものの、レンは思っていたよりも早く環境に馴染んでいた。
朝起きる。
職員寮から物資管理局へ向かう。
与えられた書類を確認し、必要な仕事を片付ける。
昼食を食べ、また仕事をする。
終業時間になれば寮へ戻る。
商会にいた頃と比べれば、仕事内容も環境も大きく違う。
それでも、やっていること自体は大して変わらない。
レンにとって仕事とは、与えられたものを片付けるだけのものだった。
だからこそ、二週間も経てば慣れるのは当然のことだった。
ただ。
一つだけ、未だに完全には馴染めていないものがある。
人間関係だ。
レンが配属されたのは、物資管理局の中でも局長であるイヴ・フェリーの直属にあたる人事・物資部。
局の心臓部ともいえる場所であり、扱う書類も数字も多い。
直接現場へ出ることは少ないが、一つの判断が局全体へ影響することもあるため、それなりに責任のある部署だった。
そんな部署で、レンと年齢が近い職員は二人いる。
一人はギャビー・ペリエ。
レンより一歳年上の十九歳。
十六歳からこの局に勤めているため、レンからすればれっきとした先輩である。
栗色の髪を緩くハーフアップにまとめ、夕焼けを思わせるオレンジ色の瞳を持つ少女だ。
そしてもう一人は、エミール・マルソー。
レンより三歳年上の二十一歳。
昨年の人事異動で物資管理局へやってきた侯爵家の人間で、濃い紫色の髪と瞳を持っている。
二人とも、性格はかなり違う。
ギャビーは感情が顔に出やすい。
仕事もよくできるし、四年目ということもあって局内の事情にも詳しい。
ただ、少しの失敗でも長い時間落ち込み、逆に上司から褒められれば分かりやすく機嫌がよくなる。
そして最近は、レンが自分より評価されると悔しそうな顔をすることも増えた。
レンもそれには気づいている。
周囲も気づいている。
だからこそ、二人の間にはどこか妙な空気が流れていた。
一方、エミールは基本的に他人に興味がない。
必要なことしか話さない。
レンに対してだけではなく、他の職員に対しても同じなので、レンは特に気にしていなかった。
周囲からは「気位が高い」だの「侯爵家だから他人を見下している」だのと言われているが、レンはそういった噂を信じてはいない。
ただ、他人にあまり興味がないという部分については、あながち間違いではないと思っている。
そして、それもレンにはどうでもよかった。
仕事さえできれば、それでいい。
少なくともレンはそう思っていた。
そんなある日の昼前。
いつものように書類を整理していると、隣の席から声がかかった。
「レンさん。この書類で使ってる形式って、すごくわかりやすいんだけど、書き方教えてくれない?」
顔を上げる。
そこにはギャビーが立っていた。
「これ?」
レンが指さしたのは、先ほど自分がまとめた物資の在庫報告書だった。
「そう。それ。前から気になってたんだけど、数字が多いのに見やすいんだよね。」
「別に難しくないよ。」
「それができないから聞いてるんだけど。」
「......。」
レンは差し出された書類を受け取る。
そして、自分の机に広げた。
「まず、全部を書こうとしないこと。」
「え?」
「必要な数字だけ最初にまとめるの。細かい内訳までここに入れると、逆に分かりにくくなるから。」
「うん。」
「細かいものは別紙にして、この表には合計と前月との比較、それから今月の使用量だけ入れる。」
レンはペンを持ち、書類の一部分を指で示す。
「ここが前月。こっちが今月。最後に差額を書く。そうすると、どれが増えたか減ったかすぐ分かるから。」
「なるほど....。」
ギャビーは真剣な顔で書類を覗き込む。
「じゃあ、ここは?」
「そこは用途別。食材と衣類と薬品を一緒にすると見にくいから分ける。」
「でも、最終的には全部まとめるんだよね?」
「うん。でも、まとめるのは最後でいい。」
「....ああ。」
ギャビーの顔が少し明るくなった。
「そっか。最初から全部まとめようとするから時間がかかるんだ。」
「たぶん。」
「たぶんって。」
「私はそうしてるだけだから。」
「でも、実際それで早く終わってるじゃん。」
「そうだね。」
レンは何でもないことのように答えた。
ギャビーはそんなレンをじっと見つめる。
「レンさんって、商会でもこういう仕事してたの?」
「似たようなことはしてたよ。」
「じゃあ、これもレンさんが考えたの?」
「うーん...。」
レンは少し考える。
「前にあった書式を使いやすくしただけ。」
「それを考えたっていうんじゃないの?」
「そうなの?」
「そうだよ。」
レンは首を傾げる。
ギャビーは思わずため息をついた。
この二週間で、ギャビーは何度も同じことを感じていた。
レンは、自分のできることを特別だと思っていない。
書類をまとめるのも。
数字を確認するのも。
仕事を効率化するのも。
本人にとっては、ただ「面倒だからそうしている」だけなのだ。
「...まあ、いいや。ありがとう。やってみる。」
「うん。」
ギャビーは書類を抱えて自分の席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、レンは再び自分の仕事へ視線を戻した。
すると、少し離れた場所にいた職員と目が合った。
その職員は慌てたように視線を逸らす。
「......?」
レンは首を傾げた。
何だったのだろう。
まあ、いいか。
そう思って、再び書類に目を落とした。
***
午後。
「レンさん。」
今度は別の職員から声をかけられた。
「この数字、少し確認してもらってもいいですか?」
「いいですよ。」
レンは差し出された書類を受け取る。
数字を上から順番に眺める。
そして、数秒後。
「ここ、違ます。」
「え?」
「前月の在庫数と合ってないです。」
「...本当だ。」
職員が慌てて書類を覗き込む。
「すみません。転記するときに間違えたみたいです。」
「直せば大丈夫だと思いますけど?」
「助かりました。」
「大丈夫です。」
職員が自分の席へ戻っていく。
レンはその様子を見送った。
別に大したことではない。
数字を見れば分かることだった。
しかし。
その日から、少しずつ変化が起き始めた。
「レンさん、これってどっちの数字を使えばいいですか?」
「こっちですかね。」
「レンさん、この取引先の資料ってどこにあります?」
「右から二番目の棚。上から三段目だと思います。」
「ありがとうございます。」
「レンさん、これ昨日の書類と同じ形式にしてもいいですか?」
「いいと思ます。」
仕事中、レンへ声をかける職員が増えていった。
最初は一人。
それが二人になり。
三人になり。
気がつけば、レンの周囲には何人かの職員が集まるようになっていた。
レン自身は、なぜこうなったのかよく分かっていなかった。
別に自分が親切にしているつもりもない。
聞かれたから答えているだけだ。
分からないから聞かれた。
だから答えた。
ただ、それだけ。
そんなレンの様子を、一人の男が見ていた。
エミール・マルソー。
彼はいつものように、表情をほとんど変えずに書類を処理している。
だが、時折レンへ視線を向けていた。
レンが誰かに質問されれば答える。
間違いを見つければ指摘する。
書類の形式について相談されれば、自分の知っている方法を教える。
しかし、決して自分から仕事を引き受けようとはしない。
そこが妙だった。
「...。」
エミールはしばらく考えたあと、席を立った。
そしてレンの机の前まで歩いていく。
「レン。」
「なに?」
「さっきの書類。」
「うん。」
「どこを見て判断した?」
レンは顔を上げた。
「どれ?」
「在庫数の間違いを見つけたやつだ。」
「ああ。」
レンは書類を取り出した。
「前月の在庫と、今月の入庫数。それから使用量を見れば大体分かるよ。」
「それだけか?」
「うん。」
「全部を確認していない?」
「してないよ。」
「なぜ?」
「全部見るの面倒だから。」
「......。」
エミールは黙った。
レンはそんな彼を見上げる。
「何?」
「いや。」
エミールは書類を見た。
「レンらしい言い分だな。」
「そう?」
「ああ。」
それだけ言って、エミールは自分の席へ戻っていった。
レンはその背中を見ながら首を傾げた。
「何だったんだろ。」
「エミールさんが自分から話しかけるの、珍しいよ。」
横からギャビーが口を挟んだ。
「そうなの?」
「そうだよ。」
「知らなかった。」
ギャビーは呆れたように笑った。
以前なら、その笑顔にもどこか競争心が混じっていた。
けれど、今は違う。
「でも、レンさん。」
「なに?」
「さっき教えてもらった書類、作ってみたんだっ!」
「見せてもらえる?。」
「どう?」
ギャビーが書類を差し出す。
レンは目を通した。
「いいと思うよ。」
「本当?」
「うん。前より見やすいと思う。」
「......!」
ギャビーの顔が一気に明るくなった。
「やった。」
「そんなに?」
「だってレンさんに褒められたから。」
「......。」
レンは少しだけ目を瞬かせる。
「そんなに喜ぶことかな。」
「反応薄い!」
「褒めたよ。」
「もっと何かあるでしょ。」
「ないよ。」
「もう......。」
ギャビーは呆れたように笑った。
けれど、その顔には以前のような悔しさはなかった。
それを見ていた周囲の職員たちも、少しだけ肩の力を抜いていた。
レンは、そのことに気づいていなかった。
***
夕方。
仕事を終えたレンが資料をまとめていると、ギャビーが声をかけてきた。
「レンさん、今日一緒に食堂行かない?」
「食堂?」
「うん。」
「......。」
レンは少し考える。
別に断る理由もない。
「いいよ。」
「本当?」
「うん。」
ギャビーが嬉しそうに笑う。
「じゃあ行こう。」
二人が立ち上がる。
少し離れたところでは、エミールがまだ仕事をしていた。
「エミールさんも行く?」
ギャビーが声をかける。
エミールは顔を上げた。
「......俺も?」
「そう。」
「珍しいな。」
「何が?」
「君から誘われるのが。」
「じゃあ来ない?」
「行く。」
エミールも席を立つ。
三人が並んで部屋を出ていく。
その光景を、残っていた職員たちは何となく眺めていた。
誰も口にはしなかった。
けれど。
二週間前まで、レンはこの部署にとって完全な部外者だった。
商会から派遣されてきた少女。
しかも、ラッセルという名を持つ。
何を考えているのか分からない。
どんな人間なのかも分からない。
だから、誰もが少し距離を取っていた。
それが今では。
仕事を聞けば教えてくれる。
間違いがあれば指摘してくれる。
自分から余計なことは言わないが、話しかければ普通に答える。
そして、本人はそのことを何とも思っていない。
いつの間にか。
レンは、この部署の中に居場所を作り始めていた。
***
「......最近、少し変わったな。」
同じ頃。
物資管理局局長執務室。
イヴは窓の外を眺めながら呟いた。
机の上には、今日提出された書類が並んでいる。
その中にはギャビーが作成した報告書もあった。
以前より整理されている。
数字の確認もしやすい。
そして、その形式は最近レンが使い始めたものとよく似ていた。
イヴは一枚の紙を持ち上げる。
「......レン・ラッセル。」
名前を呟く。
最初に彼女を見た時は、ただの商会から派遣された人間だと思っていた。
家柄に関して多少気になるところはあった。
しかし、仕事を始めてからの彼女は、そのことを一切表に出さない。
自分の家の名前を利用しようともしない。
逆に、家柄を持ち出されることを嫌っているようにも見える。
そして何より。
仕事ができる。
だが、本人には出世欲がない。
評価されたいという様子もない。
ただ、自分に与えられた仕事を効率よく終わらせようとしている。
その結果として、周囲から頼られ始めている。
「本人だけが、それに気づいていないのか。」
イヴは小さく息を吐いた。
不思議なものだった。
人間というものは、普通ならば自分の価値を高めようとする。
より良い仕事をする。
評価される。
地位を得る。
そうして、自分の居場所を確かなものにしていく。
しかし、
あの少女は違う。
居場所を求めているようには見えない。
なのに。
気づけば周囲の方から彼女のもとへ人が集まっている。
それが、イヴには少しだけ興味深かった。
「....変化、か。」
そう呟いた時。
廊下から、少女たちの話し声が聞こえてきた。
その中には、聞き慣れ始めたレンの声も混じっている。
イヴは一瞬だけ扉へ視線を向けた。
そして、すぐに書類へ視線を戻す。
レンが皇宮へ来て、まだ二週間。
けれど。
この二週間で、彼女自身が変わったわけではない。
変わったのは、彼女を見る周囲の目だった。
そして、その変化がこの先何を生むのか。
今のイヴには、まだ分からない。
ただ一つだけ。
レン・ラッセルという少女が、最初に思っていたほど単純な人間ではないことだけは分かっていた。
応援があると励みになります!!




