Case3:賢者の絵本
王都の外れ、大通りから幾重にも路地を折れた先にある煤けたレンガ造りの建物。
そこにひっそりと佇む『遺物管理局』―――通称「忘れ物センター」。
世界を救った英雄たちが命の果てに置き忘れた『未練』を回収し浄化するこの薄暗い室内で、ただ一人の職員・クラフトは今日も静かにカウンターの前に座っていた。
前回のガザムの件から数日が経過していた。
クラフトが手元にある古びたノートを開くと、自分の名前だけでなく、かつて自分が何者であったかを示す数少ない記憶の断片が、また一段と白く霞み、文字の輪郭すら曖昧に消えかけていた。
世界を修復する代償として、自らの存在の輪郭が少しずつ削り取られていく感覚。
しかし、それを恐れる間もなく、また新たな『忘れ物』がこの窓口へと届けられようとしていた。
カラン、と古びたドアベルが乾いた音を鳴らす。
やってきたのは、魔法王国の主席魔導士を名乗る老齢の男だった。
彼は疲労の色が濃く染み込んだ顔でカウンターに歩み寄り、震える手で分厚い革張りの包みを差し出した。
「・・・これを頼む。
先月、老衰でこの世を去った我が国の最高賢者のひとり。ガーランドの遺品だ。」
「賢者ガーランドの・・・。」
「そうだ。彼は生前、ありとあらゆる魔法の極意を極め、数々の神話級の災厄からこの世界を救った。
だが、その最期の日、彼はなぜか自身の魔導書をすべて焼き払い、ただ一冊の『絵本』だけを肌身離さず抱えて死んだのだ。
そして、その絵本に触れようとした者たちは皆、激しい悪寒と精神の汚染を引き起こしている。」
老魔導士が中身に触れないように慎重に包みを開く。
そこに現れたのは、表紙のめくれ、色褪せた古びた一冊の「手作りの」絵本だった。
しかし、そのページとページの間からは、ドロドロとした黒いタールのような『黒い染み』が溢れ出し、周囲の空間の魔力を激しく禍々しく歪ませていた。
「世界の理を解き明かしたはずの最強の賢者が、なぜ最期にこんな子供だましの絵本に執着したのか・・・。
私には到底理解できん。
頼む、この『未練』をどうにかしてやってくれ。」
老魔導士はそれだけ言い残すと、これ以上この忌まわしい物に近づきたくないと言わばかりに、怯えた足取りで早々に去っていった。
静まり返った室内で、クラフトはカウンターに置かれたその絵本を見つめた。
世間における賢者ガーランドの評価は、「冷徹にして無慈悲、世界の真理のみを追求した孤高の天才」だった。
感情を一切持たず、魔導の塔の最上階で世界の方程式を計算し続けた大魔法使い。
彼の研究を元にした魔道具で生活が便利になったことは数多く、民衆や国家はその知性を称え、
彼のおかげでこの世界の魔導インフラが発展したと感謝していた。
だが、この絵本から放たれる悪寒は、そんな冷徹な賢者像とは似ても似つかない、あまりにも泥臭く、深い孤独の絶望を物語っていた。
クラフトは重々しく息を吐き出すと、机の隅のノートに目をやった。
『一、私は遺物の浄化係。
二、死者の未練を、自分の手でカタチにして拭い去ること。
三、自分の名前は、クラフト』
自分の名前すら怪しくなりつつある脳で、彼は覚悟を決めるように白衣の袖をまくる。
「・・・見せてもらうか、天才と呼ばれた大賢者の最期の本音を。」
クラフトは素手でその古びた絵本を手に取り、自身の意識をその中に沈み込ませた。
―――意識が急速に暗い深海へと落ちていく。
視界が開けたとき、そこにあったのは絢爛豪華な魔導の塔の書斎ではなく、薄暗く狭い、どこにでもある小さな子供部屋だった。
そこにいたのは、白髪の老いた賢者ガーランドではなく、まだ幼い一人の「少年」の姿だった。
少年は、一冊の「手作り」の絵本を両手で強く抱きしめ、誰もいない部屋の隅で膝を抱えて震えていた。
目から止めどなくボロボロと涙が流れている。
『父様、母様・・・ごめんなさい・・・』
『ボクの・・・ボクの魔法のせい・・・、家が、村が・・・みんな消えちゃった・・・!』
少年は物心ついたときから並外れた圧倒的な魔導の才能を持っていた。
が、いくら圧倒的な魔導の才能を持っていたとしても、所詮は子供。
戯れの中で制御を失った魔法は、自分の故郷や家族をその手で焼き尽くしてしまうという残酷な事故を引き起こしていた。
―――それは彼の歴史を語る記録から抹消された事実。
絶望した少年を救い出したのは、国を統べる者たちだった。
彼らは少年の才能に目をつけ、「お前のその力で世界を救え。それが罪滅ぼしだ。」と、感情を押し殺すための冷徹な魔導の訓練を強制した。
少年は泣くことを禁じられ、友達を作ることを禁じられ、ただ 『世界を救うための道具(賢者)』として生きることを義務付けられた。
彼の人生から、かつて絵本を読んでもらえたような「温かい日常」の記憶はすべて剥ぎ取られ、代わりに頭の中は膨大な呪文と世界の方程式で埋め尽くされていったのだ。
(私は・・・ただ、あの日のあの時、この絵本の続きを母さんに読んでもらいたかっただけなのに・・・!)
それが、世界中の誰からも「偉大な賢者」と崇められた男の、最期まで誰にも言えなかった本当の願い。
すべての魔法を極め、世界の理のすべてを解き明かした男が、人生の終わりに求めたのは、複雑怪奇な魔導書でも名誉でもなく、ただ失われた子供時代の「たった一冊の絵本」だった。
その未練は強大な歪みとなり、現実世界を蝕むバグと化していたのだ。
しかし、その絵本の最後のページは、少年の事故の夜に燃え落ち、綺麗に失われていた。
意識の潜水から現実へと浮上したクラフトは、激しい頭痛と目眩に襲われ、カウンターに手をついた。
手の上の絵本からは、相変わらず禍々しい黒い染みが脈打っている。
「・・・ただ追体験するだけじゃ、この未練は消えないか・・・。」
おそらく賢者ガーランドが遺した未練の正体は、「引き裂かれた絵本の結末を知ること」、そして「幼い頃に奪われた温かい物語をもう一度取り戻すこと」だった。
しかし、その絵本の最後のページは、数十年前の事故の炎の中で完全に焼失している。
おそらく両親によって描かれた絵本。同じものは存在しない絵本。
物理的に存在しないページをどうやって再現し、この世界に認めさせればいいのか。
クラフトは自分の記憶のノートを引き寄せた。
ページをめくるたび、自分の過去に関する文字がまた一つ白く消えていく。自分が誰なのか分からない男が、他人の失われた記憶の結末を補わなければならないという残酷な皮肉。
だが、クラフトは迷わなかった。
「―――ガーランド。お前の願いを、俺が代わりに描いてやる。」
・・・・・
クラフトはガーラントの部屋にこもり、燃え残った本や書簡の類を手当たり次第に読んだ。
そして、数少ない燃え残った日記の欄外に両親への贖罪と感謝。そして―――『会いたい』という言葉を見つけた。
最後のページはハッピーエンドでなくてはならない―――。
彼はセンターの書庫から持ってきた、古い羊皮紙と色褪せたインクの羽ペンを取り出した。
そして、失われた最後のページを自分の手で描き起こす作業を始めた。
それはただの辻褄合わせの絵本作りではない。
世界を騙し続けた最強の賢者の「偽りの人生の帳尻を合わせる」、現実の理を書き換えるための命がけの創作だった。
ペンの先を走らせるたび、クラフトの脳内から、自分の「これまでの人生の選択に関する記憶」が激しい痛みを伴って剥ぎ取られていく。
自分がどんな夢を持ち、どんな人間を愛し、どんな道を歩んできたのか―――その大切な記憶の数々が、紙の上のインクへと吸い込まれるように消えていった。
「ぐっ・・・があああ・・・!」
血を吐くような眩暈と激しい吐き気に襲われながらも、クラフトは震える手で最後の一文を書き上げた。
かつて母親が幼いガーランドに読んで聞かせた、優しさに満ちた物語のハッピーエンドを思い浮かべて。
クラフトはその描き上げたページを、あの古びた絵本の破れた裂け目にそっと挟み込んだ。
そして、街の広場の一角―――今は何も無いかつてガーランドが生まれ育ち、すべてを失ったはじまりの地へ赴き、石の上にその絵本を置いた。
その瞬間だった。
絵本にこびりついていたドロドロとした黒い染みが、激しい光反応を起こして沸騰した。
歪みが現実の介入によってバグの修正を余儀なくされ、周囲の空気が黄金色の温かい光に包まれる。
空間の歪みがきしみを上げ、かつての遠い日の幻影が夜空に浮かび上がった。
『―――あぁ、温かいな・・・。』
どこからともなく、老いた賢者のものではなく、幼い少年の安らかな声が響いた。
絵本の最後のページが綺麗に繋がり、物語が完結した瞬間、黒いタールのような染みは完全に消え去り、絵本はまるであの日のように真っ新な表紙を取り戻した。
パリン、と世界に澄んだ音が響き、絵本はサラサラとした光の粒子に変わって夜空へと溶けていった。
すべての歪みが解消された瞬間だった。
静まり返った路地裏に、ひとり立ち尽くすクラフト。
「子供のころか・・・。」
自分の子供の頃の記憶は真っ白な濃い霧に包まれるように全く思い出せない。
それでも、胸の奥には、不思議なほどの静けさと温かさが残っていた。
「・・・おやすみ、ガーランド。お前の物語は、これで終わりだ」
クラフトは誰もいない闇に向かって小さく呟くと、自分の足でゆっくりと、忘れ物センターへの道を歩き出した。
世界を正しく修復するための孤独な戦いは続く。
自らの存在が完全に透明へと近づく中で、次なる忘れ物が届く音を、彼は静かに待ち続ける。




