第四話 シャドウ・タイガー
私が考えていた最適解を、その男――ザンは言い当てた。
先ほどまで恐怖に正気を失っていた彼から、これほど冷静な提案が出るとは想定外だ。
「できますか、クロムさん。……風魔法で、この霧を」
ザンの瞳には、真っ直ぐな意志が宿っていた。
(クロム様。一度、この無礼者に制裁を。貴方様に向かって『風魔法が使えるか』などと……あまりに不遜です)
脳内に響くニルの冷徹な声。
私は並行思考を回し、ザンとニル、それぞれに言葉を返す。
「はい、使えます。ただ、これほどの広範囲を吹き飛ばせるかは……やってみないとわかりません」
『ニル、落ち着け。彼らは私たちが低ランクだと思っている。至極当然の疑問だ。……今は目を瞑れ』
私の返答にザンの表情が明るくなり、逆にニルは不満げに目を伏せた。
「ちょっと、霧を晴らしてどうするのよ! まさか戦うなんて言わないでしょうね!」
腕を組み、鋭い視線をザンに向けるミルフ。
だが、ザンの答えは意外なものだった。
「……いや、今回は『戦う』のではなく『耐える』べきだと思う」
奇遇だ。
私と同意見だ。
今の彼らが勝利を欲すれば、間違いなく命を落とす。
そして、今の私は彼らの前で派手に手を貸すわけにはいかない。
ここは「逃げるが勝ち」の場面だ。
「耐えるだぁ!? 黙って殺されるのを待てってのか? そんなの、俺はごめんだ!」
負傷によるアドレナリンのせいか、ウィンが激昂し、話し合いに再び火がつく。
しかし、ザンは一歩も引かなかった。
「違うだろ、ウィン! アルディアは俺たちの故郷だ、守りたいのは当たり前だ! ……けど、それ以上に俺は、お前たちが死ぬところなんて見たくないんだよ!」
普段は冷静なザンの声が震え、その瞳には涙さえ浮かんでいた。
「それに、ここにはクロムさんやニルさんもいる。部外者の彼らまで巻き込むつもりか?」
その言葉に、ウィンは毒気を抜かれたように目を閉じた。
数秒の沈黙の後、彼は力なく吐き捨てる。
「……ちっ。悪かったよ。お前の言う通りだ、ザン」
「分かってくれて助かる。……ミルフ、作戦の構築を頼めるか?」
「えっ、私!? でも、私の作戦のせいで二人が……」
ミルフが怯えたように視線を落とす。
先ほどまでの彼女は、デッドラットの殲滅に固執するあまり、イレギュラーへの備えを欠いていた。
だが、それは任務に忠実であった証拠でもある。
何より、彼女はもう「あれ」の存在に気づいているはずだ。
今の彼女なら、全滅を避けるための最善手を導き出せるだろう。
「僕もミルフさんに任せます。先ほどのデッドラット戦で見せた采配は完璧でした。今回も頼りにしていますよ」
「クロムさんまで……。わかりました。少しだけ、時間を頂戴」
彼女は瞳を閉じ、数分間、思考の海に沈んだ。
やがて顔を上げたその目には、絶望ではなく、明確な希望の光が宿っていた。
「鍵を握るのは、クロムさんとザン、貴方たちよ」
真っ直ぐに私とザンを射抜く視線。
その様子から察するに、概ね私の想像通りの結論に至ったようだ。
「……先ほどの霧の性質、そして動きを見て確信したわ。敵の正体は『シャドウ・タイガー』。間違いなくBランク以上に相当する魔物よ」
彼女の読みは正しい。
シャドウ・タイガー――自らの魔力を霧へと変質させ、それに触れた生物の体温を探知する捕食者。
霧自体を高密度の風の刃として放つ攻撃は、並の冒険者では回避すら困難だ。
奴に「目」は存在しない。
霧こそが奴の器官なのだ。
私やニルであれば魔力探知で位置を特定できるが、彼らにその術はない。
霧を晴らして姿を晒させ、そこを叩く。定石通りの判断だ。
「奴は熱を探知するわ。だからクロムさんが霧を晴らした直後、ウィンはありったけの松明を投げ入れて。敵が熱源に気を取られている隙に、私が拘束魔法で動きを止める。ザン、ニルさんはその瞬間に全力で叩いて」
ミルフは地面に描いた地図を指し示しながら、一気に言葉を繋ぐ。
「チャンスはわずか五秒。目的はあくまで時間を稼ぎ、耐え抜くこと。……仕留めきれなくても、失敗したら即座に引いて立て直すわよ。いいわね?」
中々に悪くない作戦だ。
絶望的な状況下で、全員の役割を瞬時に構築した彼女の才覚は認めるに値する。
――だが、一つだけ致命的な問題がある。
彼女たちはまだ知らないのだ。
シャドウ・タイガーは、その名の通り実体を持たない影の獣。
たった一つの『核』――心臓以外への攻撃は、すべて虚しく空を切るという事実を。
『ニル。バレないように、奴の心臓を貫け』
(……よろしいのですか? 私がトドメを刺してしまっても)
『彼らは弱点を知らない可能性がある。この作戦の成功率は、せいぜい五割といったところだ』
熟練のBランクパーティーが、死地でようやく完遂できるレベルの作戦。
Dランクの彼らには少々荷が重い。
……もっとも、これだけの短時間でその正解に辿り着いた彼らの才覚は、賞賛に値するが。
(彼らは『耐える』ことを選択したようですが……?)
「クロムさん? 大丈夫ですか?」
返答のない私を心配したのか、ミルフが顔を覗き込んできた。
「は、はい。少し……緊張してしまって」
『彼らの力では決定打に欠ける。私が魔法で「隙」を作る。その瞬間に仕留めろ』
(御意に――)
「大丈夫ですよ。私たちがなんとかします。お二人は後ろに隠れていてください!」
ミルフが頼もしく自分の胸を叩く。
三人はそれぞれの配置についたが、その表情は硬い。
無理もない、格上のBランクが相手だ。震えない方がおかしい。
「クロムさん、お願いします!」
ミルフの合図が飛ぶ。
私は「下位冒険者」を演じながら、ゆっくりと手をかざした。
「分かりました。――風の神よ。我が道を開き、そして吹き飛ばせ。『弱風魔法』」
偽装のために、わざとらしい詠唱と仰々しい身振りを加える。
剥き出しの鋭い牙、雪のように白い毛並み。
その巨躯には雲のような魔力の奔流を纏わせ、紅蓮の瞳が周囲を睥睨する。
通常の虎の三倍はあろうかというその威容は、まさにBランクの捕食者――シャドウ・タイガーそのものだ。
ミルフが唇に指を当て、静寂を保つよう仲間に促す。
彼女の読み通り、奴は熱だけでなく音にも敏感だ。
――今。
ミルフの合図と共に、ウィンが全力で松明を投げ入れた。
案の定、奴は即座に反応し、虚空を切り裂く真空波を放つ。
轟音と共に地面が深く削り取られる光景に、ウィンたちが一瞬身を竦ませた。
だが、彼らはすぐに歯を食いしばり、意識を繋ぎ止める。
次々と投げ込まれる松明。
それに応じ、奴の攻撃が全方位へと乱れ飛ぶ。
ウィンはあえて一箇所だけ、松明を投げ入れない空白地帯を作っていた。
そこが――ザンが駆け抜けるための、唯一の「道」だ。
奴の意識が攪乱された、その刹那。
ザンが地面を蹴った。
『ニル、行け』
(御意に――)
私が直接手を下さないのは、霧を晴らす魔法に「集中しているフリ」をするためだ。 この世界の魔法使いは、単一の魔法を行使するのが基本。
複数の魔法を同時に操る『多重発動』は、Bランク上位の熟練者でなければ成し得ない高等技術だ。
低ランクを装う私が、ここで別の魔法を使えば違和感が残る。
だからこそ、ニルに任せるのが最適解だ。
ザンが剣を振り上げるその影で、ニルが『隠密魔法』を展開し、認識の外側から奴の懐へと滑り込む。
ザンが渾身の力で剣を振り下ろした――その全く同じタイミングで、ニルの手刀が奴の心臓を正確に貫いた。
それと同時に、私は『空間魔法』を極小規模で発動。
心臓から噴き出すはずの血液をすべて別空間へと転移させ、外部への飛散を完全に封じる。
致命傷を負わされたことさえ、第三者には視認させない。
シャドウ・タイガーは断末魔すら上げられず、その動きを止めた。
やがてその体は黒い粒子へと変わり、夜の闇に溶けるように消滅していく。
「嘘……勝っちゃった……?」
呆然と立ち尽くすミルフの呟きが、静まり返った広場に響いた。
「う、うおぉぉぉぉ! 勝った! 勝ったぞぉぉ!」
ウィンが両拳を突き上げ、夜の森に歓喜の声を響かせる。
その傍らで、ザンは糸が切れた人形のようにその場に座り込んでいた。
Bランクという死線を越えた彼らは、極度の緊張と興奮で、精神も肉体も限界まで摩耗していたのだろう。
ミルフが弾かれたように、二人の元へ駆け寄る。
「あんたたち、すごい……すごいよ! 耐え抜くつもりが、まさか倒しちゃうなんて!」
「ああ。ミルフの作戦が完璧だった。それにザン、お前……最後の一撃、強すぎだろ!」
ウィンが座り込むザンの肩を、興奮気味に叩く。
「……いや、たまたまだ。一瞬、奴が完全に動きを止めたんだ。隙を作ってくれたミルフとウィンのおかげだよ」
「私の拘束魔法が、あのクラスの魔物にどこまで通じるか不安だったけど……本当に効いてよかった」
安堵の息をつく彼女たち。
だが、私は知っている。
彼女の放った程度の低級魔法では、シャドウ・タイガーの魔力抵抗を貫くことなど到底不可能だということを。
(クロム様。これでよろしかったので? もっと恩を売ることも容易かったはずですが)
『何度も言っているだろう、ニル。私は「凡人」だ。目立たず、気づかれないこと。それが何より大事なんだ』
私は喜び合う彼らの元へ、わざとらしく息を切らして駆け寄った。
「すごいです皆さん! まさか、あんな怪物を倒してしまうなんて!」
「……いえ、クロムさんが霧を晴らしてくれたおかげです。本当に助かりました」
「僕はただ、必死に風を放っただけですよ。魔法使いなら誰でもできることです」
謙遜する私に、彼らは尊敬と感謝の眼差しを向ける。
やがて、リーダーのウィンが表情を引き締めた。
「ひとまず、ギルドへ報告に行こう。森にこれほどの個体がいたんだ、街にも何か影響が出ているかもしれない」
私たちは彼の提案に頷き、日が沈みかけたの森を後にして街へと急いだ。
幸い、街は平穏を保っていた。
安堵と共に、私たちはそのままギルドの扉を潜る。
「シ、シャドウ・タイガー!? そんなBランク級が森に現れたんですか!? 皆さん、ご無事なんですか!?」
報告を受けた受付の女性は、椅子から身を乗り出さんばかりに驚愕した。
無理もない。
この近辺でBランクの魔物が出現するなど、数年に一度あるかないかの非常事態だ。
「ああ、なんとかなった。だが、あの森は当面の間、封鎖して調査隊を出すべきだと思う」
「おっしゃる通りです……すぐに手配します! ですが皆さん! 無許可での高ランク討伐はあまりに無茶です! もし何かあったらどうするんですか! 分かりましたか!?」
それからたっぷり一時間。
私たちは受付嬢からこっぴどく説教を食らった。
無謀な戦いだったこと、仲間に任せなかったこと、そして――命を大切にしてほしいということ。
いいギルドだな、と私は心の中で独白する。
冒険者を消耗品と見なさず、一人の人間として案じてくれる。
その温かさが心地よかった。
ギルドを出た頃には、夜もすっかり更けていた。
戦いの緊張から解き放たれた空腹を満たすため、私たちは祝杯を兼ねた食事処へと足を向けた。
――――――――――――――――――――――――
「いやー、お疲れさまだぜ! カンパーイ!」
ウィンの威勢のいい音頭で、ジョッキとグラスが重なり合い、快い音を鳴らす。
次々と注文が飛び、テーブルの上には湯気を立てた料理が並んでいく。
店は冒険者たちで溢れかえっていた。
安くて、美味くて、量が多い。
荒事稼業の連中に愛される、活気に満ちた酒場だ。
「……本当にお二人のおかげで助かりました。ありがとうございます」
豪快に食らいつくウィンとザンに代わり、ミルフが改めて私たちに頭を下げた。
「いえいえ、気にしないでください。むしろ僕たちの方こそ。おかげさまで、今夜は野宿せずに済みそうです」
私はオレンジジュースを口に運ぶ。
爽やかな酸味の中に広がる濃厚な甘み。
戦いの後の乾いた喉に染み渡る。
「本当に、申し訳ありませんでした。……まさか、あんな危険な事態に巻き込んでしまうなんて」
「やっぱり、珍しいことなんですか?」
実際、あの森にシャドウ・タイガーが現れることなど、本来あり得ない。
初心者向けの演習場のような場所だと聞いていたが。
「ええ。少なくとも、私たちは一度も聞いたことがありません。恐らく……今回が初めてのケースではないかと」
通常出現しないはずの魔物が、不自然に現れる事象。
前世の私は、意図的にその「歪み」を作り出し、世界を混乱に陥れたこともある。
それがいかに危険な兆候であるかは、私が誰よりも熟知していた。
「そうですか。でも、皆さんの命があって本当に良かったです」
「そう言って頂けると救われます。さあ、遠慮せずに食べてください! 今日は私たちの奢りですから!」
ミルフが、私とニルの皿にこれでもかと肉料理を積み上げていく。
「あ、ありがとう……ございます」
――多い。
流石にこの量は、と言いかけて、私は飲み込んだ。
「そういえば、クロムさん」
「……何でしょうか?」
「戦っている最中、私に何か魔法をかけましたか?」
不意に投げかけられた問いに、心臓が跳ねた。
「魔法? いえ、特には。……どうかしましたか?」
「いえ。ただ……いつもより、自分の回復魔法の効果が劇的に強かった気がして」
驚いた。
ごく僅かな魔力の指向性を操作し、彼女の術式を「最適化」したのだが。
並の魔法使いでは一生かかっても気づかないはずの干渉に、まさか勘づくとは。
隠蔽が甘かったか。
私もまだまだだな。
「……あ、そういえば聞いたことがありますよ。極限状態の集中に入ると、魔法の威力が跳ね上がることがあるって。きっと、ミルフさんの実力ですよ」
「……そう、でしょうか? まあ、変に勘ぐるのも野暮ですね! 今夜は飲みますよー!」
「あはは……僕は飲めませんけど、お付き合いします」
危うい追求をなんとか誤魔化す。
視界の端では、酔っ払ったウィンが他の客と肩を組んで踊り狂っていた。
一方のザンは、よほど疲れていたのか、机に突っ伏して幸せそうな寝息を立てている。
今夜の彼らには、楽しむ権利がある。
結果として街を救い、形の上では私たちを守り抜いた。
彼らは間違いなく、この街の「勇者」なのだから。
彼らと別れたあと、私たちは宿に向かって夜道を歩いていた。
ミルフにこれでもかと詰め込まれた料理のせいで、腹が苦しい。
……正直、少し食べすぎた。
「クロム様、大丈夫ですか? お辛いようでしたら、私が宿までお連れいたしますが」
「……いや、大丈夫だ。流石にこの年でニルに担がれるのは、恥ずかしいからな」
人通りのある中で、従者に担がれる少年。
想像しただけで顔から火が出そうだ。
「担ぐだなんて、そんな。しっかりと『抱っこ』させていただきますよ。……もしそれを笑う不届き者がいれば、この街ごと吹き飛ばして黙らせますので、ご安心を」
担ぐも抱っこも大差ないし、後者の発言が物騒すぎる。
そんなツッコミは胸にしまい、私は歩調を緩めずにニルへ問いかけた。
「――森にいたあのシャドウ・タイガー。現れた理由は何だと思う?」
「あの猫ですか? 一般的には『魔力の歪み』によって生じた、と見るのが妥当かと存じますが」
魔力の歪み。
この世界には生物の身の内のみならず、大気中にも膨大な魔力が満ちている。
本来混ざり合うはずのない異質な魔力が干渉し合い、空間に「歪み」が生じる。
その特異点には、時として強力な個体が不自然に受肉することがあるのだ。 そもそも魔物とは、大気中の魔力が物質化した影のようなもの。
魔力とは、それほどまでに強大なエネルギーの源流である。
「私も同意見だ。だが、あの森にそこまで濃い魔力が滞留しているとは思えない。そんなことが、果たしてあり得るのか?」
「魔力は流体ですから。あそこは周囲に比べて標高が低い窪地でした。淀みのように魔力が溜まり、あのような雑魚が形を成した……といったところではないでしょうか」
「……まあ、深く考える必要はないか。仮にまた現れたとしても、この街にはBランク以上の冒険者は大勢いる。彼らなら、今回のように何とかするだろう」
宿に到着した私たちは、彼らから受け取った報酬をフロントに預ける。
革袋の中身は、金貨二枚と銀貨五枚。
シャドウ・タイガーの討伐、そして緊急事態の解決ということで、ギルド側が当初の依頼料を大幅に上乗せしてくれたらしい。
最初は「銅貨二枚でいい」と固辞したのだが、ミルフたちの猛烈な押しに負け、これだけの大金を受け取ることになってしまった。
凡人を装うには些か多すぎる報酬だが、今夜ばかりはふかふかのベッドで眠らせてもらうとしよう。
「そんな、クロム様! 部屋を分ける必要などございません! 私など床で十分でございます、いえ、むしろ扉の前で蹲っているのが分相応! ですから、ぜひ同じお部屋に!」
宿の廊下で、ニルが必死の形相で食い下がる。
こうなった理由は、極めて単純。
私が「部屋を二つ取った」からだ。
「金は有り難いことにこれだけあるんだ。お前も床じゃなく、ベッドでゆっくり休め」
私は金貨の詰まった袋を軽く振ってみせ、受付から渡された二つ目の鍵をニルに差し出した。
「ほら、これがニルの部屋だ。いいか? 寂しいからといって壁を壊したり、隠密で侵入したりするなよ?」
「そ、そんな! あんまりです、クロム様! どうしてわざわざ別々にするのですか!」
……男女が同じ部屋に泊まることの危うさ、なんて理由は、この忠誠心の塊には通じないだろう。
私は、彼女が最も拒絶できない「正論」を絞り出す。
「……いつも、ニルには世話になっているからな。たまには一人で羽を伸ばして休んでほしいんだ。私は、お前に無理をさせたくない」
私の言葉に、ニルが目を見開いて絶句した。
「む、無理だなんてそんな! クロム様のお傍にいることが私にとっての至福であり、疲れなど微塵も――!」
なおも食い下がろうとする彼女を遮るように、私は自分の部屋の扉を開け、素早く中へ滑り込んだ。
「私は疲れたから、もう寝る。だからニルも、隣の部屋でしっかり休むんだ。……これは『命令』だぞ」
「そ、そんな殺生なーっ!」
扉越しに、絶望に打ちひしがれたような叫びが聞こえてくる。
やがて、トボトボとした足取りで隣の部屋へ入っていく気配がした。
ようやく訪れた静寂。
私は大きく息を吐き、使い込まれたベッドに身を投げ出した。
翌朝、私たちは次の目的地へ向かうべく西門へと足を向けていた。
隣を歩くニルの表情は、相変わらず昨夜の不満を隠しきれず険しい。
……少々、突き放しすぎただろうか。
「クロムさーん! ニルさーん!」
背後から響いた聞き覚えのある声に、私は足を止めて振り返る。
「よかった……! まだ、街を出ていなかったんですね!」
肩で息を切らし、今にも倒れそうな様子で駆け寄ってきたのはミルフだった。
「ウィンとザンも叩き起こしたんですけど……あの二人、全然起きなくて。結局、私一人で来ちゃいました。ごめんなさい」
どうやら昨夜の祝杯が相当堪えているらしい。
リーダーと前衛が使い物にならないパーティーの様子が目に浮かび、私は苦笑した。
「いえ、大丈夫ですよ。昨夜は本当に楽しかったですから。……それで、どうかしたんですか?」
「あの……これ、受け取ってください!」
差し出されたのは、『アルディアの翼』と刻印された一枚のカードだった。
「これは?」
「私たちのギルドカードの複製品……いわゆる名刺みたいなものです。冒険者の間では、手を取り合った仲間同士でこれを交換する文化があるんですよ」
初耳だ。そんな洒落た文化がこの時代にはあるのか。
「そうだったんですね。……すみません、僕たちはそんなもの、持っていなくて」
そもそも、私は正規のパーティーを組んですらいない。用意しているはずもなかった。
「いいんです! 私たちが勝手に渡したかっただけですから。お世話になったお礼、というか……繋がりの証です」
そう言って、彼女は照れ隠しのように赤い髪を耳にかけた。
「ありがとうございます。大切にしますね」
受け取ったカードは、彼女たちの真っ直ぐな意志のように少しだけ温かかった。
「お二人は、これからどこへ?」
「とりあえず、王都を目指そうと考えています」
「王都ですか。それなら、次の大きな中継都市は『ギーデン』ですね」
多種族共生都市、ギーデン。
その名の通り、人族のみならず多種多様な種族が肩を並べて暮らす、この大陸でも有数の大都市だ。
アルディアとは比べものにならない規模の喧騒が、そこには待っているはずだ。
「そうですね。ここからは、やはり遠いのでしょうか?」
「私たちはまだ行ったことはないんですが、徒歩だと一週間弱はかかるって聞いています」
「一週間、ですか。……意外とかかりますね」
王都の入学試験まで、あと三週間強。
王都までの全行程を考えれば、あまりのんびりとはしていられない。
時間は十分にあるようで、実はそれほど残されていないのだ。
「もし『歩き』にこだわりがないんでしたら、あそこの店を訪ねてみるといいですよ。ギーデン行きの乗合馬車が出ているはずですから」
ミルフが指さしたのは、門の傍らにある『馬車貸し』の看板を掲げた古びた店だった。 馬車という選択肢は失念していた。
こだわりなど毛頭ないし、ここは彼女の助言にありがたく乗らせてもらうとしよう。
「ありがとうございます! さっそく行ってみますね」
「はい! ……では、また会いましょう、クロムさん、ニルさん!」
「ありがとうございました、ミルフさん。……ええ、またいつか。次はウィンさんとザンさんも一緒に」
大きく手を振る彼女と別れ、私たちは馬車貸しの店へと足を踏み入れた。
「いらっしゃい。今日はどこまでだ?」
出迎えてくれたのは、使い古された藁帽子を深く被った、人の良さそうなおじさんだった。
「ギーデンまでお願いしたいのですが、便はありますか?」
「ギーデンか、なら今すぐ出せる。……客は二人かい?」
「はい。お願いします」
そう伝えると、彼はカウンターに地図を広げた。
手慣れた手つきで、アルディアからギーデンへと続く街道に指で線を引いていく。
「このルートで行く。時間は、そうさな……二日とかからないはずだ。構わないかい?」
徒歩で一週間の道のりが、わずか二日。
大幅な時間短縮だ。
何より、体力を温存したまま移動できるのは大きな利点と言える。
「ええ、それでお願いします」
「よし! すぐに用意するから、表で待ってな」
私たちが店を出て数分もしないうちに、一台の馬車が姿を現した。
「この子は『ジジ』っていうんだ。元気な娘でね、すぐに街まで連れていってくれるぞ」
店主が愛おしそうに撫でるのは、艶やかな黒い毛並みを持つ一頭の馬だった。
瞳には強い知性が宿り、溢れんばかりの生命力を感じさせる。
「可愛いですね。……よろしく、ジジ」
私がその鼻面にそっと手を触れると、ジジは小さく鼻を鳴らした。
私の内側に眠る「何か」を感じ取ったのか、あるいはただの親愛の情か。
その黒い瞳が、じっと私を見つめていた。
ジジは友人の飼ってた猫の名前です




