第一話 『最強の敵』が生まれた日。そして『偽りの凡人』が生まれた日
『私は、死んだはずでは?』
記憶は鮮明だ。
聖剣を携えた「勇者」に心臓を貫かれた、あの確かな感触。 胸を焼くような熱い痛みがいまも泥濘のように残っている。
だが、視界に広がるのは血の海ではなく、果てのない「無」だった。
ただ、当てもなく彷徨う。
「……余計なことを」
不意に、脳を直接揺さぶるような声が響いた。
『誰だ?』
返答はない。 聞き覚えがあるような、それでいて全く見当もつかない――そんな矛盾した響きの声。
再びあたりを見回すと、漆黒の虚無の中に、先ほどまでは存在しなかった「小さな光」が灯っていた。 私は吸い寄せられるように、無意識にその光へと足を進めた。
―――――――――――――――――――――――――
「……様! 元気な男の子です!」
鼓膜を震わせたのは、聞き覚えのある老女の声。
周囲は、何やらひどく騒がしい。
「……よかった。元気に、生まれてきてくれて」
続いて聞こえたのは、若い女の声。
細く、今にも消え入ってしまいそうなほど儚い――だが、確かな慈愛を孕んだ響き。
『……なんだ? 誰の声だ、これは』
だが、私はこの声を知っている。
魂の奥底が震えるような、懐かしくも温かい記憶。
「あなたはクロム。……クロムよ」
柔らかな指先が、私の頭を撫でる。
『どうなっている。なぜ……なぜ「母上」の声がするんだ』
間違いない。
その声の主は、かつて『最強の敵』として立ちふさがった私の母。 意識を研ぎ澄ませれば、最初に聞こえたのは召使いキャロンの声。 そして遠く、父が男泣きする声まで聞こえてくる。
私は、重い瞼をこじ開けた。
視界が開けた瞬間、そこには驚きに目を見開く顔、顔、顔。
「……嘘っ! この子、もう目を開いたわ!」
「ああ……! なんて力強い目だ。きっと、とてつもなく優秀な男になるぞ!」
涙を流して喜んでいるのは、両親であるザンとベール。 これが、私の生まれた日。 そして――後に『最強の敵』と呼ばれる怪物が産声を上げた日だ。
走馬灯、という言葉がある。
人は死の間際、過去の記憶を濁流のごとき速度で追体験するという。
私も最初は、それだと思った。
しかし――。 しかし、これはあまりにも「現実」すぎないか。
肌を撫でる指の感触。 鼓膜を震わせる懐かしい声。 古びた屋敷の天井、染みの一つに至るまで。
五感に伝わる情報のすべてが、走馬灯などという淡い幻覚では片付けられないほどに生々しかった。
『父さん……! 母さん……!』
声に出して叫びたかった。
かつて『世界の敵』となる道を選んだ私が、この二人にまみえるのは何十年ぶりだろうか。
謝りたかった。
すべてを捨てて家を飛び出したことを。
道を踏み外し、悪に染まりきったことを。
――そして。あの日、二人を救えなかったことを。
残酷な未来が、脳裏に焼き付いて離れない。
この二人は、今から十年後に死ぬ。
館を襲撃した、薄汚い悪党どもの手によって。
無残に切り刻まれ、臓物をぶちまけ、四肢をバラバラにされ――最後には館ごと焼かれ、骨の一片すら残らず消えるのだ。
私がその事実を知ったのは、惨劇から二年が過ぎた後だった。
四天の一人から告げられたとき、私はもう、涙を流すことすらできなかった。
それほどまでに、心まで悪に塗り潰されていたから。
……時は、巻き戻せなかったはずだ。
至高の座に上り詰めた私ですら、過去だけは変えられなかった。
叶うなら、もう一度。
死に物狂いで願った再会が、いま目の前にある。
だから、謝りたかった。
伝えきれなかった感謝を、今度こそ捧げたかった。
私という命を産み落としてくれたことを。
あんなに不肖な息子を、愛して育ててくれたことを。
次は――。 次こそは、必ず私が救ってみせる。
運命という名の絶望から、二人を、この家を、引きずり戻してやる。
『……必ずだ。地獄の底からでも、守り抜いてみせる』
二人に抱かれた赤ん坊の瞳は、吸い込まれるような漆黒。
だがその奥底には、かつて世界を焼き尽くした『最強』の覇気と、不退転の決意を宿した「一筋の光」が鋭く灯っていた。
―――――――――――――――――――――――――
あれから、七年の月日が流れた。
この七年という時間で、確信に至った事実が三つある。
まず一つ目。
私はこの世界を知っている。
――というより、この人生を一度「経験」している。
つまり、これは私が歩んだ歴史の二周目。
いわゆる人生のリスタートだ。
二つ目。
前の人生――あえて「前世」と呼ぼう。
その前世で極めたあらゆる魔法が、この身体でも行使可能だということだ。
初めて試したのは、ようやく歩き始めた頃だった。
『……今なら『身体成長魔法』を制御できるのではないか?』そう思い立ち、自身の細胞に魔力を流し込んでみたのだ。
案の定、魔法は完璧に発動した。
無理やり筋肉と骨格を適応させ、私は生後間もなく大地を踏み締めて歩き出した。
あの時の両親の、腰を抜かさんばかりの驚きようは今でも忘れられない。
他にも「火」や「水」の生成など、基礎から奥義に至るまで自由自在。
もちろん、余計な騒ぎを避けるため、両親や他人の前では「無能な幼児」を演じているが。
そして三つ目。
この世界の争いは、相も変わらず絶えないままだということだ。
私が時間を巻き戻した(リスタートした)以上、かつて歴史に名を刻んだ『最強の敵』も、それに対抗した「勇者」の功績も、今はまだこの世に存在しない。
以上が、この三年間で整理した現状である。
『さて……』
私は、岐路に立たされていた。
前世と同じ『最強の敵』としての血塗られた道を歩むか。それとも――。
正直に言えば、再び頂点に君臨することなど、今の私には造作もない。
前世で最強の座を掴むまでには、反吐が出るほどの時間を要した。
魔法を基礎から紐解き、肉体を極限まで叩き上げ、混沌とする世界の情勢に翻弄されながら、泥を這うようにして生きてきたのだ。
振り返れば、それはあまりに過酷な道のりだった。
だが、今は違う。
究極の魔法も、至高の体術も、そして何より「これから世界に起こる悲劇」さえも、私はすべて手の内に収めている。
時間という資本は潤沢だ。
この知識と力を使えば、前世よりも遥かに早く、効率的に、世界を平定することすら可能だろう。
だが……本当に、それでいいのか?
私一人が泥を被り、苦汁をなめるだけなら、いくらでも耐えられる。
しかし、前世の私はあまりにも多くのものを喪いすぎた。
守るべきだった数えきれない命。
そして、いつしか摩耗し、冷酷に染まりきってしまった私自身の心。
他に方法はないのだろうか。
『最強の敵』として、再び世界を敵に回す以外の道が。
「クロム様ー! ご飯ですよ」
コンコン、と小気味よいノックの音。
入ってきたのは獣人族の召使い、アクシスだ。
「わかった。すぐに行く」
私がこの家を愛しているのには、理由がある。
ここには「差別」が存在しないのだ。
この世界には、獣人族を人族の奴隷か家畜程度にしか思っていない輩が掃いて捨てるほどいる。
だが、この家は違う。
種族がどうだ、立場がどうだ、そんな下らない理由で人を蔑む者は一人もいなかった。 主従としての上下関係はあれど、根底にあるのは対等な人間としての敬意だ。
だからこそ、私はこの場所を好ましく思う。
もし仮に、ここが差別を良しとするような家だったなら――。
……私が、そのすべてを塵も残さず破壊していただろう。
そんな物騒な思考を裏に隠し、私は食堂へと向かった。
「クロム、勉強の方はどうだ?」
「はい、父上。今日は政治の歴史について学びました」
温かな湯気が昇る食卓を囲み、平穏な会話を交わす。
「そうか。お前は物覚えが良いからな。これからも励むんだぞ」
「はい、父上」
『すまない父さん。……それ、私はもう「知っている」んだ』
心の中で苦笑しながら、私は穏やかに食事を進める。
だが、食後の茶を啜り、一人自室に戻った瞬間に、私の思考は再び「これから」の冷徹な策謀へと切り替わった。
『……このまま同じ道を辿るか。今なら、前世よりもずっと上手く立ち回れる確信はある。だが……問題はその先だ』
決して無視できない懸念。
それは「死後」の在り方だった。
私は確かに死んだ。
勇者の剣に貫かれ、命の灯火は潰えたはずだった。
にもかかわらず、私は今ここに生きている。
もし、同じ道を選び、同じ結末を辿った果てに、またこの赤ん坊の姿に戻るとしたら? それは救済ではなく、終わりなき無限ループだ。
そんな生産性のない時間の浪費、耐えられるはずもない。
『……別の道を探すべきか』
思考の海に沈む。
だが、代替案などそう簡単に浮かぶはずもなかった。
かつての『最強の敵』という選択すら、長い懊悩の果てに絞り出した、当時の私に取れる「唯一の最善策」だったのだから。
才能も、実力も、積み上げた経験も、振るえる権力すら持たなかった無力な私が、泥を啜りながらようやく辿り着いた答え。
『――いや、待て。 ある。あるぞ』
前世の私と、今の私。
決定的な、そして残酷なまでの「違い」が。
『……『強さ』だ』
前世では、力を手に入れるために膨大な歳月を費やす必要があった。
だが、今は違う。
私はこの小さな身体に、前世で極めたすべてを最初から宿している。
この圧倒的な暴力があるならば、もはや『最強の敵』を演じて世界を導く必要などどこにもない。
むしろ、その選択肢は今の私にとって、非効率極まりない「悪手」ですらある。
わざわざ『敵』を演じる必要などない。
この力で、直接『悪』を根絶やしにすればいいだけのこと。
幸いなことに、これからどこで誰が牙を剥くか、そのリストは私の頭の中に完璧に揃っている。
『……では、今すぐにでも始めるとするか。――いや、待て。そう単純な話ではないな』
危うく、致命的な事実を見落とすところだった。
それは、今代の『勇者』という存在だ。
世界に平和をもたらした者は、望むとざるとにかかわらず、世界から『勇者』として崇め奉られることになる。
それは、私の計画においてもっとも避けるべき事態だった。
理由は単純。
そんな大層な肩書きは私の性に合わないし、何より――本来現れるはずの「真の勇者」と存在が重なってしまう。
私が選択を変え、未来を書き換えるということは、歴史の因果を歪めるということだ。 本来、勇者とは「絶対悪」を討つことでその称号を確立する。
だが、私が先にその悪を摘み取ってしまえば、どうなるか。
歴史の修正力か、あるいは運命の悪戯か。
どこかで必ず「歪み」の埋め合わせが起きるはずだ。
『偽の勇者』となった私と、『本来の勇者』。一つの時代に二人の勇者が存在する矛盾……
そんな歪な状況は、決して許容できない。
私が勇者という表舞台に立つ選択肢は、この時点ですべて潰えた。
『……私が、直接手を下す必要はないのか?』
その思考は、一つの最適解を導き出した。
『本来の勇者』が『勇者』として覚醒するよう、影から私が手引きをすればいい。
そうすれば、私は「世界の敵」として死ぬ運命を回避でき、勇者は正しくその称号を手にできる。
時間はかかるだろうが、これこそが歴史の矛盾を避けつつ平穏を勝ち取る、最も確実な道だ。
『となれば……「手足」が必要だな』
たった一人で世界中の悪をコントロールし、勇者を導くのはあまりに効率が悪い。
分身魔法という手もあるが、今の私が出せるのはせいぜい十体ほどだ。
この世界の魔術師が同時に出せる数は平均二、三人――その三倍以上という異常な数ではあるが、それでも広大な世界を網羅するには心もとない。
やはり、信頼に足る「仲間」が必要だ。
私には、かつて命を預け合った同胞たちがいた。
私の狂った野望を知りながら、なお最後まで付き従ってくれた、愛すべき怪物共。
彼らなら、魂の底から信用できる。
『さて、ここから一番近くにいるのは……。――あいつか』
私は窓を静かに開け放った。
自身に「飛行」と「加速」――二つの魔法を二重で上書きし、星々が煌めく夜空へと音もなく飛び出した。
―――――――――――――――――――――――――
「この辺りだったはずだが」
そこは、人里から遠く隔絶された孤島。
一見すれば自然豊かな島だが、ここには獣の鳴き声も、虫の羽音すら存在しない。
この地に封印された「あいつ」が放ち続ける、禍々しい魔力の残滓に生物すべてが本能的な恐怖を抱いているのだ。
「相変わらず、ひどい威圧感だな」
私は、濃密な魔力が噴き出す中心部へと足を進める。
やがて、うっそうとした木々の合間に、古びた神殿が姿を現した。
柱は朽ち果て、天井は砂となって崩れ落ちている。
その神殿の最奥。鎮座していたのは、見紛うはずもない――ニルだった。
透き通るような白い肌に、灰色の髪。
感情を失った漆黒の瞳の奥には、かつて私と共に戦場を駆けた、底知れぬ魔力が眠っている。
「久しぶり……。いや、今の私にとっては『初めまして』かな」
私は静かに、その呪縛へと手をかざした。
「――封印解除」
解除魔法を唱えた瞬間、視界を焼き切るような光が溢れ出し、封印の枷が砕け散る。
「……私の封印を解いたのは、うぬか?」
「ああ、そうだ」
立ち上がったニルの瞳に、冷徹な殺意が宿る。
「そうか。ならば――死ね」
ニルが、無造作に腕を振るった。
回避不能の衝撃が私の右腕を襲う。
一瞬遅れて、鮮血が夜の闇に舞った。
筋肉が裂け、白い骨が露出する。
かつて私が認めた『右腕』の力は、赤ん坊上がりの脆弱な肉体には、あまりに過剰な暴力だった。
「……ほう。退かぬか。並の人間ならば、今の一撃で泣き喚き、無様に命を乞うというのに」
ニルは、欠損した私の腕を冷徹に見下ろしながら言い放つ。
対する私は、口角をわずかに上げた。
「あいにく、これを食らうのは二度目...…でな。慣れている」
「……何だと?」
絶句するニルの目の前で、私の右腕が蠢きだす。
骨が組み上がり、筋肉が編まれ、皮膚が瞬く間に再生していく。
超位の自己再生魔法。
完璧に元通りとなった拳を何度か握り込み、私はその感触を確かめた。
そして、呆然と立ち尽くすニルにその手をかざし、真言を紡ぐ。
「――記憶譲渡」
「っ! 貴様、何を……ッあ、が……っ!!」
濁流のような情報の奔流に、ニルは首の力が抜け、その場に深くうなだれた。
「私とお前の、血塗られた思い出だ。――思い出せ、ニル」
苦痛に顔を歪め、頭を抱えてのたうち回っていた彼女だったが、しばらくすると、ぴたりと動きを止めた。
「……ニル。私のことが、わかるか?」
静寂の中、彼女がゆっくりと顔を上げる。
「……はい。はいっ……! クロム様……っ!!」
「久しぶりだな。――いや、今の私には『初めまして』と言うべきかな」
私は、先ほどと同じ挨拶を再び口にした。
潤んだニルの瞳から溢れ出した涙は、月光を反射して、この上なく美しく、そして懐かしかった。
「いいえ、クロム様……お待ちしておりました。初めましてなどではございません。私は、ずっと信じておりました。貴方様が、再び私の前にお越しになられるのを」
ニルの表情には、狂信に近いほど純粋な慈愛が浮かんでいた。
先ほどまでの島を凍らせるような鬼神の面影は霧散し、今はただ、最愛の主を仰ぎ見る一人の少女の顔だった。
彼女の名はニル。
かつて私に心酔し、最期まで付き従ってくれた腹心の部下だ。
華奢な女の身でありながら、その戦闘能力は私の軍勢でも随一。
後の「四天」の中でも最強の武を誇った。
私の命を違えたことは一度もなく、任務を終えるたびに標的の肉体の一部を「証」として持ち帰る、冷徹なる暗躍の執行者。
前世では最も遅く加わった新参でありながら、その圧倒的な力で瞬く間に地位を上げ、希望の象徴とまで謳われた逸材。
いま、私の前で恭しく跪いているこの少女が、かつては返り血を浴びながら、首や腕を無造作にぶら下げていた狂戦士だとは、未だに信じがたい。
「……ニル。相談がある」
「はい。次なる任務ですね、承知しております。――どこの『誰』を消しましょうか?」
ニルは当然のように、物騒な言葉を紡ぐ。
「順序からすればエルフ族の長ですが、いかがでしょう。ご命令とあらば、明日までにはその首を」
確かに、彼女の提案は戦略的に正しい。
――もし、私が今世でも『最強の敵』を目指すのであれば。
「いや、今度は違う手を打とうと考えている」
「何か不都合でも? 障害となるのであれば、我が身を賭して排除いたしますが」
ニルの瞳に冷たい光が宿る。私は短く息を吐き、首を振った。
「……いや、そうじゃない。『最強の敵』になるのは、もうやめる」
「そんな! まさか、過去の私が何か失態を? お役に立てぬのであれば、今すぐこの首を捧げます!」
ニルは即座に空間魔法を展開し、白銀の剣を呼び出した。
迷うことなく、自らの細い喉元に鋭い切っ先を突き立てる。
「待て、早まるな。そうじゃない。目的を達成するための『手段』を変えるだけだ」
「……別の、手段? なるほど、左様でございましたか。至らぬ早とちり、深くお詫び申し上げます。……差し支えなければ、主の新たなる深謀をお聞かせ願えますか?」
私は静かに、夜空を見上げて答えた。
「ああ。今世の私は――『凡人』として生きようと思う」
「凡人、などと! クロム様ほどのお方が、そのような泥に塗れた存在になど……似合いません!」
ニルは烈火の如き勢いで首を横に振る。
その必死な様子に、私は苦笑を禁じ得なかった。
「『凡人』は『凡人』でも、目指すのは『偽りの凡人』だ」
「……偽り? それは一体、どういうことでしょうか」
「要は――表舞台には立たず、裏から世界を操る。何者でもない影としてな」
その言葉を聞いた瞬間、ニルの瞳に陶酔の色が走った。
「……っ! なるほど! 表の秩序すら盤上の駒とする、至高の策謀……。流石はクロム様です! では、私は何をお手伝いすれば?」
「まずは様子を見る。しばらくの間、私の中に潜んでいろ。少し窮屈だろうが、いいか?」
「もちろんです! クロム様と一心同体になれるなど、この上なき光栄。他の四天どもが知れば、嫉妬に狂うことでしょう」
そのあまりに重すぎる忠誠心には理解が追いつかないが、彼女には一旦退いてもらうことにした。
私が空間魔法を唱えると、ニルは清冽な光の粒子へと変わり、私の掌の中へと吸い込まれていった。
『ニル、聞こえるか?』
心の中に、念話で問いかける。
(はい。はっきりと。……貴方様の鼓動さえ、すぐ傍に感じられます)
『よし。ひとまずはそこで我慢していてくれ。また時が来れば、お前の力を借りることもあるだろう』
(御意に。すべては、主の望むままに)
かつての四天が一角――『暗躍の執行者』を再びその手中に収め、私は静かに帰路についた。
夜風を切り裂き、幼き私の体が眠る屋敷へと。
二度目の人生という盤面の上で、最初の駒は、これ以上ない形で配置された。
―――――――――――――――――――――――――
屋敷へと辿り着いた私は、寝台に身を投げ出し、次なる課題について思考を巡らせた。
この世界における「凡人」の定義とは、一体何なのだろうか。
前世であれほど奇抜、かつ凄惨な役割を担っていた私にとって、平穏な暮らしという概念はあまりに抽象的で理解しがたい。
常に数手先を予測し、平和という果実を得るために己の手を血で染め続けてきた私には、世間一般の「普通」が欠落している。
人々は何を考え、何を希み、何を指標にして生きているのか。
『ニル、一つ質問がある』
(はい。何なりと、クロム様)
私は、さっそく唯一の仲間を頼ることにした。
彼女は数千年の時を封印の中で過ごしたとはいえ、その本質は長命な魔族。
たかが数十年の生を駆け抜けた私よりも、知識の蓄積は遥かに膨大だ。
『……平凡とは、あるいは「凡人」とは、何だと思う?』
(平凡、ですか。……一般的、かつ客観的な定義で申せば、それは「生まれ」によって固定されるものと考えます。農民に産まれた者は土を耕し、鍛冶師の家系は鉄を打つ。クロム様は貴族の血筋ですので、常識的に考えればそのまま家督を継ぐことが、世に言う平凡な歩みかと)
ニルの知見によれば、どうやらそうらしい。
役割は血筋によって決定される。
いかにも退屈で、しかしそれこそが「凡人」の定義に相応しい気がした。
言い忘れていたが、私の生家は貴族である。
領地も影響力も微々たるもの、いわゆる「弱小貴族」の類ではあるが、一応は特権階級の末席に名を連ねていた。
『ということは、私がこの家を平穏に継ぐことこそが「凡人」の歩みというわけか』
(はい。しかし、大抵の貴族家の子息は、家督を継承する前に「学園」へと通うのが通例のようです)
『学園……?』
聞き慣れない単語に、私は思考を止める。
(左様です。王都にある学び舎にて、貴族としての身の振り方、魔法や勉学といった教養を修め、その後に家を継ぐのが一般的かと)
学園。
前世の血生臭い独学の日々において、一切の関わりがなかった未知の領域だ。
「学ぶ園」という名から察するに、教育機関のようなものだろう。
だが、一つ懸念すべき点がある。
『王都にあるということは、この家を離れる必要があるのか?』
(はい、左様になります。あの学園は全寮制を敷いており、生徒は卒業までそこで寝食を共にします)
『……今すぐにでも入学することは可能か?』
(いいえ、叶いません。あの学園の門を叩けるのは、十二歳からと定められています)
私の推測は当たっていた。
やはりこの「凡人」のルートに乗るためには、まだ時間が必要なようだ。
最速でも、あと五年後。
――あまりに、時間がかかりすぎる。
五年。
その歳月の間に、一体どれほどの命が理不尽に散っていくのだろうか。
前世の記憶に照らし合わせれば、想像を絶する数の悲劇が積み重なるはずだ。
指をくわえて待つには、あまりに重い時間だった。
(……クロム様)
『どうした、ニル』
(私に、一つ考えがございます)
『言ってみろ』
(……「成長魔法」を、今この時にお使いになるのはいかがでしょうか)
その言葉に、私は己の盲点に気づかされた。
一般的、魔法というものは便利ではあるが、世界の理を覆すほどの力は持たない。
だが、私は違う。
理を歪め、書き換えるだけの術理を、すでにこの掌に握っている。
『……なるほど。その手があったか。流石だニル、お前の言う通りだ』
(いえ。すべてはクロム様が比類なきお力をお持ちだからこその提案にございます)
ならば、即刻実行に移すとしよう。
「――成長魔法」
詠唱と共に、私の幼い肉体を眩い光が包み込む。
骨が軋み、筋肉が瞬く間に密度を増していく。
視界が急速に高くなり、幼児のそれから、逞しき少年のものへと変貌を遂げた。
(……クロム様。ああ、なんと懐かしいお姿でしょう)
『ああ。ニル、お前と初めて出会ったのは、ちょうどこのくらいの年齢の時だったな』
私は、ニルと邂逅した前世の記憶を反芻する。
あの時の私は、まだ「最強」には程遠かった。
だからこそ、死線を潜り抜けるような苦労を強いられた。
彼女の圧倒的な武威の前に跪き、他の四天たちの加勢がなければ、私の命はそこで潰えていたはずだ。
それほどまでに、かつての彼女は強大だった。
「さて……。問題はここからだな」
魔法で年月を「省略」できたのはいい。
だが、書き換わったのは私の肉体だけだ。
周囲にいる人間にとって、クロムは未だ七歳の幼子のまま。
幸いなことに、現時点で私の存在を知っているのは、この屋敷に仕える者たちだけだ。 ならば、解決策は至極単純。
屋敷全体を包み込む広域記憶魔法を展開し、彼らの認識を上書きすればいい。
……あたかも、クロムという少年が最初から十二歳であったかのように
世界の理をねじ伏せる大規模結界を構築することに比べれば、この程度の精神干渉など、造作もないことだ。
私は、屋敷の境界をなぞるように膨大な魔力を展開し、不可視の結界で包み込む。
「すまない。父さん、母さん……。あなたたちの『五年』を、奪うことになってしまって」
本来ならば、共に食事を囲み、日々の成長を慈しむはずだった五年という歳月。
親にとって、我が子と過ごす時間は何物にも代えがたい宝物だろう。
その輝かしい記憶を、私の都合で偽物に塗り替えてしまう罪悪感は……あまりに重い。
(……クロム様。その罪、私も共に背負いましょう)
『……すまない、ニル。助かる』
私は迷いを振り切り、深淵の術式を解き放つ。
「――偽装記録」
屋敷全体が一瞬、柔らかな光に包まれた。
世界の因果に干渉する、静かなる改竄。
――果たして、上手くいっただろうか。
『ニル、状況はどうだ?』
(はい、完璧に成功しております。ご両親を含め、屋敷内の全生命体は『クロム様が十二歳であること』を前提として認識しております。付随する記憶の整合性も取れており、精神への悪影響も一切ございません)
魔法は完全に定着したようだ。
――これで、この屋敷にいる者たちの思い出は、私の手で「偽物」へと置き換えられた。
だが、感傷に浸っている暇はない。
これでようやく、学園へと続く道が拓けたのだ。
私は、自室の窓から差し込む月光を浴びながら、一度だけ深く、深く深呼吸をした。
(クロム様ッ! 見知らぬ魔力を二つ検知……館の外からです!)
ニルの鋭い警告を受け、私は即座に窓の外へと視線を走らせた。
意識を研ぎ澄ませ、広域魔力探知を展開する。
館を包囲するように生い茂る木々の中に、潜伏する二つの反応を補足した。
『私も捉えた。ニル、見覚えはあるか?』
(いえ。……ですが、決して善意ある者の魔力ではございません。この卑劣な波長……)
探知から伝わってくるのは、隠しようのないどす黒い殺意。
まるで獲物を狙う毒蛇が放つ、冷たく、粘りつくような魔力の感触。
――それは、純然たる『悪意』の塊だった。
『ああ。同感だ。まともな客ではなさそうだな』
(いかがなさいますか? ――私が、今この場で屠ってまいりましょうか?)
正直、ニルの提案が最も確実で迅速だ。
あの程度の雑兵、彼女に任せれば瞬きする間に塵すら残さず消滅させられるだろう。
だが、安易な殺戮は今の私にとって看過できないリスクを伴う。
もし、連絡を絶ったことに不審を抱いた「背後の組織」が動き出したら?
もし、その異変に家族が気づき、平穏が崩れてしまったら?
何より、私の規格外の力が「世間」に露見してしまったら――。
取るべき行動は、ただ一つ。
『様子見だ、ニル』
(……様子見、ですか!? ……正気でいらっしゃいますか? あんなゴミ屑ども、私の手にかかれば瞬きする間に消し飛ばせますものを!)
『ああ、構わない。奴らは魔力を垂れ流してはいるが、今のところ直接仕掛けてくる様子はない。もう少し泳がせて、異変があればその時に消す。ニル、些細な変化も見逃すなよ』
(……かしこまりました。御心のままに、即座に報告いたします)
奴らの正体は何だ?
この辺りは平和だけが取り柄の田舎。
本来、あのような殺気を隠せぬ輩がうろつく地域ではない。
どこの誰の差し金かは知らぬが、私の平穏を脅かす悪だというなら容赦はしない。
――そちらがその気なら、地獄すら生温い絶望を見せてやろう
(クロム様、魔力が消失しました。撤退したようです)
『ああ。確認した』
再び窓の外へ視線を向けると、先ほどまで澱んでいた不快な魔力は、綺麗さっぱり消え失せていた。
(クロム様。……奴らの目的は、一体何だったのでしょうか)
『……おそらく、前世で私の両親を殺した奴らと同じ組織だろうな。まさか、この時期からすでに目をつけていたとは、盲点だった』
(……っ! ならば、今すぐ追いかけて皆殺しにして参ります! 腸を引きずり出し、四肢を細切れに叩き潰して、クロム様の前に並べてご覧に入れますッ!)
『その心遣いだけ受け取っておこう。だが、まだ手出しはするな』
(しかし、しかし奴らは……ッ!)
『案ずるな。すでに「印」は付けてある』
私は、奴らの影に極小の分身を潜り込ませている。
この分身がある限り、奴らが世界のどこに逃げようと、その一挙手一投足を私の掌の上で把握できるのだ。
(流石はクロム様! まさか、既にそこまで手を打たれていたとは。私めなど、到底及びもいたしません!)
ひとまずは、これでいい。
消し去る時は、根こそぎ、かつ一網打尽に。
前世の仇討ちという形にはなるが、先に牙を剥いたのは向こうだ。
目には目を、歯には歯を。
そして、絶望には更なる絶望を。
私は静かに瞼を閉じ、放った分身と「意識同調魔法」を繋ぐ。
脳裏に、夜の帳が下りた森を抜けていく二人の影が浮かび上がった。
(……クロム様。今すぐにでも、その分身の座標へ転移する許可を。あのゴミ屑どもを、奴らにお似合いの肉塊へと叩き潰したくて、血が疼いて仕方がありません……)
密閉された私の寝室が、ニルの放つ苛烈な殺気でビリビリと鳴動する。
彼女にとって、主である私に向けられる悪意は、この世の何よりも優先して排除すべき毒素なのだ。
『落ち着け、ニル。ただ殺すのはリソースの無駄だ。奴らには、組織の拠点まで我々を案内してもらう、善良なガイドになってもらう必要がある』
私は分身から送られてくる映像と音声を解析する。
奴らの足取り、呼吸の乱れ、擦れる葉音。
そして、吐き気を催すような会話の内容。
「……ケケッ、今日の調査は上々だ。あの家にはガキが生まれてやがった。あのガキをダシに使いゃあ、金も地位も思いのままだぜ」
同調を通して届く、下劣で汚濁に満ちた声。
その言葉が耳に届いた瞬間、私の心の中にあった冷淡な合理性は、静かな怒りへと塗り替えられた。
―――――――――――――――――――――――――
あの日、森に放った「印」が動きを見せてから、数日が経過した。
私はあえて「無知で無力な子供」を演じ続け、奴らが仕掛けてくるための「隙」を丁寧に演出してやった。
凡人を装うリハーサルとしては、これ以上ない舞台装置だ。
『ニル。奴らの様子はどうだ?』
(はい。相変わらず、ゴミ溜めで価値のない会話を垂れ流しております。……反吐が出ますね)
現在、私は館の裏手に広がる森の中にいた。
奴らの稚拙な人質作戦をあえて成立させてやるため、私は奴らの箱庭の中で「純真な獲物」として振る舞っている。
(……クロム様)
『どうした?』
(動き出しました。直線的にクロム様の座標へと向かってきます)
『わかった。……ようやくか』
何も知らない獲物どもが、確信を持ってこちらへ歩み寄ってくる。
森の小道で「絶好の餌」を見つけた奴らは、疑うこともなく私を捕らえるだろう。 ――あえて、捕まってやる。
その懐へと深く潜り込み、組織の全容を根こそぎ引き出す。
そして――。
「……にしても、だりぃな。あんなガキ、さっさと捕まえて殺しちまおうぜ?」
「ダメに決まってるだろ。失敗だけは許されん。それが上の命令だ」
「頭固てぇんだよ。さっさとやっちまえば、俺たちは金持ちだ。女も酒も食いもんも、一生好き放題できるってのによ……クソッ、待ちきれねぇ!」
『……想像以上のクズだな。もはや不快感すら通り越して、感心するよ』
すぐ近くの藪を分ける音がする。
耳に届くのは、救いようのない下種な野望。
死を目前にした羽虫たちの羽音が、すぐそこまで迫っていた。
茂みのすぐ向こうに、奴らの澱んだ気配がある。
私は逃げるどころか、あえて獲物を見つけた獣のように、奴らの方向に向かって全力で駆け出した。
「おっとォ! クッソガキがぁぁ! てめぇ、死にてぇのか!」
一人の男が腰の剣を抜き放ち、威嚇するように私へ振りかざす。
「うわあぁっ! ご、ごめんなさい……! 許してください……っ!」
私は茂みの向こうから現れた男たちを見るなり、大袈裟に腰を抜かしたふりをして地面にへたり込んだ。瞳には涙を溜め、震える声で「無力な子供」を完璧に演じ切る。
「ヒヒッ! 見ろよ、おあつらえ向きにガキが一人で震えてやがるぜ」
「……待て。こいつ、例の館のガキか?」
下劣な笑みを浮かべる男たちが、値踏みするように私を囲む。
そのうちの一人が私の胸ぐらを乱暴に掴み上げ、至近距離まで顔を近づけてきた。
鼻を突くのは、安酒とヤニが混じった、吐き気を催すような悪臭だ。
「おいガキ。館の中に何人いる? 宝はどこだ? 正直に答えりゃ命だけは助けてやるよ」
『……ニル、聞こえるか』
脳内で繋がったパスに、私は表の表情とは裏腹な、氷のように冷徹な意識を走らせる。
『予定通り、敵の構成員と接触した。背後関係、資金源……すべてを吐かせる。周囲の「掃除」の準備をしておけ』
(御意。既に結界の展開準備は完了しております。いつでも……心ゆくまでどうぞ)
「おい! 聞いてんのかコラッ! だんまりかよ、このクソガキが!」
男の拳が振り上げられる。
私は怯えたようにわざとらしく目を閉じ、されるがままに捕らわれるふりをした。
男たちの浅薄な会話から察するに、こいつらは組織の使い走りに過ぎない。
だが、末端であればあるほど、その「恐怖」に対する耐性は脆いものだ。
「……連れて行こう。拠点でじっくり可愛がってやれば、何でも喋るさ」
「いいな。……おい、お前ら。こいつは絶対に逃がすなよ」
男たちが私の手足を乱暴に縛り上げ、目隠しをして担ぎ上げる。
彼らが私を運ぶ先は、森のさらに深淵に隠された洞窟。
彼らにとっての安住の地は、私にとっての――「処刑場」へと変わる。
皮肉なものだ。彼らは、自分たちが獲物を仕留めたと信じて疑っていない。
だが、事実はその正反対だ。
彼らは自らの意志で、この世で最も出会ってはいけない「死神」を、自らの根城へと招き入れてしまったのだから。
『……さて、始めようか』
縛り上げられたまま、私は閉じた瞳の裏で、氷のように冷徹な微笑を浮かべた。
アジトである洞穴に連れ込まれた私は、両手両足を無造作に縛り上げられ、中央の歪な大岩に固定される。
「おい、ガキ! 殺されたくなければ、さっさと金のありかを吐け!」
「し、知りません! 本当なんです……! どうか、どうか命だけは助けてください!」
悲鳴を上げ、無様に震えながらも、私の意識は冷静に周囲を走査していた。
『大まかな人数は把握した。あとは……』
絶望に顔を歪めるフリをしながら、まつ毛の隙間から視線を巡らせる。
敵の数は、目視できる範囲で六人。
今の私の肉体であっても、片手で事足りる程度の端数だ。
「知らねぇだと? おいクソガキ。指をへし折られる痛みが、どんなもんか教えてやろうか?」
無造作な暴力。
湿った音を立てて、私の小指が本来あり得ない方向へと曲げられた。
「ギャァァァァァ! 痛い! 痛いぃ! 助けて、誰か助けて……っ!」
絶叫。
しかし、脳内は驚くほどに静止していた。
痛覚は既に魔法で遮断している。
私は転げ回る「肉体の反応」を客観的に操作しながら、闇の中の配下へと問いかけた。
『ニル。外に潜んでいる仲間はいるか?』
「ギャハハハ! 見ろよ、この無様なのたうち回り方! 最高だぜ!」
「ああ! 苦労知らずのボンボン野郎には、これくらいが丁度いい教育だなぁ!」
(はい。外部に二名。……おそらく監視、あるいは逃走防止の役目でしょう)
なるほど。
処理すべき数は八人に変更だ。
次に必要なのは背後関係。
このゴミ溜めのような連中の後ろに、どんな「元凶」が隠れているのかを暴き出す必要がある。
「……うっ、ぐ……ッ! お、お前ら……一体、誰の差し金だ……!」
『断片的でいい。思考の端緒さえ掴めれば、あとは引きずり出せる』
「はっ! 誰がてめぇみてぇなガキに名乗るかよ。なぁ、お前ら!」
大柄な男の問いかけに、アジト内が下劣な嘲笑で沸き立つ。
……決まりだ。
こいつが現場のリーダーか。
背後関係の洗出しは後回しでいい。
まずは「動機」を確認する。
単なる金か、個人的な怨恨か、あるいは組織的な命令か。
「……呪うなら、貴族なんかに生まれた自分を呪うんだな! 強い者が弱い者を喰らう。それが真理なんだよ、クソガキが!」
男の汚らしい言葉が、湿った洞窟の空気に反響する。
私は俯き、静かに思考を切り替えた。
もはや、この害獣たちのために消費する「凡人」の仮面は必要ない。
『――ニル』
(……はい。いつでも。どのような形状で、この塵を散らしましょうか?)
「始めよう」
私の唇から漏れたのは、十二歳の子供にはあり得ない、底冷えのする死神の宣告。
「あ? 何を始めるって――」
「――切断魔法」
言葉の終わりと同時に、空間が「断絶」した。
大柄な男の右腕が、肩の付け根から音もなく消失する。
コンマ数秒後、遅れてやってきた血圧の噴出。
真っ赤な生暖かい飛沫が、周囲の男たちの顔面を真っ赤に塗り潰した。
「ぐ、が……ぁ……ぁあああああああああああ!!? 痛ぇ! 熱い! 腕が、俺の腕がねぇ!! なんだよこれ! クソガキ、何をしやがったぁぁ!!」
のたうち回り、残った左手で自分の肩の断面を必死に抑える男。
だが、魔法によって切り裂かれた断面からは、血管が、神経が、剥き出しの筋肉が、まるで意志を持っているかのようにピクピクと蠢き、止まることのない鮮血を垂れ流し続けている。
「黙れ、ゴミ屑が。お前、さっき言ったよな? 強い者が弱い者を喰らうのが真理だと。……なら、今の私はお前にとっての『真理』そのものだ。そうだろ?」
私はこれまで抑え込んでいた、前世の『最強の敵』としての魔力を、物理的な質量を伴って一気に解放した。
洞窟内の空気は一瞬でドロリとした重い「毒」へと変わり、男たちの肺を、精神を、内側から押し潰していく。
「……て、てめぇ……あまり調子に、乗るなよ……! こっちの数を見ろ! 多勢に無勢だってこと、教えてやるよ……! 今なら、許してやるから……謝りやがれ……!」
恐怖で失禁しながらも、男は震える手でナイフを構える。
その惨めな姿に、脳内の声が冷ややかに響いた。
(……はぁ。相変わらず、人間という種は醜いですね、クロム様。これほど明白な死を前にして、まだ自身の立ち位置も理解できないとは)
「全員がこいつらみたいなわけじゃない。ニルも知っているだろう? 優しい人たちが、この世界にはたくさんいることを。……だからこそ、こういう『不純物』を私が取り除かなければならないんだ」
「て、てめぇ! 独りで何をブツブツ言ってやがる! 頭おかしくなっちまったのか……? ……あ? お、おい、その指……! 一体、どういうことだ……!?」
男の視線が、私の右手に釘付けになる。
さっき、彼が楽しみながら逆方向にへし折ったはずの私の小指。
そこには傷一つなく、むしろ、折られたはずの骨が皮膚を突き破って戻るのではなく、「最初から折れていなかった」かのように滑らかに、白く、美しく動いていた。
「あぁ、お披露目は初めてか」
淡々と、氷点下の温度を伴った声で告げる。
『超回復再生魔法』。
この魔法は、本来この世に存在してはならない。
肉体の欠損、臓器の破裂、果ては細胞の死滅すらも瞬時に無かったことにする、神の領域を侵犯する禁忌の術理。
さらに私はこれに、常に効果を維持し続ける『自動発動魔法』を組み込んでいる。
私が自ら解除を望まない限り、私の肉体は永遠に「全盛期」の状態を維持し続ける。
神が定めた死すらも、私の前ではただの無力な概念に過ぎない。
「……てめぇ、一体何なんだよ! ……人じゃねぇ。化け物だ! 化け物野郎ォ!!」
好きに呼べばいい。
「化け物」、「魔王」、「災厄」――そんな罵倒は前世で耳にタコができるほど浴びてきた。
私は平和という大義のために、自ら人の道を捨てた男だ。
今更、ゴミ屑に何を言われようと、私の心にさざ波一つ立ちやしない。
「……おい、ゴミ屑ども。もし『もう二度と悪事を働かない』と誓うのであれば、今ここで逃がしてやる。時間は五分だ。精々、その萎びた脳味噌で命の価値を秤にかけるんだな。……もし残るというのであれば、先ほどの腕の欠損など『慈悲』に思えるほどの苦痛を味わわせてやる」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、結末は出た。
先ほどまでの威勢はどこへやら、蛮族どもは文字通り地面に額を擦りつけ、鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにして許しを乞うた。
「ひぃぃぃ! 申し訳ございませんでしたぁ! 二度としません! 二度とこの館には近づきませんからぁ!!」
あまりに早い見切り。
あまりに浅薄な忠誠心。
仲間が腕を斬り飛ばされ、その断面から今もドクドクと鮮血を撒き散らしているというのに、彼らの関心は「いかに自分が助かるか」の一点のみに集約されていた。
(……呆れました。これが人間の本性、ですか。あまりに醜悪で、殺す価値すら感じられませんね)
『ああ。だが、こういう「自分だけが良ければいい」という思考の持ち主こそが、最も御しやすいのも事実だ』
私は地面を這いつくばる男たちの頭上から、底冷えのする視線を投げかける。
「五分も要らなかったようだな。……よし、いいだろう。消えろ。ただし、約束を違えた瞬間に、お前たちの全身の皮膚を一ミリずつ剥ぎ取って、塩を塗り込んでから生かしてやる。忘れるなよ?」
私の声を聴くや否や、男たちは弾かれたように走り出した。
俺が許す――はずがないだろう。
こんな光景は、反吐が出るほど無数に見てきた。
口では綺麗事を並べ立て、一度自由になれば再び誰かに不幸を振りまく。そんな連中だ。
「……ニル。そっちに向かった奴らを、生かしてここまで連れ戻せ。姿は問わない」
(――仰せのままに、主様)
愛らしい少女の声ではない。
それは執行者に相応しい、かつての「四天」としての冷徹な響き。
「……く、くそ! 聞いてねぇぞ、あんなの怪物だ! 人外だ! おい、死にたくなければ足を動かせ!」
見た目は子供。
だがその中身は、慈悲なき冷酷な化け物。
人の命を、蟻を踏み潰すように容易く奪える存在。
男たちは心臓が爆ぜるほど、必死に土を蹴った。
逃げるため。
ただ、死なないためだけに。
(神は、俺たちを見捨てなかった!)
(逃げるチャンスをくれたんだ!)
もう二度と悪行には手を染めない。
だから、頼む。
どうか、許してくれ。
視線の先、一筋の希望が差し込んだ。
洞窟の出口だ。
――やった。
――助かる。
――生き延びられる。
歓喜に震え、出口へ飛び出そうとした男たちの足が、凍りついたように止まる。
逆光の中、そこには「あるはずのない人影」が立っていた。
逆光に立つのは、一人の女の影。
それを認識した瞬間、内臓を素手で掴まれたような悪寒が背筋を駆け抜けた。
目の前の影が放つ、あまりに濃密で、あまりに禍々しい魔力。
それが生物としての本能を麻痺させているのだと気づくまでに、数秒の時間を要した。
「……お、おい! 貴様、誰だ……! そこをどけ!」
男の一人が震える声で叫ぶが、人影は無言で立ち尽くすのみ。
「……っ、おい! どかないなら殺すぞ!」
追い詰められた男たちは、なりふり構わずナイフや剣、斧や槍を構えた。
だが、人影はこちらの虚勢など歯牙にもかけず、音もなく歩み寄ってくる。
「お、おい……っ! 止まれ、止まりやがれ!」
「……」
「止まれって言ってんだ! 死にたいのか、殺すぞ!!」
ピタリ、と女の歩みが止まった。
「――残念です」
鼓膜を凍らせるような、あまりに冷酷な声。
「な、何がだ! いいからそこを退けと言っているんだ!」
「我が主が、貴様らのようなゴミ溜めの鼠に、わざわざ慈悲を与えてくださったというのに。……どうしてその慈悲を、自ら無下にするのですか?」
「だ、黙れ! 死ねッ!」
恐怖のあまり、男は自暴自棄に吠えた。
「主だぁ? なら都合がいい、あの化け物は俺たちを許したんだよ! 主の命令は絶対なんだろ? なら大人しくそこをどけよ!」
愚かな男たちは、自分たちが最後の手札を投げ捨てたことに、まだ気づかない。
もし、この場で這いつくばってでも謝罪していれば。
心を改め、これまでの罪を悔いていれば。
あるいは、救いがあったのかもしれないが。
「……諦めなさい、愚か者共。貴様らは自ら捨てたのだ。唯一残されていた『生きる道』を。……これは我が主が決めたこと。ゆえに、私は従うのみ」
洞窟内の空気が、澱み、凍てつく。
不気味な軋みを上げ、岩壁が急速に氷結していく。
「……クロム様を主とし、忠誠を誓いし四天が一人。ニル・ナディスティア。――これより、断罪を執行する」
刹那、爆音と共に彼女が地を蹴った。
視界から人影が消えた直後、男たちの両腕が、まるで紙細工のように容易く宙に舞った。 一拍遅れて、洞窟内に鼓膜を裂くような絶叫が轟く。
切断面から噴き出す鮮血は、天井まで届くほどの勢いで岩肌を赤黒く染め上げ、温かい血の霧が立ち込めた。
「……醜く汚らわしい血ですね。気分はどうですか?」
「ぎぃ、あぁぁぁあッ!? お、俺たちが、何をしたってんだよぉッ!」
のたうち回る男たちは、必死に止血を試みるが叶わない。
塞ぐための腕が、肘から先が存在しないのだから。
溢れ出す内臓のように血を撒き散らし、壁に断面を押し当てて焼けるような痛みに叫ぶ者。
仲間の背中に顔を埋め、血の海の中で悶絶する者。
そこは、生きたままの屠殺場へと変貌していた。
「……決まっています。主が絶対。ただそれだけのこと」
「い、いかれてやがる……! 貴様ら、狂ってるぞ!」
「……? 狂っているのは貴様らの方ではないのですか?」
ニルは首を傾げ、純粋な疑問を投げかける。
「罪なき者を陥れ、金品を奪い、最後には残虐な死を与える。……これを『狂気』と言わずして、何と呼ぶのですか?」
彼女にとっては、これこそが世界の理。
男たちが返せる言葉はなかった。
その顔に張り付いているのは、死の予感と、生存への諦観。
そして「いっそ早く殺してくれ」という無様な懇願のみ。
「……まあいいでしょう。安心なさい、私はトドメを刺しません。あくまでこれは『準備』。最後は我が主の手によって、真なる断罪が下されます。……喜びなさい」
男たちはもはや、悲鳴を上げることすら忘れて戦慄した。
これから待ち受ける「主」による拷問がどれほどのものか、想像することすら恐怖に塗り潰される。
「……そうですね。逃げられても困りますし、足も不要でしょう」
ニルは冷徹に銀剣を振り下ろした。
肉を断ち切り、骨を砕く鈍い音が洞窟に響き渡る。
逃げ場を失い、ダルマとなった肉塊たちが、自分たちの血溜まりの中で絶望に溺れていった。
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