六十六話 伯爵と伯爵令嬢
アリアドネ・ヨア・ティアリーチェ。ティアリーチェ伯爵の一人娘であり伯爵家の現時点での対外的な後継者。少し前までの彼女は、両親の愛に飢えていた。
アリアドネが生まれたのは伯爵家の領主館の一室である。母親である伯爵夫人は、出産に際して領地の屋敷に移っていた。しかし田舎での暮らしが性にあわなかったのか、産後数ヶ月してから彼女は煌びやかな王都の屋敷へ帰っていった。娘であるアリアドネを屋敷に残して。そして、滅多に領主館を訪れなかった。
アリアドネは生まれてから10年間、領地の屋敷を出たことがない。それゆえ少女は年に数回しか両親と顔を合わせることがなかった。……たった数回。そのたった数回の顔合わせで父と母に褒めてもらうため、彼女は沢山のことを学ぼうと努力した。マナー、ダンス、絵画、音楽、刺繍、歴史、算術、化学、外国語、経済学、法律、人心掌握術、護身術。小さな頭と体に詰め込むには多大すぎる勉強量をこなせば、父と母は笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、アリアドネはずっとずっと、優秀であろうと努力してきた。
──でも、それももう、どうでもいい。
自分と同じ色の瞳を持つ男を見上げて、アリアドネは再度告げた。
「どうかお願いです。……あなた自ら、自首してくださいませ」
伯爵として、貴族としての矜持が少しでも残っているのなら。領民と伯爵家使用人への罪悪感が少しでもその心にあるのなら。
そうつけ加えて眉に力を入れると、伯爵は肩をすくめて事もなげに娘を見下ろした。その冷ややかな視線に、アリアドネの小さな背中に冷や汗が伝う。
「一体なんのことを言っている?三ヶ月も寝込んで、頭が混乱しているようだな」
「混乱などしていません」
伯爵は、あくまでしらを切るつもりのようだった。……もう言うしかない。怯えと緊張を悟られぬよう相手を強い視線で見つめて、口を開いた。
「寝込む前の三月の初旬。私、偶然聞いてしまいました。……およそ五年間、事実とは異なった額の徴税額を国に報告していたそうですね。散財の末、借金もおありだとか」
三月初旬の深夜。なかなか寝付けず部屋の周りを歩いていると、ある一室で父と母が2人で酒を酌み交わしていた。そこでの会話を、アリアドネは立ち聞きしてしまったのだ。その内容にショックを受けてしまったのか、その直後、アリアドネは高熱を出して倒れてしまった。倒れたアリアドネを最初に見つけたのは父のはずだ。
「……はは、そうか。起きてすぐのあの答えは……儂を欺いたのだな」
「あの時はあなた達の会話が事実なのか夢の内容なのか、判断がつかなかったので。嘘ではありません」
数日前、長い長い眠りから目覚めてすぐのこと。伯爵がアリアドネの部屋に飛び込んできた。倒れる直前に聞いたであろう伯爵たちの会話を覚えているのか、確認したかったのだろう。それを察して、アリアドネは記憶が混濁しているふりをした。
「もう一度言います。……お父さま。脱税を犯していること、今すぐにでも陛下に告白なさってください」
「親を売るのか。大した娘だな」
皮肉ぶって笑ってみせた呑気な伯爵の様子に苛立ちを覚える。表情に出さぬよう努めながら、アリアドネはさらに言い募った。
「あなた自ら罪を自白されれば、伯爵家に問われる罪状は多少なりとも軽くなるはずです。このままでは、ティアリーチェ家自体が取り潰しになるのですよ。もしもそうなった時、我が家に仕えている使用人たちは路頭に迷ってしまいます」
「迷わせておけばよい。そんな輩」
「……は?」
心底興味が無さそうに吐き捨てた目の前の男の言葉が、アリアドネは信じられなかった。仮にも自分の家に数年仕えている使用人たち。彼らとその家族の命をどうでもよいことのように言い捨てる。目の前の人間は、本当に人間なのだろうか。
「そもそも、伯爵家は罪には問われぬ。証拠が無いのだからな。借金だって、そなたに資産家の男を宛がえばどうにでもなる。……言いたいことはそれだけか?」
肉のついた顎をゆったりと撫でながら自らを見下ろす男が、アリアドネには何か別の生き物のように思えた。自らの欲望のまま動き、他者を顧みない。理性を持ち合わせない害獣のようだ。己の身体に、この者の血が半分流れているということが信じられない。
「……いえ。今、出来ました」
目の前の人間と自分に対する嫌悪感を腹の奥に抱えて、震える息を吐く。
「陛下に罪を告白して、……伯爵位を譲ってください」
「まだ言うのか。そなたは未成年。伯爵位継承は不可能だ」
「私にではありません。レナート叔父さまにです」
余裕たっぷりにアリアドネを見下ろしていた伯爵の頬が初めて引き攣った。
「あやつは領地を治めたこともない。貴族としての振る舞いすら満足にできない。そなたの祖母に甘やかされて育った甘ったれた愚か者だ。……二度とその名を口にするな」
眉間に稲妻を走らせ憎悪に満ちた表情で伯爵はアリアドネに命じた。今にも己の首に手を伸ばしそうな剣幕の伯爵に動じないまま、アリアドネは続けた。
「領民が納めた税を我欲のために使い尽くし、ティアリーチェに仕えている使用人たちを慮らない。そんな人よりはずっと伯爵になる資格があるはずです」
「……儂はそなたを買いかぶりすぎておったようだな。今、己が誰のおかげで生活出来ているか、理解しておらぬほど愚かだとは思わなかった。しばらく蟄居して反省しておくがよい」
「どうとでもおっしゃってください。私にとっては、あなたがた伯爵夫妻よりもこの邸の使用人たちのほうが大切な存在なので。彼らを守るためならあなたがたを国にだって売ってみせます」
感情的に見えるよう早口で言い返してみせれば、伯爵はアリアドネを哀れむように見下ろした。愚かな子どもと蔑むその視線は、昔のアリアドネには恐ろしいものだったが今となってはどうだっていい。
──私は、独りじゃないもの。
三年前と今日。あの母娘から貰った励ましの言葉は、今、アリアドネを奮い立たせてくれている。
年に数回しか会わず己を道具としか見ていない薄情で自分勝手な血縁よりも、この十年間、傍でアリアドネの成長を見守り、助け、慈しんでくれた使用人たちのほうが、アリアドネにとってはずっと大切な存在だ。彼らを大切にしないのなら、アリアドネも伯爵夫妻を大切にしない。彼らからの愛情がほしいなんて、もう二度と思わない。
半ば睨み返すように伯爵を見つめていると、伯爵は大きなため息をついて扉へ向かって歩き始めた。退出する直前、少しだけ顔を振り向ける。
「……今日、そなたの元専属侍女候補が会いに来ておったな。なにか告げたか」
「あの子は私にとって妹のような子ですよ。こんなことに巻き込みたくありません」
「……ならばよい」
扉が閉まり、伯爵の足音が遠ざかっていく。その音を聞きながらアリアドネは胸に手を当てて大きく息を吐いた。今になってかたかたと手が震え始める。
「……大丈夫。大丈夫……気付かれていないはず……」
伯爵を油断させるために頭に血が上った短絡的な子どものふりをした。だから、大丈夫。アメリアンナに関することも、事実だと思っているはずだ。アリアドネがアメリアンナに手紙を渡しているなんて、思いもしないはず。
「アメリ……」
握りこぶしを額に当てて、世界で一番信頼している友人の名を呼んだ。彼女ならきっとアリアドネの望みを叶える手伝いをしてくれる。
枕元のランプの光を反射したガラス玉のブレスレットを見つめて、アリアドネの大切な存在たちが酷い目に遭うことのない未来が来ることを祈る。
血縁よりもずっと家族のように大切に思っている人々の顔を思い浮かべながら、伯爵令嬢は夜のランプに照らされていた。




