五十九話 お嬢様に会うためなら
お嬢様のお部屋までは一階分階段を下って東側へひたすら廊下を歩くのみだ。南北に客室が向かい合って連なる三階の造りとは違って、お嬢様のお部屋がある二階は、北側……正門側に廊下が続く造りになっている。少しずつ、見慣れた廊下になってきた。ただ、いつもと違っているのは……
──使用人の方々と、全然すれ違わないわ……
お兄様は気配を消して足音も立てずに歩いていたけれど、今のところ誰ともすれ違っていない。アマルダさんが事前に手配していたのだろうか。それとも、他の古株の使用人の方が……
周囲の状況に神経を尖らせながら考えていると、先を行くアマルダさんが立ち止まった。どうしたのかと顔を上げれば、見慣れた扉が目の前に立ちはだかる。
「……お部屋に入っていただけるのはアメリアンナ様のみでございます。よろしいでしょうか」
「もちろんです。妹をお願いします。ただ……」
小声で確認するアマルダさんに、お兄様が言い淀む。アマルダさんの眉がひそめられる前に、お兄様は口を開いた。
「少しだけ、二人きりにさせてあげる時間を、取っていただけませんか」
「……承知しました。では」
アマルダさんが頷くと同時に、お兄様は少し安心したように強ばった顔を緩ませる。目が合うと、微かに微笑んで頷かれた。アマルダさんが扉をそっと開いて、私たちを窺い見る。お兄様が光と水の魔法で姿を隠す。私はそれに小さく頭を下げてから、アマルダさんに近付いた。
「少ししたら、私は退出します。お嬢様の現在の容態について、お話をさせてください」
「分かりました」
白い扉が閉まって、お嬢様のお部屋に入った。懐かしい、本とぬいぐるみとインクの匂いに満ちたお部屋。以前よりも、インクではなくお花の香りが強くなっている気がした。
「……お嬢様……」
レースカーテンが上げられた天蓋ベッドの傍に立つ。枕元には大量の小さな動物のぬいぐるみたちが置いてあった。その中央に、お嬢様のお顔があった。
少し癖のある艶やかな金髪に囲まれた小さな顔は、見ていて不安になるほど真っ白だ。呼吸をしているのか確認したくなってシーツの掛けられた胸元に視線をやると、微かに上下していた。……顔色以外は、今にも起き出しそうなほど穏やかな寝顔をしているのに。
「三ヶ月前、あちらの窓から転落されてから、一度も目を覚ましていらっしゃいません。……お医者様の見立てでは、数週間で命が尽きるだろうとのお話でしたが……まだ、生きていらっしゃいます」
後ろのアマルダさんが沈痛な声で説明をする。お嬢様の寝顔をじっと見つめていたが、彼女の説明に思わず後ろを振り向く。
「命が尽きる、って……どうして」
アマルダさんは、目を伏せたまま説明をする。
「昏睡状態では、栄養の摂取が不可能なのです。普段人は食事を通して生きるのに必要な栄養を体に取り込みますが、現在のお嬢様はそれが不可能な状態にあられます。……お嬢様が未だに呼吸を続けていることに、お医者様も驚愕なさっていました」
「そんな……」
だとしたら、お嬢様はいつ呼吸を止めてもおかしくない状況にあるというのか。静かに呼吸を繰り返しながらも決して目を開くことの無い幼馴染を、再度見つめる。
「……お嬢様に触れても、よいでしょうか」
「お好きなように」
そう答えたアマルダさんは、しばらく退出する旨を伝えてから、部屋を出た。扉の閉まる音がやけに重く響いて、私はベッドの脇に膝を着いた。
「……お嬢様。アリアドネ、様」
シーツの上に力無く横たわっている小さな右手を両手でそっと握った。まだ温かいことに、ほっとする。
……寝たきりのお嬢様に対面した時、一体自分がどんな感情に苛まれるか、怖かった。罪悪感か、恐怖か、もしくは……安堵か。最後の感情が、いちばん感じたくなかった。だってそれは、自分があんな後悔に満ちた人生から逃げた代わりにお嬢様が昏睡状態になっていることを、喜んでいる気がして。
──でも、違う。今の私は……
「……お嬢様。……私ね、お父様を見つけたんです。お兄様と、兄様も。自分はひとりっ子だと思っていたんですけど……三人兄妹の、末っ子でした」
柔らかな白い手を握る手に、そっと力を込めた。瑠璃色の瞳をもう一度見たくて、じっとその顔に視線を注いだ。
「お父様もバルドお兄様もシル兄様も、とても優しい人たちなんです。お忙しいはずなのに、伯爵邸に一緒に来ることを許してくださいました。……お嬢様にも、会っていただきたいです」
今、私は、お嬢様にお会いできたことにどうしようもなく喜んでいる。温かな白い手に、静かな部屋に響く呼吸音に、開かずとも微かに揺れる金の睫毛に、心の底から安心している。お嬢様はまだ生きているという実感が湧いてきて、その手を額に近付けた。
「……アリアドネお嬢様……どうか、お願いです。目を開いて……」
お嬢様の瞳をもう一度見るためなら。この方ともっとお話をするためなら。鈴のように澄んだ声を聞くためなら。私はなんだってできる。この世に絶望して命を絶とうとしたのなら、何としてでも生きたいと思っていただく。自己満足かもしれない。わがままかもしれない。後で罪悪感に苛まれようと、恐怖に駆られようと、私はどうだっていいから。だからお願い。もう一度あなたと話したいのです。
目を閉じて本心からそう呟いた時、ふと背筋に悪寒が走った。得体の知れない恐怖と不快感に、息が止まる。……否、違う。私はこの不快感を、気味の悪い感覚を、知っている。
「……どうして……?」
──どうして。一体どうして、お嬢様からこの気配がするのか。どうして。なぜ。いつから。
一瞬感じたその感覚を再度確認するため、お嬢様の手を額に近づけて神経を尖らせる。魔力は使えないけれど、その気配ははっきりと感じ取れた。
「……カローラ、さんの」
カローラさんの気配。……正確には、人の精神を乗っ取る魔物に支配されていた時のカローラさんから感じた気配。なぜこれが、お嬢様から感じられるのか。
どくどくと早まる鼓動が耳に痛い。呼吸が次第に浅くなっていくのが分かった。敬愛する方の手を握る力が強くなりかけて、努力して力を抜いた。
三月の、お嬢様の高熱。魔力反動。飛び降り。自殺未遂。長期の昏睡状態。これだけ眠っていても痩せこけていない身体と止まっていない心臓。……あのとき、バルドお兄様はなんと言っていた……?
『人の精神に入り込んで、やがて乗っ取り……出ていく時はその人の命と魔力を根こそぎ奪い去り、出ていく』
『命を奪われなくても、そいつの残した瘴気の残滓が、その人を永遠に眠らせ続ける……』
「あの、魔物……っ!」
この状況が指し示すことは、一つだった。
──アリアドネお嬢様は、あの魔物に取り憑かれていた。
いつからかは分からない。どうして魔物がお嬢様に取り憑いたのかも。けれど間違いなく、お嬢様の自室からの飛び降りは魔物に操られての行動だろう。お嬢様は自分の意思で命を絶とうとしたのではない。そう考えると、私の知っているお嬢様の性格と、飛び降りの経緯が、ぴったりと一致した。
「……」
前時間軸でお嬢様は、裏庭に飛び降りてそのまま命を失った。自分の意思ではなく、魔物に操られた状態で身勝手にもその命を終わらせられたのだ。
「……っ」
許せない。
どうして、誇り高いこの人が、あの魔物の身勝手で命を落とさなければいけなかったのか。10歳にもなっていないうちに短い生涯を終えなければいけなかったのか。……こんな非道、許してなるものか。
「……起きてください、お嬢様」
今度こそ必ず、お嬢様を生かしてみせる。
細い手を再び握り直して、額に押し当てて強く願う。お嬢様の命が繋がるように。この方に輝かしい未来が訪れるように。誰かに操られることなく、自分自身の意志と気持ちで進む道を選択できるように。
魔物への怒りを、お嬢様への友愛に。あの日のお嬢様を喪った哀しみを、生きていて欲しいという強い願いに。お嬢様の死を汚した罪悪感を、絶対に救うという覚悟に。
自分の中に強く渦巻く感情をお嬢様への想いに変えていくと、不思議とその願いが叶うという自信に繋がっていった。
“ふふ、この子、神聖力を使おうとしてる”
“魔力を持ってるんだから、できるはずないのにね”
“でもこの子、魔力を封じているよ”
“ほんとうだ”
“これなら、神聖力も使えるね”
“屁理屈に近いけどね”
“でもちゃんと条件はそろってるよ”
“そうだね”
“力を貸そっか”
“我らが高位精霊の一番の愛し子の血を引く子だもんね”
“彼女の最期の願いを叶えてあげようよ”
“そうだね”
“それがいい”
“最高だ”
遠くに聞こえる小さな小さなはしゃぎ声。その不思議な内容に意識を向ける暇もなく、どこか重かった身体がふわりと軽くなる。身体の内部を爽やかな一陣の風が通り抜けた気がした。その風は、握った手を通してお嬢様へ吹いていく。
──もう、大丈夫だわ。
……そっと目を開いた。額に押し当てていた手を寝台の上へ戻す。息を潜めてお嬢様の顔を見つめていると、不意に手の中の右手がぴくりと動いた。
「ん……」
微かに声を漏らしながら、金の睫毛が震えてゆっくりと持ち上がる。その隙間から覗く潤んだ瑠璃色の瞳が、私を捉えた。
「あ、め……」
掠れた声で呟くお嬢様に、安心させるように微笑む。右手を押し抱いた。
「……おはようございます、お嬢様。ご気分はいかがですか?」




