五十三話 伯爵邸到着前日
かたかたと小さく揺れる馬車の音と、頬をくすぐるカーテンの感触で、目が覚めた。少し開かれた窓から、夏風に運ばれた緑の匂いがする。ゆっくりと目を開くと、馬車の揺れによって膝の上の本が落ちかけているのが見えた。
「あ……」
慌てて取ろうと手を動かすが、間に合わない。本が膝からずり落ちた瞬間、ふわりと風が舞って本を浮きあげた。手元に戻ってきたそれに安堵しつつ、目線を上にあげる。お父様と目が合った。
「おと……」
声をかけようとして、止めた。お父様が、人差し指を口元に当てたから。その様子に声を飲み込み、空色の瞳の視線の先を追う。隣のバルドお兄様に向かっていた。……すやすやと、眠っている。
「っ……?!」
バルドお兄様が眠っているところなんて、初めて見た。魔塔までの道すがらだって、眠るのは必ず私が先で、起きるのも私が後だったのだ。初めて目にするお兄様の寝顔に、目を丸くする。目をこすって再度確認したが、見間違いでは無い。
信じられない気持ちのまま、お父様の隣のシル兄様に視線を動かす。…こちらも、寝ていた。お兄様も兄様も、今日までの五日間、ずっと馬車に揺られていた疲れが溜まっているようだ。
お父様に視線を戻すと、お父様が微笑んだ。その顔に、確信する。……この顔は絶対、私たちの寝顔を見守っていらした。
「……起こしてくださればいいのに……」
小さく呟いて、風魔法に乗せて運ぶ。それを聞き取ったお父様が、可笑しそうに微笑んだ。
「みんな、気持ちよさそうに眠っていたから」
同じく風魔法に乗って返ってきた答えに、少し恥ずかしくなる。……確かに、舗装された道路を移動している時のこの程よい揺れと、爽やかな夏風、馬車の中の薄暗さは、絶妙の眠りを与えてくれた。身体は多少凝っているが、頭は休めてすっきりとしている。空を飛ぶ鳥の鳴き声も、耳に心地よい。
「ん……」
バルドお兄様とシル兄様が、ほぼ同時に目を覚ました。
「……寝てしまっていたんですね、俺」
「そうだね。三人ともぐっすり眠っていたよ」
お兄様の呟きに、お父様が穏やかな声で返した。シル兄様が、瞼をこする。
「……アメリが兄上に寄りかかって眠ってしまった所までは覚えてるんですけど……そこから先の記憶が無いです」
「俺はシルが景色を見てる途中で窓に寄りかかって眠った所までは覚えているよ」
お兄様たちの会話を聞く限り、どうやら私の寝顔は三人全員に見られていたらしい。……大丈夫だっただろうか。おかしな鼾とか、かいていなかっただろうか。
「父上。今はどの辺りでしょうか」
「先の街を出てから一時間経ったから……あと一時間ほどで伯爵領に入るんじゃないかな」
シル兄様の問いに、伯爵邸への到着は予定通り明日の朝になりそうだね、とおっしゃった。
「伯爵領……」
……とうとう、あの場所に着く。私が産まれた土地。お母さんが眠りについた土地。温かい人たちとの思い出の土地。悪夢のようだった日々の始まりの土地。
気が付くと、無意識にスカートを握りしめていた。皺がつかないように伸ばしながら深呼吸を繰り返す。
──お嬢様にも、会える。
ポケットの中のブレスレットが、小さく音を立てた気がした。
◇◇◇
数時間後。
「……それでね、その鳥がシル兄様の肩に止まって──」
湯上がりの髪をフィオレに拭いてもらいながら、今日あったことを話す。金髪を痛めないように優しい手つきで扱ってくれる彼女は、私のお喋りが一旦止まると、そっと提案をしてくれた。
「お眠りになる前に、ホットミルクを飲まれますか?目が冴えてしまっているようなので、一息ついた方が良いかと思われます」
「あ……そうだね。ありがとう、お願い」
フィオレが、ベッドを整えてくれているもう一人の私の専属侍女、ダリアに声をかける。
「ダリア。お嬢様のホットミルクを貰ってきてちょうだい」
「ホットミルクね!分かったわ。お嬢様、失礼いたします」
明るい声で頷いたダリアは、一度頭を下げると、ひまわり色の髪を揺らしながら私たち三人の部屋を出ていった。扉が閉まる音がして、部屋にフィオレと私だけが残る。髪を拭いたタオルを机に置いて、フィオレが椅子に座る私の隣に膝を着いた。ジャダ一家共通の翡翠の瞳に覗き込まれる。
「……アメリアンナお嬢様。失礼ながら、この街に着いてからずっと気が休まってないように思えます。……何か、ございましたか」
「フィオレ……」
気遣いに溢れた瞳。高ぶった気持ちを刺激しないようゆっくりと紡がれる言葉。高さの合わされた目線。……全てに主への思いやりが感じられる。……本当に……
「フィオレは……すごいね」
健康面だけでなく精神面でも仕える相手を支えることが求められる“専属侍女”として、フィオレは本当に優秀な人だ。アリアドネ様の専属侍女としての教育を受けていたから、分かる。
零れた呟きに微かに目を丸くしたフィオレに、笑いかけた。
「……ごめんね。明日、とうとう伯爵邸に着くんだって思うとドキドキしちゃったの」
「っ、お嬢様——」
私の言い分に何か返そうとしたフィオレの声に、ノックの音が重なった。ダリアの声がしたので、入室を許可する。
「ホットミルクをお持ちしました」
「ありがとう、ダリア」
カップを受け取って口をつけると、甘い牛乳の味がする。慣れ親しんだ甘さに、ダリアを見上げる。
「これ、もしかして……」
「あっ、はい。途中で魔塔主様にお会いして……お嬢様は蜂蜜が少し入ったミルクが好きだとお聞きしたので、試してみました!」
おずおずと感想を尋ねられて、カップを両手に持つ。湯に浸かっても冷たかった指先に触れるその温かさに、心がほぐれていく感覚がした。
「甘くて、美味しかった……私の好きな味付けを試してくれたのね。ありがとう」
「……よかったです!」
ダリアは、目を輝かせて嬉しそうに笑った。その表情の変化に、思わずこちらまで笑ってしまう。フィオレとダリア、両方が息を呑んだ。
「……どうしたの?」
私の顔をじっと凝視していた二人だったが、やがてフィオレがゆっくりと微笑んだ。
「……やっと、笑ってくださいましたね」
「街に着いてからずっと表情が強ばっていたから、しんぱ……んぐ」
にこにことフィオレの言葉に続けたダリアの口を、即座にフィオレが塞いだ。
「……お嬢様が負担に思ったらどうするのよ」
「あう……」
ひそひそと小さな声でやり取りする二人に呆気にとられていたが、少しずつ、二人の思いやりが身に染みてきた。……二人とも、私を心配してくれた。私たちの関係が主従関係ゆえの義務感からとか、そういうのとは違う。優しい彼女たちは、真実、心の底から、心配してくれたのだ。私が笑っただけで嬉しそうにしてくれるほど。……だったら私も、心を開きたい。この優しい彼女たちと、信頼関係を築きたい。
「……あのね、フィオレ、ダリア」
「はい、お嬢様」
「なんですか?」
かしこまって背筋を伸ばした二人に微笑む。
「少しだけ、お話してもいい?」




