四十六話 皇女ベレニーチェ
座り心地の良い黒いソファに腰掛けたまま、卓上のティーカップに手を伸ばした。香り高い紅茶の味を堪能し、目の前の人に視線を投げる。その人は、父から預かった書面に目を通すと、空色の瞳を瞬かせてベレニーチェを見た。
「……これは、陛下から預かったもので間違いないのですね」
「ええ。帝国第一皇女の名にかけて、真実です」
断言すると、彼は……魔塔主フェリシトは、手紙を丁寧に畳み、ベレニーチェに頭を下げた。
「まずは御礼申し上げます。議会の方々を説得なさるのは、一筋縄ではいかなかったでしょう」
「あなた方が我が国に反旗を翻す可能性など、万に一つもないでしょう?私たちはそれを伝えただけです」
下手を打てば誤解を生みそうなヴィザーテ家の申し出は、確かに議員たちに反対された。けれど、ここでそれを押さえるのはベレニーチェたち皇族の仕事だ。建国からの700余年、皇族とヴィザーテ家の間に築かれ続けた信頼関係を崩さないために。
「そこに書かれてある通り、条件を呑んで頂ければヴィザーテ一家の短期間の国外旅行を認めましょう」
「……陛下への、娘の拝謁ですね」
「もちろん、ご令嬢お一人でなどということは言いません」
ヴィザーテ家の、他国への旅行。その条件は、二ヶ月ほど前に存在が公表された末娘、アメリアンナの皇帝への拝謁だ。新しく加わったヴィザーテ家の人間を皇帝に拝謁させることで、ヴィザーテ家にスペランツァ帝国に背く意思はないと貴族たちに示すため。
魔塔主は、ベレニーチェの言葉に微笑みを見せた。社交用の微笑みだ。
「この条件、喜んで呑ませていただきます。陛下、殿下方のお心遣いに感謝を述べさせてください」
「お気になさらず」
……これまで公表されていなかった、ヴィザーテ家の末娘の存在。突然の公表に、良からぬ推測をする貴族も少なくない。それを、拝謁し皇帝に認めさせることで黙らせることができる。両者に得、ばかりか、ヴィザーテ家の得の方が遥かに多い。
「あなた方には、弟共々、何度も助けられました。これは私からの恩返しだとでもお思い下さい」
作った社交の微笑みに、僅かに本意を滲ませる。そうすれば、目の前の人の柳眉が僅かに動いた。
「……ヴィザーテ家は、皇家の友人ですから。当たり前のことです」
「だとしても、ですよ」
一瞬の沈黙の後、瞼を閉じた。一つ深呼吸をして瞳を開くと、回りくどい言い方は無しにして、伝えるべきことを伝える。この部屋には、魔塔主とヴィザーテ家長男、ジャダ家の老魔術師しか居ない。無駄に時間を過ごすよりは、さっさと伝えてしまった方が良い。
「……私と弟、エドアルドは、既に記憶を取り戻しています。そちらはいかがですか」
魔塔主の後ろの二人が小さく息を呑む音が聞こえた。目の前の空色が僅かに鋭くなる。
「……この部屋にいる者、ジャダ家末息子、その他大勢の者が思い出しています。未だ取り戻していないのは、シルヴィオくらいでしょうか」
「……シル、ですか」
「あの子はあの時、転移魔法を二度立て続けに使っていましたから。あと数年はかかるでしょう」
素早く遂げられた情報交換の結果を、吟味する。……あの魔法陣に関わった人間は、百人と居ない。魔塔魔術師及び魔法騎士と、皇宮魔術師、そしてアメティスタ家のあの青年ともう一人。ならば……
「……アメティスタの話は、もうお聞きですか」
「はい。……現当主の四人目の御令孫が、当主の転落事故を防いだとか」
……これで、現在の状況が把握出来た。一人、ベレニーチェたちの預かり知らぬ関係者が居るが、そちらは問題ない。この事情を伝えられるほどの時間があったとは、到底思えないから。
「そうですか。……情報の提供、ありがとうございました。弟にも伝えておきましょう」
帰ってから、更に忙しくなりそうだ。あの悲劇を防ぐため、ベレニーチェたちはあと三年という短い期間で、準備を成し遂げなければならない。
「……シルとご令嬢に、よろしくお伝えください。来る途中で簡単な挨拶しか出来ませんでしたので」
図書館で会った二人を思い出す。親友と、その妹。可愛らしい10歳のあの少女を思い出すと、口角が自然と上がったのが分かった。……ヴィザーテ家に、末の子が戻って良かったと、素直に思える。親友が、これ以上傷付くことが無くて良かったと。
……まだベレニーチェとシルヴィオが魔術学院に通っていた頃。べレニーチェの姉弟話を聞く度、彼女と四つ下の弟、皇太子の会話する姿を間近で見る度に、シルヴィオの瞳にどこか悲しげな羨望の色が過ぎっていたことを、ベレニーチェは忘れたことがない。
……シルヴィオにも弟妹は居るはずなのに、顔も性別も名前も分からない。本来なら今頃兄弟として、もしくは兄妹として、会話することが出来ていたはずなのにという苦しみ。……その辛さから親友が解放されたことを、ベレニーチェは嬉しく思った。
「分かりました。お帰りはどうなさいますか。必要とあらば魔法陣を発動させますが」
「ありがたいですが、大事にはしたくありません。魔塔区画を出れば自分で転移します。では」
ベレニーチェが退出する素振りを見せると、客間の扉が開いた。風魔法だ。相変わらず対応が早い……と感心しながら、上着掛けに掛けてあったローブを手に取る。皇宮騎士団の制服の上からそれを羽織ると、魔塔主を振り返った。その瞳をじっと見つめてから、確認する。
「……帝国のため、ひいては、この世界のため。私たちに力を貸していただけますか」
ベレニーチェのその問いかけに、魔塔主は即答した。
「勿論です」
その視線の強さに彼の覚悟を見て、微かに安堵する。ヴィザーテ家を敵に回してしまえば、混乱が待ち受けるこれから先の帝国に、未来は無いだろう。自国を愛する皇女として、それだけは避けておきたかった。
「……ありがとうございます」
今度は心からの微笑みを浮かべて、ベレニーチェは踵を返した。彼女たちに、一刻も無駄にしている時間は無い。その一つ一つの言動で、これから先の未来が変わる。まずは弟との情報共有だな、と考えて、家族に思いを馳せた。
……偉大な皇帝である父と、気品溢れる皇后である母。賢く人望に厚い自慢の弟。愛する家族が全員無事に揃っている自分は、どれほどの幸福者だろうか。
「……大切に、しなきゃなぁ……」
金の瞳を細めて、青空の下、皇女は静かに微笑んだ。その白い頬を、初夏の風が撫でていった。




