四十四話 「わがまま」
ふと、思い出した。
「……あの、お父様。少し質問をしてもいいですか?」
「うん。何だい?」
お父様と、後ろのお兄様、兄様が首を傾げる。……先程から動きが似ているところがあって親子だなあとどこか感心しながら、尋ねる。
「どこの家の紋章か、分からないものがあって……お父様は、見れば分かりますか?」
「帝国の貴族のものなら分かるよ」
……さすがだ。帝国の貴族名欄には、主要な貴族の紋章しか載っていなかったから、あのハンカチの紋章が分からない。もしかしたらという予想は付いているが、お父様に確認しておきたい。ポケットからハンカチを取り出した。
「この紋章なのですが……」
ラベンダーの紋章。白いハンカチを広げて施されたお母さんの刺繍を見せる。……お母さんの好んだ花、グレタさんがお父様たちでなく私にこのハンカチを渡すべきだと思った理由、ラベンダー色。これらを考慮して目星をつけていたが、お父様の発言でそれが正しいと証明された。
「……ヒーリエ伯爵家の紋章だね。アリアナの刺繍かな?」
一瞬目を見張って、これまで以上にふわりと優しく微笑んだお父様が答える。その後ろのお兄様たちが小さく息を呑んだのが分かった。
「……ヒーリエ家の紋章、なんですね……」
予想が当たっていたことに嬉しいような、どこか複雑な気持ちになりながら頷く。グレタさんにいただいたということを告げると、お父様の表情が少し陰った気がした。その後のお父様の説明によると、ヒーリエ家には紋章を刺繍したハンカチを家族に贈る風習があったらしい。だからこれも、その一環なのだろうと。……その話を聞いて、気持ちが固まった。
「……ヒーリエの風習だというのは分かってますが……私も、いつかお父様たちにヴィザーテの紋章の刺繍を贈ってもいいですか?」
この風習は、ヒーリエのものであってヴィザーテのものではない。母方の実家の風習だから、この家に持ち込むのは失礼かもしれないとは分かっている。けれど……お父様たちに、私に出来ることで何かを返したいのだ。与えられてばかりは嫌だ。感謝の気持ちを伝えたい。刺繍なら、お母さんほどではないけれど私だってそれなりに得意だから。部屋に置いてきた、今日買った刺繍道具を思い出す。
「君が?」
ハンカチをそっと握りしめてお父様を見上げた私に、御三方は少々面食らったようだ。三人とも驚いた顔をしている。
「嬉しいよ。けれど……」
「……アメリアンナは、もう刺繍ができるの?」
お父様とお兄様がおっしゃる。こくりと頷くと、シル兄様が少し心配そうな顔をして、尋ねた。
「無理する必要は無いぞ?」
「……刺繍自体はできます。時間はかかってしまいますが……」
ヴィザーテの紋章はまだ見たことがないが、練習を重ねれば出来るようになるはず。どれだけ時間がかかってもいいから、三人に刺繍を贈りたかった。
お兄様と兄様は、互いに不安そうな視線を交わすと、お父様を見た。背後からの視線を感じ取ったのか、お父様は静かに口を開いた。
「……怪我をしないと、約束できるかい?」
「……善処しますが、確定は出来ません……」
バツが悪くてうわ目がちにお父様を見上げると、お父様は小さく苦笑しておっしゃった。
「……怪我をしたら、すぐに手当てするんだよ?」
「はい」
「刺繍は、必ず大人と一緒にすること。グレタでもカッソでもいいから」
「分かりました」
頷くと、お父様は目を伏せてわずかの間考え込んでから、嬉しそうに微笑んだ。ありがとう、と告げられる。
「……それらが守れるなら、ありがたく受け取るよ」
「……っ、ありがとうございます!」
嬉しくて口角を上げながら感謝を告げると、お兄様たちも許可してくださった。
「君の安全が保証されるなら、俺も欲しいな」
「急がなくていいから、俺の分もくれるか?」
「もちろんです……!」
出会ってから与えられてばかりだった私が、三人に何かを返すことが出来る。すごく嬉しかった。刺繍は、必ず完成度を最高峰に上げてから贈ろう。この感謝の気持ちを伝えるためのものなのだから、生半可なものは贈れない。
決意を胸に瞳を輝かせていると、私たち兄妹のやりとりを微笑んで見守っていたお父様が手を伸ばして私の頭を優しく撫でる。突然のことに驚いてお父様を見上げると、優しく笑った。
「他に、何かしたいことや欲しいものがあったら、遠慮なく言うんだよ。それらは本来君がこの10年間で受け取るべきだったものなのだから。僕が与えられる限りのものを、君に贈ろう」
どこか憂いを帯びた微笑みが気になった。バルドお兄様が誰にも気付かれぬよう後ろで拳を握りしめ、シル兄様が真っ直ぐ私とお父様を見つめる。私はそれに気付かぬまま、自然と口を開いていた。
──この話題は、口にしては駄目だと思っていた。まだ、今、話すことじゃないと。でも……今言っておかないと、私はこの先ずっと、心休まらないままだ。
呼吸を繰り返して、ゆっくりとその言葉を音に乗せる。
「……フラエルム王国の、ティアリーチェ伯爵領の共同墓地……」
伯爵家の名前を出すだけで、心臓がどくんと脈打った。お母さんとお嬢様を亡くした日の夕方の、伯爵の姿が脳裏によぎる。母の墓を利用してアリアドネお嬢様の真似をするよう言われたあの時の恐怖が、体を震えさせた。最後まで言い切ってしまおうと、急いで呼吸を呑む。
「っ……そこに、お母さんのお墓があって……ここに、移してほしいです……手続きが複雑なのは分かっています。国を超える移動になるから、お金だって、たくさん…わがまま、ですけど……でも、伯爵領に残しておきたくないんです…!」
後半は半ば急き立てられるように早口になっていた。恐怖で心臓が凍ったような感覚だった。何を言いたいかもまとまらないまま、口を動かす。ただ、あの場所にお母さんのお墓を残しておきたくない。ありえない事だが、万が一、億が一にでも、お母さんのお墓に何かされてしまったら。伯爵が、また脅してきたら。ありえない事だと理解している。教会の決まり上、お墓を勝手に移動させられることは無い。伯爵がそこまで私に害を加えようと執着するはずもない。……頭では分かっていても、心はあの時の恐怖を覚えている。
「アメリアンナ」
いつの間にか、がたがたと震えていた私をお父様が抱きしめていた。初めて会った日の時のように、頭と背中を撫でられる。あの時と違ったのは、状況を理解した瞬間に気分が落ち着いたことだ。息が上がって過呼吸を起こしかけていたのが、ゆっくりと呼吸を繰り返すことで落ち着いていく。お父様の優しい香りに気が付くほど落ち着いた頃には、恐怖は薄まっていた。息が整ってもお父様にしがみついたままの私に、お父様が尋ねた。
「……大丈夫?」
「……はい……」
でも、離れたくない。今お父様から離れると……この温もりから離れてしまうと、お母さんの死を思い出して感情が決壊してしまいそうだった。悲しみと恐怖がぶり返して、息が止まってしまいそうだった。
そんな私を理解していたのか、お父様は引き剥がそうとしないまま話を続けた。
「アリアナの……お母様のお墓を、こちらに移動させたいんだね?」
「はい」
暫く沈黙が続く。断られるかもしれない、と不安になってお父様のローブの肩のところをぎゅっと握りしめた。
「……共同墓地か……そう、アリアナはそこに眠っているんだね」
「お父様……?」
独りごちたお父様を、そっと顔を上げて見る。空色の瞳を一度瞬いたお父様は、安心して、とおっしゃった。
「すぐにでも、手配する。……アリアナのお墓は、僕も気にかかっていたんだ。伯爵領にあるだろうとは思っていたけれど、共同墓地だったんだね……」
まるで私たちがティアリーチェ伯爵領で暮らしていたことを知っているかのような物言いに、首を傾げる。そんな私をお父様が椅子に座らせ、お兄様が水を与え、兄様が肩掛けをかけてくださる。目を回す暇もないまま、お父様が説明を始めた。
私がお父様に渡した、お母さんの鍵付きの日記帳。それを読めば、お母さんがアリアドネお嬢様の教育係の一人として働き、私がお嬢様の専属侍女候補でお友達だったことが分かったのだそう。それを知ったお父様は、数日前、伯爵領の教会に問い合わせの手紙を送ったらしい。あと数週間で返事が届き、お墓の場所が分かるだろうと思っていたが、早く知れてよかった、とおっしゃる。お父様とお母さんの婚姻の証明書はきちんと保管されているから、お墓の移動の手続きはすぐに済むだろうとまでおっしゃってくださった。
「そんなに……早く……」
呆然と話を聞き終える。もはや、お父様が居れば、怖がるものなんてないのではないか。お母さんはまさか、ここまで予測して、お父様にあの日記帳を預けるように書いたのか。……否、考えすぎだろう。
「……あ、ありがとうございます」
「家族だろう?大切な人のお墓のそばに居たいのは、当たり前のことだ。僕たちだって、アリアナのお墓のそばに居たい。……こんなの、わがままでもなんでもないよ」
ゆっくりと、手を握りながら語りかけられて、欲が出る。……それなら、もう一つ、叶えてもらえないだろうか。
「……それなら、今度こそ、わがままを聞いてくれますか?」
「うん。なんだい?」
頷いたお父様と、その後ろから膝を着いて私を覗き込むお兄様、兄様に視線を送る。
「お父様。バルドお兄様。シル兄様。私、家族で……四人で、行きたいところがあるんです」
三人が、同時に目を見開いた。




