四十二話 3月29日
その後、ジュストさんとのお話を終えて戻ってきたシル兄様と共にジャダ邸を後にし、兄様と共に街を巡った。太陽はちょうど真上を通過した頃。日の入りにはまだずっと時間があった。相変わらず街での通行人からの好奇の視線は集まるが、それにも慣れてきたと思う。既に街には何度か降りてきているため、顔見知りの店主さんなどもできてきた。……主に、書店や簡易図書館やお菓子屋さんなど。
「今日はどこに行きたい?書店か?」
「……そんなに、書店に行きたそうにしていますか……?」
初手で行き先を当てられて、恥ずかしさから目を逸らして頷く。それから、グレタさんに頂いたものが入った布袋に視線を落とした。……ハンカチ……刺繍、か。
「あの、兄様。書店の次にもう一箇所、行きたいお店があるのですけれど、良いですか?」
「書店のほかに?……お菓子は、今日は我慢してくれよ?」
「お、お菓子じゃないです!」
グレタさんの所でも少し食べたのに。そんなに食いしん坊じゃありません!と抗議すると、兄様は微かに笑って頷いた。それならいいよ、と。
「それじゃあまずは書店だな」
「はい」
書店に入って、いくつか気になる本を選んで、与えられたお小遣いの範疇に留まるようにお会計をする。書店のあとのお店で買うものも考えて、本は二、三冊に留めておいた。シル兄様も何か本を買われたようで、片手に袋に包んだそれを抱えられていた。
「研究に使う本ですか?」
「あー……ちょっと違う、かな。まあ、気にしないでくれ」
「わかりました……」
兄様の買い物に首を傾げながら、他のお店で兄様に内容を教えずに“それ”を買い、屋敷に帰った。夕食までは、傾き始めた夕日を時折部屋の窓辺から眺めながら、本を読んで時間をつぶす。今日は夕食の用意の手伝いはしなくて良いと言われていたので、少し物足りなかった。
「……そうだ」
橙色の夕焼けに照らされたお母さんの刺繍を眺めていると、ふと思い立った。静かに部屋を出て、三つ隣のお母さんの部屋の扉の前に立つ。ひとつ深呼吸をしてから、室内に誰もいないことをノックで確認して部屋に入る。
「あ……」
夕焼けに照らされた薄紫の部屋はとても綺麗で、知らずに感嘆のため息をついていた。特にこだわりは無かったため、私の部屋は空色と白を基調としたシンプルな内装にしたのだが、この部屋の妖精の住処のように繊細な内装を見ていると、もう少し凝ってもよかったかもしれないと思ってしまう。
──って、いけないわ。私は部屋に見とれるために入ったんじゃないのよ。
白机の上の母の刺繍箱を慎重に開き、何か参考になるものがないか探してみる。けれど作りかけのものは何一つなくて、肩を落とす。
「どうしよう……」
何も案が思いつかないのだ。参考になるものが無かったら、ますます困るのだけれど……。再度ハンカチを広げて刺繍を眺める。
──そもそもこの模様、紋章のようだけれど……どこの家のものなのかしら。
ラベンダーが含まれた美しい紋章。ヴィザーテ家ではない……と、思う。紋章はその家の理念や特徴を表すものだから。ヴィザーテ家の紋章は魔法にちなんだものになるのではないだろうか。
思案に余ってため息をつきながら時計を見ると、そろそろ夕食の時間だった。慌てて刺繍箱を閉じてハンカチをスカートのポケットに入れる。扉を開けて廊下に出ると、ちょうどシル兄様が歩いてきていた。
「あ」
お互いの声が重なる。
「お夕食ですか?」
「うん。……母上の部屋に居たのか」
こくりと頷く。シル兄様はそれ以上は追求されなかったので、少し安心した。並んで食堂まで歩いていく途中で、兄様が口を開く。
「なあ、アメリアンナ」
「なんですか?」
シル兄様は言い淀むように唇を引き結んで目線を一瞬逸らした。その様子は、言葉に悩んでいるように見えた。けれど直ぐに目を合わせて、尋ねる。
「これまで、誕生日はどんなことをしてきたんだ?」
「誕生日……」
誕生日。……誕生日か……。視線を落として、朧気な記憶を頼りに言葉を紡ぐ。
「……身近に、私と同じ日に生まれた方がいらっしゃったので……誕生日のお祝いはその方と一緒でした。ケーキを一切れいただいたり、お祝いの品を贈っていただいたり……今は短いですけれどこの間までは長かったので、特別に髪を複雑に結ってもらったり……していました。他には……」
……何があっただろうか。以前お母さんや伯爵邸の人々にお祝いをいただいたのが九年以上前なので記憶が曖昧だ。それに自業自得だが、アリアドネお嬢様として生きたあの時は、16になるまで誕生日なんて誰にも祝われなかった。16歳と17歳の誕生日では、私が王立学園の春の休暇中に誕生日を迎えると知ったルカが、休暇に入る前に王都でちょっとしたお菓子を買ってきてくれたが、それも未来のことだし。
……昔はもっと楽しみにしていたものだが、今ではもう誕生日というもの自体に、心躍ることはなくなった。
つらつらと記憶の中の出来事を語っていると、じっと耳を傾けているシル兄様に気がつく。長話を聞かせ続けてしまったことに青ざめた。
「あ、す、すみません……!つらつらとまとまりもなく……」
「……幸せな誕生日を過ごしていたんだな。それが知れてよかった」
目を細めた兄様が、ぽつりと呟く。
「……ここでも、これまでと同じくらい……これまで以上に幸せな誕生日を迎えてくれるといいけど」
シル兄様が、食堂の扉の前に立ち止まる。閉まった光沢のある木製の扉に、私は違和感を覚えた。
──いつもなら、ここの扉は開け広げられているはずなのだけれど、どうしたんだろう……
兄様が、扉をノックした。ややあって、中からお父様とお兄様の返事が返ってくる。兄様は、それを聞くと扉の取っ手に手をかけたが、すぐには開こうとしなかった。
「……アメリアンナ。今日が何日か、分かるか?」
「えっ……」
振り向いて唐突に尋ねられ、咄嗟に答える。
「確か、3月29日……え?」
3月29日。つまり。
思い当たった私の様子に小さく口角を上げたシル兄様が扉を開いた。同時に、美味しそうなご馳走の香りが鼻をくすぐる。卓上には、沢山の食事が並べられていた。……どれも、私がこの二週間で特に気に入った食事ばかり。そして、その食事の真ん中に飾ってある、ホール状のケーキ。
「……今日…わたし……」
呆然と食事を眺める私に、密かに視線を交わしあったお父様とお兄様と兄様が、同時に語りかける。
「10歳の誕生日、おめでとう。アメリアンナ」
……今日は私の、誕生日だ。




