四十話 シルヴィオの思い
シル兄様たちの、実母……ということは。
「……前の奥様ですか……?」
兄様たちのお母様のことが気になって、グレタさんにそれとなく聞いたことがある。お父様とは家同士が取り決めた幼い頃からの婚約者だったらしい。
「……ああ」
シル兄様は、花から視線を外して私と目を合わせた。その瞳に刹那、何らかの感情が浮かんでいた気がして小さく息を呑む。
「兄上の名付けの時は、父上が特に多忙な時期だったからな。……ちなみに、兄上が得意なのは魔力観察だよ」
「あ……そう、なんですね。そういえば確かに、お兄様は悪い物に気付くのが早かったです……」
話題を、逸らされた。今、明らかに、私に前の奥様について聞かれるのを避けていた。シル兄様は、私に実母について聞かれたくないのだ。その事実に、心臓が嫌な音を立てた。
……考えてみたら、当たり前だ。兄様は私を妹として認めてくださっているし、お母さんのことも母として慕っているようだ。けれど、だからといって自分の実母に対する感情が消えるわけじゃない。踏み込まれたくない大切な記憶のはずだ。……いくら家族でも、踏み込まれたくない部分はある。わきまえなれば。……きらわれたく、ないから。
「……悪い物?」
怪訝そうに聞き返され、嫌な速度で鼓動していた心臓が跳ね上がる。つっかえながらも、答えた。
「あっ……はい。入国する時の船で、人の精神を乗っ取る魔物だって、お兄様が……」
「なっ……」
空色の瞳が、愕然と見開かれた。すぐにその瞳に恐怖と焦燥の色が過ぎって、兄様の手が私の両肩を掴む。痛くはなかったけれど、出会ってから常に冷静だった兄様らしくない乱暴さだった。
「怪我は無かったのか?辛い目に遭わされたりは?ああ、でも、二人が何も言わなかったってことは何も無かったのか……?とにかく、何か嫌なことはされなかったか?」
「えっ、は、はい……?」
怒涛の質問責めに、目を回しながら何とか首を振る。大丈夫だと答えれば、兄様は長い長い息をついた。眉を寄せて下を向いて吐かれるため息は、安堵の感情がこもっているように思えた。
「よかった……」
私の肩に置かれた腕が、細かく震えていた。その震え方に、ふと、あの魔物と対峙したあとのバルドお兄様のやり取りを思い出す。あの時のお兄様も、こうやって震えていた。……思えば、お父様もだ。初めて会った時、お父様は私に、生きていてくれてよかったとおっしゃった。
──もしかして、ヴィザーテ家とあの魔物、何か因縁があるのかしら。
「……悪い。取り乱して」
兄様の謝罪に、ハッと我に返る。思考に浸りすぎていた。気付かれていない……ようだ。よかった。
「……悪いが、今日の実践訓練は、ここまででいいか?他の座学なら、教えてやれるから……」
「ありがとうございます。でも、シル兄様はいいのですか?」
「……落ち着いてからするよ。それまでは屋敷内で本でも読もう」
「わかりました……」
その日は、それから夕食まで、ずっと室内で過ごした。時折、本の中で分からないことがあって兄様に教えてもらったりもしたが、それ以外、兄様はずっと唇を噛んで窓の外を眺めていた。
◇◇◇
夕食後、アメリアンナを部屋に送ってから、シルヴィオは父と兄に会いに行った。幸いにも、二人は共に食堂に残っているようだった。
「……シル?」
自室に戻らず食堂に降りてきた弟に、兄がどうしたのかと尋ねた。感情的にならないよう気をつけながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……父上。兄上。アメリアンナはここに来る途中、“奴”に遭遇したそうですね」
「……アメリアンナに聞いたのかい?」
父の確認に、こくりと頷く。ぐらぐらと自分の中に怒りが渦巻いているのが分かった。
「どうして……俺には教えてくれなかったんですか」
「……お前は、帰ってきたばかりだっただろう。心労をかけたくなかったんだよ」
「……っ、それでも……!」
極力声を荒げないように注意を払っても、押し殺した声から溢れ出る怒りは治まらなかった。
「俺は、妹がそんな目に遭っていたなら、すぐにでも知っておきたかった……!自分の疲れなんてどうだっていいから……!」
左腕の肘の当たりをつかんで、震える吐息を飲み込む。腹の奥に煮えたぎる怒りがあった。父や兄に対するものでは無い。情報を共有して貰えなかった、未熟な自分に対する怒りだった。
「シル……っ」
「兄上。父上。俺はもう、成人しました。魔術学院だって卒業した。魔塔の採用試験にだって、合格した。力のない頼りない子供じゃありません。……話の外に置いていないで、俺も、二人と一緒に、向き合わせてください……!」
心臓部に手を当て机に手を置いたシルヴィオが、椅子に座ったままの二人を真っ直ぐ見つめる。心の底からの願いが込もった、切実な視線だった。悲痛な小さな呟きが、半ば叫ぶように口から零れた。
「……俺はっ……俺だって、……もう、家族を喪いたくないんです……!」
机の上の左手を、ぎゅっと握りしめる。自分は、父や兄とは違って、“あの時”……母と慕う相手を失った時、まだ幼かった。きっと、理解できてないことだって沢山あったはずだ。父や兄に比べれば義母との思い出も少ないし、幼かったから記憶もあやふやだ。けれど、確かに彼女は、あの人は、シルヴィオが生まれて初めて母と慕い、母子として関わることのできた相手なのだ。シルヴィオの、母上だ。
シルヴィオのそんな叫びに、父は静かに答えた。
「……ごめんね。シルヴィオ。……本当に、すまない」
「……はい……?」
唐突な父の謝罪に、シルヴィオの激情がわずかに治まる。父は、困惑気味なシルヴィオの視線を真っ向から受け止めて、口を開いた。
「……この件に関しては、もう少ししたらお前にも伝えておこうと思っていたんだ。……でも、そうだね。……君はもう、向き合う覚悟は決まっていたんだね」
フェリシトは、心底申し訳なさそうに瞳を伏せると、小さく微笑んだ。我が子の成長を喜ぶというよりは、罪悪感が勝っている表情だった。軽く俯いていたためシルヴィオからは表情の全ては見えていなかったが、隣に座るバルドヴィーノは、その表情を見て密かに眉間にしわを寄せ、そっと目を逸らした。
「……これからは、お前にもきちんと情報を伝える。必ず伝えると約束しよう。だから……お前は絶対に、無茶をしてはいけないよ」
冷静な同じ空色の瞳に見つめられて、シルヴィオが狼狽えた。そこには確かに、シルヴィオに対する信頼があったからだ。……これまで、これほどに真っ直ぐな痛いほどの信頼の眼差しを父から受け取ったことがあっただろうか。どこまで行っても父がシルヴィオを見る瞳は、守るべき対象を見る目だったのに。
「……はい。お願い、します……」
怒りがすとんと抜け落ちて、困惑したまま頷いたシルヴィオに、父が優しく笑った。今度は、親が見守るべき可愛い子を見る瞳だった。父の変化に着いていけてない弟を見ながら、バルドヴィーノは小さく呟いた。
────家族を、喪いたくない……か。
「喪わずにすんだら、いいな……」
小さな、ちいさな、呟き。吐息にも近かった。シルヴィオには聞こえていない。けれど、父、フェリシトには聞こえているかもしれない。バルドヴィーノは、それでいいと思った。お互いに様々な心情を抱えた三人は、そのまま解散して、各々自室に戻った。




